美術教師・輩先生の昔話
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「なあ、手の大きさ比べようぜ」
テレビで日本各地の温泉を紹介する番組を観ながら、次はここに行ってみよう、浴衣で湯巡りしてアイスを食べよう、なんて会話をしていると、天元が突然そんなことを言った。
ソファーに並んで座り、その大きな身体にめり込むように抱きついてテレビを見ていた私が顔を上げると、いたずらっ子のような顔がこちらを見て笑っている。
「いいよ。どっちが大きいかな」
「どうだろうなあ。比べてみねえと分からねえだろ、こればっかりは」
「じゃあ、比べてみよっか」
目の前に差し出された手を見れば、ごつごつとした長い指と分厚い手のひら、私の顔など正面から覆い隠してしまえるほど規格外に大きい。手相占いに詳しくない自分でも知っている唯一の線である生命線は色濃くくっきりとしていて、手の付け根ぎりぎりまで続いていた。
天元と私、どちらの手が大きいかなんて一目瞭然で比べるまでもないことだから、このやり取りはとんだ茶番だ。
温泉特集が単なるBGMと化した中、天元の身体に巻きつけていた右腕をほどいて手を重ね合わせながら、この幸せな茶番が誕生するまでのことを思い返した。
***
同い年の天元と出会ったのは、美大に入学して三か月ほど経ったころのこと。
二メートルにも達しようという長身、筋骨隆々の身体、目の周りに不思議なメイクを施した左目、白銀の髪に縁どられた恐ろしくきれいな顔。そんな男がいたら、奇抜なファッションやヘアスタイルを楽しむ人の多い美大内でも目立ちそうなものだが、入学式でもオリエンテーションでも見かけなかった。後から聞くと、あんなもんクソ真面目に出てられるかよ、と一蹴されてしまったので、どうやらそういうことらしい。
そのため、存在を初めて認識したのは、一限の授業が行われている講堂の一番後ろの席だった。
画材代を捻出するための深夜までのバイトと慣れない新生活の疲れから寝坊をして、講堂の後ろの扉からこっそり中に入ると、扉から一番近い三人席の真ん中に白いフードをかぶった大きな後ろ姿が見えた。
空席が選び放題とはいえ前方に行くのは嫌だし、この人が左か右にずれてくれたら今すぐ座れるのに……と思いながら恐る恐る近づくと、足を投げ出して座る屈強な男が気怠そうにこちらを睨みつけた。
パーカーのフードを深めに被っているせいで顔がよく見えないが、不機嫌なのはすごく伝わってくる。
――無理無理無理無理!! 何この人、輩?
殺気すら感じるオーラと視線に慄いた私は、何も見なかったことにして講堂の前列に向かうために歩き出そうとした。
「座れば」
男はそう言うと、長机の上に置かれた筆記用具や参考書などをひとまとめにして、ガタッと音を立てて左隣にずれた。
私が座れるようにずれてくれたことには、心から感謝しよう。しかし、こんなに怖そうな男の横には座りたくない。後から、座らせてやったんだから金よこせなんて言われたらたまったもんじゃないし、顔見知りになるのも怖い。触らぬ神に祟りなしだ。
――私は何も見ていないし、声も聞こえませんでした。ごめんよ、輩。
そう心の中で呟いて、教授や他の生徒の冷ややかな視線を浴びながら、講堂の前列に向かって階段を降りていった。
九十分の授業を終えて外に出ると、身体いっぱいに降り注ぐ太陽の光がとても気持ちいい。
こんなに気持ちのいい日だが、今日は一日授業がみっちり入っていて、その後は深夜までバイト。そして、丑三つ時になったころにやっと好きな絵を描ける。毎日があまりに慌ただしくて、気がつけば友達もいないままだった。
『美大 卒業後 どうする』なんてワードがネット検索のサジェスト機能に出てくるくらい、将来これを活かした道で生きていけるのはひと握りで、実家の両親の心配も呆れも押し切って、夢をいっぱい詰め込んだ身体ひとつで上京してきた私はとにかく意地になっていた。
