口実
うだるような暑い夜。
大学近くの河川敷には老若男女がひしめいて、夜空を見上げてわあわあ歓声を上げていた。これぞ黒山の人だかりという感じ。黒山を構成する一部のわたしは、ひときわ目立つ白銀の髪をもつ男に恋い焦がれながら、大学の仲間と夏を楽しんでいた。
「ん」
「ありがと」
手にわざと触れながら、結露まみれでびしょびしょの缶チューハイを受けとる。
夜の闇では色味がわかりにくい赤い瞳をじっと見て、すかさず視線に熱をこめる。しかし視線は無慈悲にもそらされて、となりに移ってしまった。
ずっとこんな感じだ。ふつうに優しいし、笑いかけてもくれるのに、これ以上の何かになれない。
花火を肴に、わたしたちはとにかく笑った。
屋台で買った食べ物を落としては笑い、口元にソースをつけては笑い、缶ビールのプルトップを開けた瞬間に中身がプシャッと吹き出しても笑った。
もはや何が面白いのか分からないが、大学最後の夏休みを根こそぎ楽しもうとする心意気と、夕方前から飲みつづけた酔いがそうさせたのだと思う。
けらけら笑っているうちに、せっかく買ったかき氷がしゃばしゃばに溶けてしまって、みんなで見せ合って笑った。わたしのイチゴのかき氷は真っ赤などろっとしたものになり果て、天元のレインボーのかき氷は何色もの絵具を溶かしたような複雑な色をしていた。
端に座る友だちが、殺到した人の波で電車に乗れなくなるから、花火が終わる前に帰りたい、と言った。最後までここにいることを選べば、駅までつづく大名行列の一員になってしまって電車を何本も見送るのは確実だった。
時間の経過とともにどんどん斬新で華美になる花火を横目に、飲み終えた缶チューハイの空き缶や、食べ終えた焼きそばのパックをまとめたり、のろのろと片づけをはじめた。
ドォーン……パラパラパラ……ドォーン……パラパラパラ……。
「おおっ派手でいいなあ。きれいだ」
火薬のにおいと、どよめきと、熱気。暗闇にまるくひらく閃光。
なんてきれいなんだろう。
なんでこの人の心の中に入れないんだろう。
夜空に咲く大輪の花を見上げる顔は上機嫌で、白銀の髪にも赤い瞳にも鮮やかな光が踊っていた。花火なんて心底どうでもいい。仲間に気づかれるリスクを気にする頭もなくなって、この光景を少しも零したくなくて、瞬きもせずに天元だけを見つめた。
そろそろ行くかあ、と荷物やゴミを手に持った友だちが、ひとり、またひとりと立ち上がって歩きはじめ、それにつづいて立ち上がりかけた汗ばんだTシャツのそでを引っ張った。
「なに」
「うち、来ない? 花火見えるよ」
「……」
目尻が上がった涼やかな目は、真顔になると迫力があって怖い。
何を言い出したんだ、みたいな顔しないで。自分でもそう思ってるから。
仲間との別行動をうながして、空がふつうによく見える河川敷から移動して家で見ようなんて、目的はひとつだ。あからさまで、必死すぎるのはよく分かっている。
でも、やっとフリーになったこの瞬間を逃したら、すぐにまた人のものになっちゃうでしょう?
