美術教師・輩先生の昔話
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それ以降は、学内で顔を合わせたときに絡まれる程度で、元々関わりたくないと思っていた人との間に一線引く態度をとったのはまぎれもなく自分なのに、何かを間違えたような気がして悶々としていた。
そんな日々がつづく中、絵の道で食べているプロや講師に自分の作品を見せて、忌憚なき意見をもらう講評会の日が刻一刻と近づいていた。忌憚なき意見、というのは良く言い換えただけで、実際はクソミソに言われるといううわさだ。
バイト、学校、そして講評会用の作品制作。毎日が目の回るような忙しさで、時間を見つけては生徒なら誰でも自由に使えるアトリエにこもって絵を描いた。
この講評会、美大生にとって作品の良し悪しを評価される恐怖の一日で、口下手な自分からすれば作品のコンセプトなどを根掘り葉掘り聞かれるらしい質疑応答の時間が何より怖かった。
講評会が一週間後に迫った日の空き時間。この日もせっせと絵を描いていると、ガチャッと音を立ててドアが開いた。
「お、奈桜じゃん。調子どうよ」
自分の大きな身体に見合うような大きさのキャンバスを肩に担いで、アトリエに入ってきたのは宇髄くんだ。
物が乱雑に置かれたこの部屋には他に誰もおらず、こうして二人になるのは芝生で話した日以来だった。
「うーん。もう、どうしようって感じ」
なぜだか、ぽろりと吐いてしまった弱音。
「隣、いいか?」
「……うん」
口ごもった私が答え終えるころには、イーゼルを手早く設置し終え、驚くべきスピードで隣に座っているのがなんともこの人らしい。
しずかな部屋には、二人分のかすかな作業音だけが聞こえるようになった。
学内で見かける彼は、人に囲まれて笑っているか、例え道に迷っていても気軽に道を聞こうと思えないような圧を漂わせているか、どちらかだ。それが、今はどちらのモードでもなく、おとなしく絵筆を動かしている様子に、どうにも調子が狂ってしまう。
隣のキャンバスに目をやると、完成間近で微調整段階に入っているように見える絵は、原色が溢れた絵を描くだろうという予想とは真逆で、自由で豪快でありながらも緻密に計算されているようなものだった。
「お前さ、あんまり根詰めんなよ」
キャンバスから流れてきた視線が、まっすぐ私に向けられる。
――うわぁ、きれい。
心配してもらっているのに、見つめられて最初に思ったのはこれだった。
紅い宝石を光に透かしたような瞳は、心の中限定とはいえ、輩なんて呼んだことが申し訳なくなるほどあたたかみがあった。
「う、ん」
「アトリエに入るとこ、ちょいちょい見かけてたんだよ」
「そうなの? ありがと」
「ああ」
ちょっと得意げな顔で私の頭に手を置くと、頭のてっぺんからおでこをなではじめた。
てっぺんからするすると下りる手のぬくもりがおでこに到達すると、これで終わりは寂しいと思ったし、一瞬離れたぬくもりがてっぺんに戻ってくるとうれしくて、不思議な安心感が胸にひろがった。
こんなとき、このうれしさと安心感をエヘヘとかわいく照れ笑いしたりできない自分の残念さを思い知りつつ、うつむくしかなかった。
「どうした?」
笑いながらそんなことを聞いてくるが、どうしたもこうしたもないでしょうと思う。
私が借りてきた猫化した原因が自分にあるのがわからないくらい、やっぱり鈍感なんだろうか。これでもかというくらい頭をなでられながら視線を上げると、ん? という顔でのぞき込んできたので、ちょっともう限界だった。
「いつまでなでるの……」
違う、違う。本当はこんなことが言いたいんじゃない。いっぱいいっぱいなことに気づいてくれて、たくさん頭をなでてくれて、本当はすごくうれしいのに。
「んー、いつまでも?」
宇髄くんは頭に手を置いたままほほえんで、最後にわしゃわしゃとなでてから手を離した。
いつまでも、の意味が知りたくて、今すぐにでも聞き返したかったのに、心臓があまりにドックンドックンしているせいで確認できる余力はなかった。
***
「奈桜の絵、派手でいいな。なあ、この光って何?」
借りてきた猫現象が悪化しまくっている私をよそに、その現象を引き起こした張本人はひょうひょうとしている。
私の絵は、全体的に様々な色が混沌としている空間を描いたもので、奥行きをもたせた遠くの部分には光のシャボン玉がいくつも浮かんでいる。宇髄くんは、そのシャボン玉を指差していた。
「聞きたいの? 大したこないからはずかしいな」
「聞きたいわ」
意地っ張りで口下手で不器用な自分をなかなか変えることができない代わりに、私は絵の中で自由になる。私にとって、絵は自分をさらけ出して表現できる唯一の場所だったから。