しかし、ねむい。とにかくねむい。このまま授業に突入したら絶対につらいという確信があったので、カフェインたっぷりの栄養ドリンクとガムを入手するために購買に向かった。
眠気を覚ます絶大な効果を表現したパッケージのドリンクを手に取り、ガムやミントタブレットが並ぶ棚で商品を選んでいると、鮮やかなネイルが塗られた大きな手が横から出てきて、ガムをつかんだ。
なんとなくそちらを見ると、さっきの輩が仁王像のように立っていた。
「あ、さっきの」
輩は抑揚のない声でつぶやくと、ガムを手に持ったまま私を見下ろしている。顔見知りになりたくなくて避けた相手とこんなにすぐ遭遇して、しかも認知されてしまっているなんて。
講堂では分からなかったが、輩はものすごく整った顔をしていて、紅い瞳も白銀の髪もとてもきれいだった。堅気の人とは思えないオーラを放っていて、とっとと退散したいのに視線の圧で床に縫いつけられたように動けない。
「……こわい」
「怖い?」
「え、あの、あなたが」
「あ? ド派手に優しいだろうが」
「授業があるので」
授業の間の休みは十分しかないし、色んな意味で住む世界が違いそうなこの人と深く関わるつもりもない。大男の横をすり抜けてレジで会計を済ますと、二限の教室がある建物へと向かった。
二限開始ぎりぎりに教室に到着すると、すでに空席はほとんど無かった。やっぱり早く移動すべきだった。
やっと空いている席を見つけたと思って近づいても、すでに仲良しグループで確保している席で、私の方にちらりと視線をよこしただけで終わってしまう。
普段は夢を追う生活にいっぱいいっぱいで気づかないフリをしているが、空席に近づいては撃沈するというループに心が削られていっているあたり、本当はぼっちが寂しいのかもしれない。
「あー! テンゲン! こっちこっち!」
座ろうとして撃沈した空席の隣に座っていた女の子が、教室の出入り口に向けてうれしそうに大きく手を振った。
テンゲンというめずらしい名前が妙に耳に残って、出入り口を振り返ると、そこにはまたしても輩の姿があった。どうやら二限も同じらしい。まじか……。ちょっと前に、あんな態度をとったせいで気まずすぎる。
「おお」
どんどんこちらに近づいてくるテンゲンとやらは、待ちきれない様子で全力で出迎える女の子に手を振り返して、その近くにボーっとただずむ私を見た。
「またアンタか」
「はあ」
「また座るところねえの」
「まあ」
「じゃあ、ここ座れば」
有無を言わさずに三人掛けの真ん中に私を押し込んで、ふたをするように端っこに座った。
三人掛けの席に三人なので定員的には全く問題がないが、左からは女の子がにらみつけているし、右側には一・五人分の席幅を使ったテンゲンが素知らぬ顔で座っているし、九十分の講義は気が抜けないままで、眠気防止のドリンクも、ミントが痛いほど強力なガムも出番が全くなかった。
「やっと終わったわー。昼飯食おうぜ。何食う?」
「え?」
席から立ち上がって伸びをしながら、テンゲンがあたり前のようにランチに誘ってきた。誘ってきたというより、行くのは決定事項で、すでにメニューや場所の相談に入っている。
こういう強引で意味のわからない人に対して、どう接するのが正解なのかわからないまま十八年生きてきたので、今回だって理解できない。
それに、人付き合いがうまくない私でもわかる。この女の子はテンゲンに気があるんだろうし、そんなところに入ったら私はただの邪魔者だ。この輩、相当にぶいのだろうか。
「私はいいです」
「なんだよ、行こうぜ」
「先約があるので。それと、これは、お礼……とお詫び、ですっ」
購買で買ったガムをテーブルの上に音を立てて置くと、テンゲンを押しのけた私はずんずんと歩いて教室を出た。
横を通り過ぎる瞬間、テンゲンは呆気にとられた顔をしていた。それはそうだろう。親切にしてやった相手にツンケンされたかと思えば、お礼とお詫びを言われているとは思えない態度でガムを渡されるなんて、誰だってそんな顔にもなるだろう。
