いつもの寄り道

「おい、そこで吐くなよ」
「痛いって……」
 大きな背中のぬくもりにうっとりしていたら、お尻をバシッと叩かれた。胸のふくらみだって押しつぶすように触れているわけで、男が好きな女の身体の二大部位をもってしても、なんてことないらしい。
 むしゃくしゃして、腹立ちまぎれに引っぱったフードが顔の横にパサッと落ちる。いつもは空気にのってふわっとしか感じない匂いが濃く香った。
「まさか、そんなかに吐くんじゃねえだろうな」
「そんなことしないし」
「じゃあ、なんだよ。寒いんだから戻せ」
 適当な返しを考えるのもめんどくさいし、笑いに変えて穏便に済ますのも気分じゃない。ごもっともな文句はスルーしたまま白銀の髪を鼻先で分け入って、首元に顔をうずめた。甘くてスパイシーな宇髄愛用の香水は、高めの体温とまざると甘さを増す。
 地球上の隅々まで探しても、これ以上のいい匂いなんて絶対にない。冷たい夜気に消えていってしまう香りの粒子を、ひとつ残らず自分のものにしたいと思った。

 宇髄のことが好きだ。初めて出会った日、というか存在を認知した瞬間から、ずっとずっとずっと。
 あれは大学一年生の春。もう四年近く前になるけれど、同級生の誰かが開催した、親睦会という名の飲み会になんの気なしに参加した。友だちが友だちを呼んで、そのまた友だちを呼んで……と参加者が増殖しつづけたらしく、びっくりするほど大規模な会だった。大部屋の間の仕切りを取っぱらい、二部屋をぶち抜いた会場は人だらけ。近くにいる人と話すのが精いっぱいだった。
 塩味のない枝豆をつまみながら、会場をボーッと見渡していたときだった。ちょっと離れた場所で、人と人の間をカニ歩きしている男が目に入った。
 めちゃくちゃ大きい人だなあ、と思いながらなんとなく見ていたら、ぱちっと目が合った。わたしがあんまり見ているせいか、大きな人も見返してきた。
 彼が着席して視線が外れるまでの、一、二、三秒。
 恋に落ちたきっかけはこれだけ。たった数秒、視線がからんだだけ。
 名前も知らない。出身も知らない。趣味も知らない。声すら聞いたことがない。そこそこの距離があったから、その目がきれいな赤紫色をしていることすら認識できなかった。
 まあ、恋に落ちた十分後くらいに、彼女に甘えられている場面を目の当たりにして即失恋、というオチがついたわけだけど。
 こんなにもインスタントにはじまった恋だというのに、秒で奪われたわたしの心は帰ってくる気配がない。知れば知るほど好きになって、気持ちは育つばかりだった。

 彼女がいようが接点がなかろうが、気持ちは折れない、めげない、しぼまない。
 どうしても仲良くなりたい一心で、専攻のちがう宇髄と知り合うところまでこぎつけた。飲み会のときとはちがう彼女が隣にいたから、選べた選択肢は「友だち」の一択。だから、楽しいことが大好きな宇髄の笑いを貪欲にとっていくスタイルで、友だちの中でもスタメンの座を得ることに成功した。
 誰よりも貫禄があって大人っぽく見える宇髄が、わたしの前ではお腹を抱え、手を叩き、天を仰いで無邪気に笑う。笑いすぎて浮かんだ涙が左目まわりのメイクをにじませることすらあって、小さな手鏡をのぞきこみながら二人で大笑いすることもあった。ものすごい達成感。そして、好きな人を笑顔にできる高揚感の中毒性はすごかった。

 そんな日が三ヶ月もつづいた頃だろうか。その日もいいネタを仕入れて、宇髄がよくいる場所に向かってずんずん歩いていると、中庭の芝生に座っている姿を見つけた。
「う、ず……」
 のどがつぶれて、足に根が生えたみたいだ。
 いつものわたしになれない。
 視界には、いつの間にかまた新しくなっていた彼女の頬に手で触れている宇髄がいた。
 お腹を抱えていないし、手も叩いていないし、天を仰いで大笑いもしていない。けれど、二人だけの世界でいることを楽しんで、甘く笑いかけているように見えた。
 わたしが本当に欲しかったのはあれだ。あんなふうに笑いかけられたいんだ――。
 こんなに簡単な気持ちを、見て見ぬふりをしていたことに気がついた。彼女といる場面なんて何度も見ていたのに、自分が宇髄にとって特別だという気持ちが育っていたせいで、頭をガツンと殴られたような衝撃がすごい。常に彼女がいる宇髄の世界に、自分の居場所をなんとかして作りたい一心だった。本当はわたしがあの場所にいたいのに、その気持ちを直視してひとりの女として対峙するのが怖かったのだ。
「あっ、おーい! こっち来いよ」
 ぼんやり佇んでいたわたしを、満面の笑みの宇髄が呼ぶ。
 ふかふかした芝生を踏みしめ、二人が仲よく並ぶ場所へ歩いていく。そして、わたしはいつもみたいに、いや、いつも以上に積極的に笑いをとりにいった。
 宇髄が笑い、彼女が笑う。そうして、わたしも笑う。
 ボロひとつ出さず完璧にこなし、二人に背を向けて歩く。芝生の緑と土の茶色が水滴を通して見ているようにぼやけているのに、笑ってくれて嬉しい、と性懲りもなく思った。
 それからまもなく、わたしの隣には彼氏がいた。どうか忘れさせてくれよ、と願って付き合ったのに、彼氏が甘く笑うたびに宇髄を思って苦しくなった。

「お前、またちがう男?」と呆れられ、「宇髄に言われたくない」と言い返す。そんなやり取りをしながら、気づけば大学生活も残り三ヶ月を切った。
 本当に伝えたいことほど言葉にできないように、プログラミングされているのかもしれない。宇髄の歴代の彼女にも疎まれないような無害さで、わたしは今日もスタメンの座を維持していた。
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