今まで誰かに自分の絵について話したことはなかったし、話したいと思ったこともなかった。前の私なら絶対突っぱねていたと思うけれど、宇髄くんに聞いてほしいと素直に思えた。
「ものすごくベタなんだけど……。自分の夢を、シャボン玉に見立ててるの」
「へえ」
「混沌とした空間は、夢に向かって悩んだりもがいている心の中。不安定で壊れやすくても存在している夢が、その中でもしっかり輝いてるのを描いておきたいなって」
宇髄くんは真剣な顔をして絵の方を向いたまま話を聞いていたから、それをいいことに、ここぞとばかりに横顔を見つめた。それはもう穴が開くほど。
すっきり通った鼻筋や尖った鼻先、切れ長の目にはまつげが濃く縁どっていて、見ても見ても見飽きないほどきれいだ。
「ね、ありきたりでしょ」
「んなことねえよ」
話を聞き終えた宇髄くんは、ニッと笑ってから、私の頭を再びなでた。
「そうかな」
「本当だよ。講評会でなんか聞かれたら、自信をもってそれ話せ。もし、地味なうるせえことをごちゃごちゃ言われても、あっそォって流しとけ。奈桜の絵は、祭りの神がいいって言ってんだから間違いない。大丈夫だ」
宇髄くんは三日月目の笑顔でそんなことを言った。あまりに屈託なく笑うので、自分の絵についてはじめて話した相手がこの人で本当によかったと思った。
「……ありがとう」
「奈桜の思うまま、ド派手にいけ! 芸術は爆発だ!」
頭をなでていた手を離し、人差し指と中指だけをくっつけて伸ばした手をこちらに向ける。
これは一体なんのポーズなんだろうという疑問はあったが、宇髄くんが大丈夫だと言ってくれるなら大丈夫なんだろうと思えるほど、効果抜群だった。
人のことを言えないほど自分も相当にぶい。ここまできてやっとわかった。ほぼ完成しているような絵を持って、このアトリエに宇髄くんが来た理由。
「自信もって頑張るよ。心配してくれて本当にありがと。こういう話、はじめて人に話した」
「おう」
うれしそうに笑う宇髄くんが大きな手を再び伸ばしてきたので、なでやすいようになのか、なでてもらいたい気持ちのせいなのか、頭を自然と少し下げて近づけていた。
こんな短時間でまるでパブロフの犬になってしまった自分に驚いたとき、頭の上にポンッと置かれた手の重みと同時に、おでこにやわらかいものが触れた。
一瞬考えた後に、それが彼の唇だということに気づいて驚いて顔を上げると、すぐ目の前にはおだやかにほほえむ顔があった。
「じゃあ、俺行くわ。頑張れよ」
「う、うん」
最後にわしゃわしゃと頭をなでると、頑張れよー、と言いながらほとんど作業を進めなかった絵を持ってアトリエを出て行った。
そんな日々がつづく中、絵の道で食べているプロや講師に自分の作品を見せて、忌憚なき意見をもらう講評会の日が刻一刻と近づいていた。忌憚なき意見、というのは良く言い換えただけで、実際はクソミソに言われるといううわさだ。
バイト、学校、そして講評会用の作品制作。毎日が目の回るような忙しさで、時間を見つけては生徒なら誰でも自由に使えるアトリエにこもって絵を描いた。
この講評会、美大生にとって作品の良し悪しを評価される恐怖の一日で、口下手な自分からすれば作品のコンセプトなどを根掘り葉掘り聞かれるらしい質疑応答の時間が何より怖かった。
講評会が一週間後に迫った日の空き時間。この日もせっせと絵を描いていると、ガチャッと音を立ててドアが開いた。
「お、奈桜じゃん。調子どうよ」
自分の大きな身体に見合うような大きさのキャンバスを肩に担いで、アトリエに入ってきたのは宇髄くんだ。
物が乱雑に置かれたこの部屋には他に誰もおらず、こうして二人になるのは芝生で話した日以来だった。
「うーん。もう、どうしようって感じ」
なぜだか、ぽろりと吐いてしまった弱音。
「隣、いいか?」
「……うん」
口ごもった私が答え終えるころには、イーゼルを手早く設置し終え、驚くべきスピードで隣に座っているのがなんともこの人らしい。
しずかな部屋には、二人分のかすかな作業音だけが聞こえるようになった。
学内で見かける彼は、人に囲まれて笑っているか、例え道に迷っていても気軽に道を聞こうと思えないような圧を漂わせているか、どちらかだ。それが、今はどちらのモードでもなく、おとなしく絵筆を動かしている様子に、どうにも調子が狂ってしまう。
隣のキャンバスに目をやると、完成間近で微調整段階に入っているように見える絵は、原色が溢れた絵を描くだろうという予想とは真逆で、自由で豪快でありながらも緻密に計算されているようなものだった。
「お前さ、あんまり根詰めんなよ」
キャンバスから流れてきた視線が、まっすぐ私に向けられる。
――うわぁ、きれい。
心配してもらっているのに、見つめられて最初に思ったのはこれだった。
紅い宝石を光に透かしたような瞳は、心の中限定とはいえ、輩なんて呼んだことが申し訳なくなるほどあたたかみがあった。