食堂だと会いかねなかったので、校舎から少し離れた芝生の上に陣取ると、購買で適当に買ったパンと紅茶を胃に流し込み、深呼吸をした。
テンゲンは見た目は輩そのものだし行動パターンがまったく読めないが、悪い人じゃないのは何となくわかる。
席のない私を二度も助けてくれた相手に対しての自分のふるまいが恥ずかしく思えて、そのお詫びの気持ちをガムに乗せたつもりだが、あの渡し方よ……。
こういうコミュ障ってハタチになったら自動で直ってくれないものかなあ。どうしたらいいんだろう。
誰かに相談したい、気持ちを聞いてほしいと思った瞬間、なぜか頭に浮かんだのは知り合ったばかりのテンゲンの顔だった。
「先約があるんじゃなかったのか」
隣にあぐらをかいて座ると、パンを頬張っている私を見て笑った。その瞬間に浮かんできた、テンゲンに会えて嬉しいという気持ちが私を戸惑わせた。
「まあ、ゆっくり仲良くなりゃいいわな」
「……仲良く? なんで?」
私の質問に、なんでだろうなぁと呟くだけだった。講堂や購買で見た輩モードはすっかり鳴りを潜めていて、つかみどころのない男から、意図の分からない言動が次々に出てくる。
「名前は?」
「志田」
「普通は下の名前だろうが。こういう時は」
「……奈桜」
「奈桜、か。俺は天元」
そう言って差し出してきた大きな手に、私は触らなかった。
「名字は?」
「宇髄。あ、奈桜――」
「じゃあ私行くね、宇髄くん」
ごみを手に持って立ち上がると、昼休み終了まで残り二十分もあるのに、何かを言おうとした宇髄くんを置いて次の授業がある建物へと向かった。
テレビで日本各地の温泉を紹介する番組を観ながら、次はここに行ってみよう、浴衣で湯巡りしてアイスを食べよう、なんて会話をしていると、天元が突然そんなことを言った。
ソファーに並んで座り、その大きな身体にめり込むように抱きついてテレビを見ていた私が顔を上げると、いたずらっ子のような顔がこちらを見て笑っている。
「いいよ。どっちが大きいかな」
「どうだろうなあ。比べてみねえと分からねえだろ、こればっかりは」
「じゃあ、比べてみよっか」
目の前に差し出された手を見れば、ごつごつとした長い指と分厚い手のひら、私の顔など正面から覆い隠してしまえるほど規格外に大きい。手相占いに詳しくない自分でも知っている唯一の線である生命線は色濃くくっきりとしていて、手の付け根ぎりぎりまで続いていた。
天元と私、どちらの手が大きいかなんて一目瞭然で比べるまでもないことだから、このやり取りはとんだ茶番だ。
温泉特集が単なるBGMと化した中、天元の身体に巻きつけていた右腕をほどいて手を重ね合わせながら、この幸せな茶番が誕生するまでのことを思い返した。
***
同い年の天元と出会ったのは、美大に入学して三か月ほど経ったころのこと。
二メートルにも達しようという長身、筋骨隆々の身体、目の周りに不思議なメイクを施した左目、白銀の髪に縁どられた恐ろしくきれいな顔。そんな男がいたら、奇抜なファッションやヘアスタイルを楽しむ人の多い美大内でも目立ちそうなものだが、入学式でもオリエンテーションでも見かけなかった。後から聞くと、あんなもんクソ真面目に出てられるかよ、と一蹴されてしまったので、どうやらそういうことらしい。
そのため、存在を初めて認識したのは、一限の授業が行われている講堂の一番後ろの席だった。
画材代を捻出するための深夜までのバイトと慣れない新生活の疲れから寝坊をして、講堂の後ろの扉からこっそり中に入ると、扉から一番近い三人席の真ん中に白いフードをかぶった大きな後ろ姿が見えた。
空席が選び放題とはいえ前方に行くのは嫌だし、この人が左か右にずれてくれたら今すぐ座れるのに……と思いながら恐る恐る近づくと、足を投げ出して座る屈強な男が気怠そうにこちらを睨みつけた。
パーカーのフードを深めに被っているせいで顔がよく見えないが、不機嫌なのはすごく伝わってくる。
――無理無理無理無理!! 何この人、輩?