「ここ混んでるし、めっちゃ暑いしさ。あ、歩いてそんなに遠くないんだよ。冷蔵庫にお酒もあるし」
この河川敷を駅とは逆方向に十五分ほど歩けばわたしのアパートだ。引くに引けなくて、へたくそな誘い文句が口からつらつら流れ落ちていく。
きれいに整った真顔がくずれたかと思うと、ぶふっとふき出した。表情の変化についていけずに様子をうかがうしかなくて、はちの字まゆ毛で笑う顔を見つめる。
「いや、だって、ずいぶんとまあ派手に誘われてんなって」
忍び笑いをする顔を見ていたら、どうしてもこの人が欲しいと思う。気分屋で、ひたすらにつかみどころがない自由人。いつだってするする逃げられてきたけれど、今日は引くに引けない。
「だめ?」
ぎゅっとにぎりつづけていたTシャツのそでを離して、芝生の上に置かれた大きな手に触れる。
「――いいけど」
この答えがもらえるまで、たっぷり三秒ほど。あまりに作為的で、ひどく思わせぶりな三秒は喜びを倍増させた。
誘い文句につかわれただけで、すっかり蚊帳の外になってしまったかわいそうな花火は、相変わらずドンドンという音を発して、花ひらいては散っていく。
「いたっ」
立ち上がろうとすると、足が痛んだ。
鼻緒で擦れた足の親指の皮がめくれて、赤く生っぽい肉が顔を出し、やけに水っぽい透明の液が流れていた。
浴衣というものは見た目は涼しげだし、非日常感でテンションは上がるけれど、実際に着てみると困ることが多い。着慣れないし、着くずれたらだらしなくなるし、暑いし。浴衣を着る理由なんて、好きな人に見てもらってかわいいと思われたいからだ。それ以外にない。少なくともわたしは。
「痛そ。ここで待ってて。あいつらに声かけてくる」
黒山のかたまりのなかを、白銀があっという間に遠ざかっていった。戻ってくるまでの間に、絆創膏を不格好にたくさん貼りつけて傷口を隠した。
「持ち帰りかよって言われたわ」
「え」
「持ち帰られんの俺なのにな」
なあ?、とからかうように顔を覗きこまれた。本当にもうどこまでもそのとおりなので、うん、と返事をするしかなかった。
「足、大丈夫か?」
「うん。手つないでいい? 転びそうになったら怖いし、はぐれたら嫌だし」
「どーぞ」
差しだされた大きな手に触れると、くるむようににぎられた。
人いきれの中、天元と手をつないで夜道を歩く。大義名分をつけて獲得したこの状況は、夢にまで見ていたシチュエーションのひとつだ。汗でペタペタした手のひらをくっつけて歩くことは、よくわからない焦燥感で泣きそうになるほど幸せだった。
他の人たちから見れば、カップルに見えているんだろうなあと思う。でも、実際はちがう。天元に対する行動や言葉のすべてに、あれやこれやと意味や理由をもたせずにはいられない。予防線を張りめぐらせないと、なんの行動もできない。
顔が見たいから会いたい、好きだからそばにいたい。そんな気持ちをシンプルに伝えられる関係は遠い世界の夢物語のようだ。
他愛もない話をしていたら十五分などあっという間に過ぎて、わが家に着いた。
せまい玄関で居心地悪そうにしている大きな靴と、せまいワンルームに押し込められて窮屈そうな大きな身体。窓を開けると、離れた河川敷から花火の音が聞こえる。
ベランダに出た天元が笑いだす。
「なんだよ、これ。ほとんど見えねえじゃん」
そう。
角度も悪いし、さえぎる建物の存在もあるし、わが家から見える花火は欠けてしまっている上に小さい。必死の誘い文句は、めったに見ないレベルの悪徳誇大広告でしかなかった。
ベランダに出て、クックッと笑う天元の横に立つ。やっぱり花火なんかどうでもよくて、そんな彼の顔をじっと見つめて、ごめんね、と言った。
「そんなに俺に来てほしかったんだ?」
黙ってうなずくと、あっそォ、と言うなり唇を重ねてきた。
熱い空気に包まれながら、安いかき氷の合成着色料で染まった舌を絡める。イチゴのかき氷を食べたわたしの舌は赤く染まっているだろうけど、レインボーのかき氷を食べた天元の舌は何色なんだろう。
青色? 黄色? 緑色?
確かめる余裕すらない。
花火を口実に誘ったはずなのに、ドォーン……パラパラパラ……という遠くの音を聞くだけで、ぬるぬるとした感触やときおり漏れる吐息の切なさに、思考回路のスイッチが次々に切られていく気がした。
ひとしきりキスを繰り返していた唇が離れたまま、先を進めようとしてこない。そして、この距離で目を合わせていたら、ある事実に気づいてしまった。
いや、ちがう。とっくに知ってた。その赤い瞳には温度も湿度もないことに。
「誘ったのわたしだし、絶対にめんどくさいこと言わないし。せっかく来たんだし、ね?」
つよく望む気持ちも、何がなんでも拒否する気持ちもない。誘われたからなんとなく来てみました――。そんな顔をしている人の太い首に腕をまわして身体を押しつけると、おもしろいものを見るような顔に変わった。