「う、ん」
「アトリエに入るとこ、ちょいちょい見かけてたんだよ」
「そうなの? ありがと」
「ああ」
ちょっと得意げな顔で私の頭に手を置くと、頭のてっぺんからおでこをなではじめた。
てっぺんからするすると下りる手のぬくもりがおでこに到達すると、これで終わりは寂しいと思ったし、一瞬離れたぬくもりがてっぺんに戻ってくるとうれしくて、不思議な安心感が胸にひろがった。
こんなとき、このうれしさと安心感をエヘヘとかわいく照れ笑いしたりできない自分の残念さを思い知りつつ、うつむくしかなかった。
「どうした?」
笑いながらそんなことを聞いてくるが、どうしたもこうしたもないでしょうと思う。
私が借りてきた猫化した原因が自分にあるのがわからないくらい、やっぱり鈍感なんだろうか。これでもかというくらい頭をなでられながら視線を上げると、ん? という顔でのぞき込んできたので、ちょっともう限界だった。
「いつまでなでるの……」
違う、違う。本当はこんなことが言いたいんじゃない。いっぱいいっぱいなことに気づいてくれて、たくさん頭をなでてくれて、本当はすごくうれしいのに。
「んー、いつまでも?」
宇髄くんは頭に手を置いたままほほえんで、最後にわしゃわしゃとなでてから手を離した。
いつまでも、の意味が知りたくて、今すぐにでも聞き返したかったのに、心臓があまりにドックンドックンしているせいで確認できる余力はなかった。
***
「奈桜の絵、派手でいいな。なあ、この光って何?」
借りてきた猫現象が悪化しまくっている私をよそに、その現象を引き起こした張本人はひょうひょうとしている。
私の絵は、全体的に様々な色が混沌としている空間を描いたもので、奥行きをもたせた遠くの部分には光のシャボン玉がいくつも浮かんでいる。宇髄くんは、そのシャボン玉を指差していた。
「聞きたいの? 大したこないからはずかしいな」
「聞きたいわ」
意地っ張りで口下手で不器用な自分をなかなか変えることができない代わりに、私は絵の中で自由になる。私にとって、絵は自分をさらけ出して表現できる唯一の場所だったから。
今まで誰かに自分の絵について話したことはなかったし、話したいと思ったこともなかった。前の私なら絶対突っぱねていたと思うけれど、宇髄くんに聞いてほしいと素直に思えた。
「ものすごくベタなんだけど……。自分の夢を、シャボン玉に見立ててるの」
「へえ」
「混沌とした空間は、夢に向かって悩んだりもがいている心の中。不安定で壊れやすくても存在している夢が、その中でもしっかり輝いてるのを描いておきたいなって」
宇髄くんは真剣な顔をして絵の方を向いたまま話を聞いていたから、それをいいことに、ここぞとばかりに横顔を見つめた。それはもう穴が開くほど。
すっきり通った鼻筋や尖った鼻先、切れ長の目にはまつげが濃く縁どっていて、見ても見ても見飽きないほどきれいだ。
「ね、ありきたりでしょ」
「んなことねえよ」
話を聞き終えた宇髄くんは、ニッと笑ってから、私の頭を再びなでた。
「そうかな」
「本当だよ。講評会でなんか聞かれたら、自信をもってそれ話せ。もし、地味なうるせえことをごちゃごちゃ言われても、あっそォって流しとけ。奈桜の絵は、祭りの神がいいって言ってんだから間違いない。大丈夫だ」
宇髄くんは三日月目の笑顔でそんなことを言った。あまりに屈託なく笑うので、自分の絵についてはじめて話した相手がこの人で本当によかったと思った。
「……ありがとう」
「奈桜の思うまま、ド派手にいけ! 芸術は爆発だ!」
頭をなでていた手を離し、人差し指と中指だけをくっつけて伸ばした手をこちらに向ける。
これは一体なんのポーズなんだろうという疑問はあったが、宇髄くんが大丈夫だと言ってくれるなら大丈夫なんだろうと思えるほど、効果抜群だった。
人のことを言えないほど自分も相当にぶい。ここまできてやっとわかった。ほぼ完成しているような絵を持って、このアトリエに宇髄くんが来た理由。
「自信もって頑張るよ。心配してくれて本当にありがと。こういう話、はじめて人に話した」
「おう」
うれしそうに笑う宇髄くんが大きな手を再び伸ばしてきたので、なでやすいようになのか、なでてもらいたい気持ちのせいなのか、頭を自然と少し下げて近づけていた。
こんな短時間でまるでパブロフの犬になってしまった自分に驚いたとき、頭の上にポンッと置かれた手の重みと同時に、おでこにやわらかいものが触れた。
一瞬考えた後に、それが彼の唇だということに気づいて驚いて顔を上げると、すぐ目の前にはおだやかにほほえむ顔があった。
「じゃあ、俺行くわ。頑張れよ」
「う、うん」
最後にわしゃわしゃと頭をなでると、頑張れよー、と言いながらほとんど作業を進めなかった絵を持ってアトリエを出て行った。