殺気すら感じるオーラと視線に慄いた私は、何も見なかったことにして講堂の前列に向かうために歩き出そうとした。
「座れば」
男はそう言うと、長机の上に置かれた筆記用具や参考書などをひとまとめにして、ガタッと音を立てて左隣にずれた。
私が座れるようにずれてくれたことには、心から感謝しよう。しかし、こんなに怖そうな男の横には座りたくない。後から、座らせてやったんだから金よこせなんて言われたらたまったもんじゃないし、顔見知りになるのも怖い。触らぬ神に祟りなしだ。
――私は何も見ていないし、声も聞こえませんでした。ごめんよ、輩。
そう心の中で呟いて、教授や他の生徒の冷ややかな視線を浴びながら、講堂の前列に向かって階段を降りていった。
九十分の授業を終えて外に出ると、身体いっぱいに降り注ぐ太陽の光がとても気持ちいい。
こんなに気持ちのいい日だが、今日は一日授業がみっちり入っていて、その後は深夜までバイト。そして、丑三つ時になったころにやっと好きな絵を描ける。毎日があまりに慌ただしくて、気がつけば友達もいないままだった。
『美大 卒業後 どうする』なんてワードがネット検索のサジェスト機能に出てくるくらい、将来これを活かした道で生きていけるのはひと握りで、実家の両親の心配も呆れも押し切って、夢をいっぱい詰め込んだ身体ひとつで上京してきた私はとにかく意地になっていた。
しかし、ねむい。とにかくねむい。このまま授業に突入したら絶対につらいという確信があったので、カフェインたっぷりの栄養ドリンクとガムを入手するために購買に向かった。
眠気を覚ます絶大な効果を表現したパッケージのドリンクを手に取り、ガムやミントタブレットが並ぶ棚で商品を選んでいると、鮮やかなネイルが塗られた大きな手が横から出てきて、ガムをつかんだ。
なんとなくそちらを見ると、さっきの輩が仁王像のように立っていた。
「あ、さっきの」
輩は抑揚のない声でつぶやくと、ガムを手に持ったまま私を見下ろしている。顔見知りになりたくなくて避けた相手とこんなにすぐ遭遇して、しかも認知されてしまっているなんて。
講堂では分からなかったが、輩はものすごく整った顔をしていて、紅い瞳も白銀の髪もとてもきれいだった。堅気の人とは思えないオーラを放っていて、とっとと退散したいのに視線の圧で床に縫いつけられたように動けない。
「……こわい」
「怖い?」
「え、あの、あなたが」
「あ? ド派手に優しいだろうが」
「授業があるので」
授業の間の休みは十分しかないし、色んな意味で住む世界が違いそうなこの人と深く関わるつもりもない。大男の横をすり抜けてレジで会計を済ますと、二限の教室がある建物へと向かった。
二限開始ぎりぎりに教室に到着すると、すでに空席はほとんど無かった。やっぱり早く移動すべきだった。
やっと空いている席を見つけたと思って近づいても、すでに仲良しグループで確保している席で、私の方にちらりと視線をよこしただけで終わってしまう。
普段は夢を追う生活にいっぱいいっぱいで気づかないフリをしているが、空席に近づいては撃沈するというループに心が削られていっているあたり、本当はぼっちが寂しいのかもしれない。
「あー! テンゲン! こっちこっち!」
座ろうとして撃沈した空席の隣に座っていた女の子が、教室の出入り口に向けてうれしそうに大きく手を振った。
テンゲンというめずらしい名前が妙に耳に残って、出入り口を振り返ると、そこにはまたしても輩の姿があった。どうやら二限も同じらしい。まじか……。ちょっと前に、あんな態度をとったせいで気まずすぎる。