「最後はどんな口実でくんのかな、って思ってよ」
いつの間にか花火が終わり、静けさがおとずれた部屋にぽとりと落とされた言葉。
いたずらっぽく笑うと、さっきよりも深いキスを降らせてきた。ひと夏どころかひと晩で終わってしまうかもしれない。花火みたいだ。パッと咲いて、パッと散って、夜空に一瞬だけ咲くことを許される花。
今夜が未来につながることはないだろう。それでもいい。この数時間、赤い瞳に映るのはわたしだけ。器だけでも欲してもらえれば。
本当の気持ちを差し出して、それを受けとってもらえないよりずっといい。
これからだって、いくらでも作ればいい。この人の気持ちがなんとなく向くような口実を。そして何より、わたし自身をだます口実を。
煽るように身体をなでる手の熱さに自分だけが火を灯されていった。
大学近くの河川敷には老若男女がひしめいて、夜空を見上げてわあわあ歓声を上げていた。これぞ黒山の人だかりという感じ。黒山を構成する一部のわたしは、ひときわ目立つ白銀の髪をもつ男に恋い焦がれながら、大学の仲間と夏を楽しんでいた。
「ん」
「ありがと」
手にわざと触れながら、結露まみれでびしょびしょの缶チューハイを受けとる。
夜の闇では色味がわかりにくい赤い瞳をじっと見て、すかさず視線に熱をこめる。しかし視線は無慈悲にもそらされて、となりに移ってしまった。
ずっとこんな感じだ。ふつうに優しいし、笑いかけてもくれるのに、これ以上の何かになれない。
花火を肴に、わたしたちはとにかく笑った。
屋台で買った食べ物を落としては笑い、口元にソースをつけては笑い、缶ビールのプルトップを開けた瞬間に中身がプシャッと吹き出しても笑った。
もはや何が面白いのか分からないが、大学最後の夏休みを根こそぎ楽しもうとする心意気と、夕方前から飲みつづけた酔いがそうさせたのだと思う。
けらけら笑っているうちに、せっかく買ったかき氷がしゃばしゃばに溶けてしまって、みんなで見せ合って笑った。わたしのイチゴのかき氷は真っ赤などろっとしたものになり果て、天元のレインボーのかき氷は何色もの絵具を溶かしたような複雑な色をしていた。
端に座る友だちが、殺到した人の波で電車に乗れなくなるから、花火が終わる前に帰りたい、と言った。最後までここにいることを選べば、駅までつづく大名行列の一員になってしまって電車を何本も見送るのは確実だった。
時間の経過とともにどんどん斬新で華美になる花火を横目に、飲み終えた缶チューハイの空き缶や、食べ終えた焼きそばのパックをまとめたり、のろのろと片づけをはじめた。
ドォーン……パラパラパラ……ドォーン……パラパラパラ……。
「おおっ派手でいいなあ。きれいだ」
火薬のにおいと、どよめきと、熱気。暗闇にまるくひらく閃光。
なんてきれいなんだろう。
なんでこの人の心の中に入れないんだろう。
夜空に咲く大輪の花を見上げる顔は上機嫌で、白銀の髪にも赤い瞳にも鮮やかな光が踊っていた。花火なんて心底どうでもいい。仲間に気づかれるリスクを気にする頭もなくなって、この光景を少しも零したくなくて、瞬きもせずに天元だけを見つめた。
そろそろ行くかあ、と荷物やゴミを手に持った友だちが、ひとり、またひとりと立ち上がって歩きはじめ、それにつづいて立ち上がりかけた汗ばんだTシャツのそでを引っ張った。
「なに」
「うち、来ない? 花火見えるよ」
「……」
目尻が上がった涼やかな目は、真顔になると迫力があって怖い。
何を言い出したんだ、みたいな顔しないで。自分でもそう思ってるから。
仲間との別行動をうながして、空がふつうによく見える河川敷から移動して家で見ようなんて、目的はひとつだ。あからさまで、必死すぎるのはよく分かっている。
でも、やっとフリーになったこの瞬間を逃したら、すぐにまた人のものになっちゃうでしょう?
「ここ混んでるし、めっちゃ暑いしさ。あ、歩いてそんなに遠くないんだよ。冷蔵庫にお酒もあるし」
この河川敷を駅とは逆方向に十五分ほど歩けばわたしのアパートだ。引くに引けなくて、へたくそな誘い文句が口からつらつら流れ落ちていく。
きれいに整った真顔がくずれたかと思うと、ぶふっとふき出した。表情の変化についていけずに様子をうかがうしかなくて、はちの字まゆ毛で笑う顔を見つめる。
「いや、だって、ずいぶんとまあ派手に誘われてんなって」
忍び笑いをする顔を見ていたら、どうしてもこの人が欲しいと思う。気分屋で、ひたすらにつかみどころがない自由人。いつだってするする逃げられてきたけれど、今日は引くに引けない。
「だめ?」
ぎゅっとにぎりつづけていたTシャツのそでを離して、芝生の上に置かれた大きな手に触れる。
「――いいけど」
この答えがもらえるまで、たっぷり三秒ほど。あまりに作為的で、ひどく思わせぶりな三秒は喜びを倍増させた。