「おお」
どんどんこちらに近づいてくるテンゲンとやらは、待ちきれない様子で全力で出迎える女の子に手を振り返して、その近くにボーっとただずむ私を見た。
「またアンタか」
「はあ」
「また座るところねえの」
「まあ」
「じゃあ、ここ座れば」
有無を言わさずに三人掛けの真ん中に私を押し込んで、ふたをするように端っこに座った。
三人掛けの席に三人なので定員的には全く問題がないが、左からは女の子がにらみつけているし、右側には一・五人分の席幅を使ったテンゲンが素知らぬ顔で座っているし、九十分の講義は気が抜けないままで、眠気防止のドリンクも、ミントが痛いほど強力なガムも出番が全くなかった。
「やっと終わったわー。昼飯食おうぜ。何食う?」
「え?」
席から立ち上がって伸びをしながら、テンゲンがあたり前のようにランチに誘ってきた。誘ってきたというより、行くのは決定事項で、すでにメニューや場所の相談に入っている。
こういう強引で意味のわからない人に対して、どう接するのが正解なのかわからないまま十八年生きてきたので、今回だって理解できない。
それに、人付き合いがうまくない私でもわかる。この女の子はテンゲンに気があるんだろうし、そんなところに入ったら私はただの邪魔者だ。この輩、相当にぶいのだろうか。
「私はいいです」
「なんだよ、行こうぜ」
「先約があるので。それと、これは、お礼……とお詫び、ですっ」
購買で買ったガムをテーブルの上に音を立てて置くと、テンゲンを押しのけた私はずんずんと歩いて教室を出た。
横を通り過ぎる瞬間、テンゲンは呆気にとられた顔をしていた。それはそうだろう。親切にしてやった相手にツンケンされたかと思えば、お礼とお詫びを言われているとは思えない態度でガムを渡されるなんて、誰だってそんな顔にもなるだろう。
食堂だと会いかねなかったので、校舎から少し離れた芝生の上に陣取ると、購買で適当に買ったパンと紅茶を胃に流し込み、深呼吸をした。
テンゲンは見た目は輩そのものだし行動パターンがまったく読めないが、悪い人じゃないのは何となくわかる。
席のない私を二度も助けてくれた相手に対しての自分のふるまいが恥ずかしく思えて、そのお詫びの気持ちをガムに乗せたつもりだが、あの渡し方よ……。
こういうコミュ障ってハタチになったら自動で直ってくれないものかなあ。どうしたらいいんだろう。
誰かに相談したい、気持ちを聞いてほしいと思った瞬間、なぜか頭に浮かんだのは知り合ったばかりのテンゲンの顔だった。
「先約があるんじゃなかったのか」
隣にあぐらをかいて座ると、パンを頬張っている私を見て笑った。その瞬間に浮かんできた、テンゲンに会えて嬉しいという気持ちが私を戸惑わせた。
「まあ、ゆっくり仲良くなりゃいいわな」
「……仲良く? なんで?」
私の質問に、なんでだろうなぁと呟くだけだった。講堂や購買で見た輩モードはすっかり鳴りを潜めていて、つかみどころのない男から、意図の分からない言動が次々に出てくる。
「名前は?」
「志田」
「普通は下の名前だろうが。こういう時は」
「……奈桜」
「奈桜、か。俺は天元」
そう言って差し出してきた大きな手に、私は触らなかった。
「名字は?」
「宇髄。あ、奈桜――」
「じゃあ私行くね、宇髄くん」
ごみを手に持って立ち上がると、昼休み終了まで残り二十分もあるのに、何かを言おうとした宇髄くんを置いて次の授業がある建物へと向かった。
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