誘い文句につかわれただけで、すっかり蚊帳の外になってしまったかわいそうな花火は、相変わらずドンドンという音を発して、花ひらいては散っていく。
「いたっ」
立ち上がろうとすると、足が痛んだ。
鼻緒で擦れた足の親指の皮がめくれて、赤く生っぽい肉が顔を出し、やけに水っぽい透明の液が流れていた。
浴衣というものは見た目は涼しげだし、非日常感でテンションは上がるけれど、実際に着てみると困ることが多い。着慣れないし、着くずれたらだらしなくなるし、暑いし。浴衣を着る理由なんて、好きな人に見てもらってかわいいと思われたいからだ。それ以外にない。少なくともわたしは。
「痛そ。ここで待ってて。あいつらに声かけてくる」
黒山のかたまりのなかを、白銀があっという間に遠ざかっていった。戻ってくるまでの間に、絆創膏を不格好にたくさん貼りつけて傷口を隠した。
「持ち帰りかよって言われたわ」
「え」
「持ち帰られんの俺なのにな」
なあ?、とからかうように顔を覗きこまれた。本当にもうどこまでもそのとおりなので、うん、と返事をするしかなかった。
「足、大丈夫か?」
「うん。手つないでいい? 転びそうになったら怖いし、はぐれたら嫌だし」
「どーぞ」
差しだされた大きな手に触れると、くるむようににぎられた。
人いきれの中、天元と手をつないで夜道を歩く。大義名分をつけて獲得したこの状況は、夢にまで見ていたシチュエーションのひとつだ。汗でペタペタした手のひらをくっつけて歩くことは、よくわからない焦燥感で泣きそうになるほど幸せだった。
他の人たちから見れば、カップルに見えているんだろうなあと思う。でも、実際はちがう。天元に対する行動や言葉のすべてに、あれやこれやと意味や理由をもたせずにはいられない。予防線を張りめぐらせないと、なんの行動もできない。
顔が見たいから会いたい、好きだからそばにいたい。そんな気持ちをシンプルに伝えられる関係は遠い世界の夢物語のようだ。
他愛もない話をしていたら十五分などあっという間に過ぎて、わが家に着いた。
せまい玄関で居心地悪そうにしている大きな靴と、せまいワンルームに押し込められて窮屈そうな大きな身体。窓を開けると、離れた河川敷から花火の音が聞こえる。
ベランダに出た天元が笑いだす。
「なんだよ、これ。ほとんど見えねえじゃん」
そう。
角度も悪いし、さえぎる建物の存在もあるし、わが家から見える花火は欠けてしまっている上に小さい。必死の誘い文句は、めったに見ないレベルの悪徳誇大広告でしかなかった。
ベランダに出て、クックッと笑う天元の横に立つ。やっぱり花火なんかどうでもよくて、そんな彼の顔をじっと見つめて、ごめんね、と言った。
「そんなに俺に来てほしかったんだ?」
黙ってうなずくと、あっそォ、と言うなり唇を重ねてきた。
熱い空気に包まれながら、安いかき氷の合成着色料で染まった舌を絡める。イチゴのかき氷を食べたわたしの舌は赤く染まっているだろうけど、レインボーのかき氷を食べた天元の舌は何色なんだろう。
青色? 黄色? 緑色?
確かめる余裕すらない。
花火を口実に誘ったはずなのに、ドォーン……パラパラパラ……という遠くの音を聞くだけで、ぬるぬるとした感触やときおり漏れる吐息の切なさに、思考回路のスイッチが次々に切られていく気がした。
ひとしきりキスを繰り返していた唇が離れたまま、先を進めようとしてこない。そして、この距離で目を合わせていたら、ある事実に気づいてしまった。
いや、ちがう。とっくに知ってた。その赤い瞳には温度も湿度もないことに。
「誘ったのわたしだし、絶対にめんどくさいこと言わないし。せっかく来たんだし、ね?」
つよく望む気持ちも、何がなんでも拒否する気持ちもない。誘われたからなんとなく来てみました――。そんな顔をしている人の太い首に腕をまわして身体を押しつけると、おもしろいものを見るような顔に変わった。
「最後はどんな口実でくんのかな、って思ってよ」
いつの間にか花火が終わり、静けさがおとずれた部屋にぽとりと落とされた言葉。
いたずらっぽく笑うと、さっきよりも深いキスを降らせてきた。ひと夏どころかひと晩で終わってしまうかもしれない。花火みたいだ。パッと咲いて、パッと散って、夜空に一瞬だけ咲くことを許される花。
今夜が未来につながることはないだろう。それでもいい。この数時間、赤い瞳に映るのはわたしだけ。器だけでも欲してもらえれば。
本当の気持ちを差し出して、それを受けとってもらえないよりずっといい。
これからだって、いくらでも作ればいい。この人の気持ちがなんとなく向くような口実を。そして何より、わたし自身をだます口実を。
煽るように身体をなでる手の熱さに自分だけが火を灯されていった。
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