そこには一振りの刀がある
「ああ……また今年も出来ませんでした……」
そう言って蔵の前で嘆いたのは日本の化身だった。
古く大きな蔵。歴史的価値すら感じさせる趣。
重々しい閂を抜き、いざ扉を開け放とうとするがそこから先が出来なかった。扉に手をつくので精いっぱいだった。
ああ、何と情けない。そう思いながらも日本はもう一度閂を降ろした。
「中はきっと、酷い有様なのでしょうね……」
小さくため息をついて、日本は蔵に背を向けた。
日本はかれこれ数百年、この扉を開けてはいない。
―――――蔵掃除が出来ない理由
(あるいは血に魅せられた男の話)
「すいません、お掃除手伝ってもらっちゃって……」
掃除用の割烹着にはたきを持って棚の埃を落としながら日本は申し訳なさそうに眉を下げた
「別にいいぜ。アポなしで来たのは俺だしな」
答えたのは小鳥のアップリケがついた黒いエプロンに日本と同じくはたきという出で立ちのプロイセンだった。
プロイセンは亡国となり仕事のほとんどが弟であるドイツに回った今、彼はほぼニート状態の暮らしを送っている。そんなプロイセンは欧州では爪はじきもので、自分を快く迎え入れてくれる日本の元によく遊びに来ていた。
過労死という死因を生み出した国、日本。その化身である日本は多忙を極めており、アポを取らずに来ても家を開けていることが多い。
そのためいつもはアポを取ってから日本の家に遊びに来ているのだが、今回は旅行のついでに駄目元で寄ってみたのだ。すると珍しいことに日本は休日で、家の掃除に明け暮れていたというわけだ。
たまの休みくらい休めばいいものを、と思うのだが、それが出来ないのが日本という国である。師弟時代の親心から少しでも負担を減らしてやろうと掃除を手伝っているというのが事の次第である。
「しっかし張り合いがねぇな。掃除するとこがほとんどねぇ」
それなりに広い家なのだが、常日頃からこまめに掃除をしているのだろう。背の低い日本では届かないような天井付近くらいしか掃除をする場所がない。汚れやすい水回りなども食事と風呂を愛する日本が大切にしている場所で、むしろ清潔ささえ保たれているほどである。
「お?」
ふと、庭の一角に木と土で造られた建物が見えた。
蔵――というものだったか、とプロイセンは以前目を通した資料を思い返す。
有形物を保存しておくための倉庫、だったか。歴史のある日本国ならば、それなりのものを所有しているはずだ。
物を大切にする日本ならば、真っ先に掃除をするであろう、場所。
「なぁ、日本。あそこは掃除しなくていいのか?」
「え?」
プロイセンが蔵を示すと、日本は大きな目を更に見開いた。それからゆっくりと視線が落ち、日本は小さく首を振った。
「私もずっと掃除をしたいと思っているのですが、出来ないのです」
「出来ない?」
「あの蔵には化け物がいるんです」
”桜”という名の化け物が。
そういった日本の目は暗く沈んでいた。
化け物、というのが比喩的表現であることはすぐにわかった。
普段は何を考えているのかわからない色を湛えている日本の目が、あまりに真剣な色をしていた。だからこそ、何よりも雄弁なものに感じられた。
――あの蔵には自分の手に負えないものが住み着いている、と。
知らず、プロイセンの体が震えた。
その身の内に何か強大なもの――魔物とでも例えるべきか――を飼っている日本が手に負えないほどの化け物。見てみたいではないか。
興奮に身を震わせたプロイセンに気づいた日本が、小さく息を吐いた。
「いいですよ、入っても。あなたなら一目で分かるはずですから」
でもお気をつけて。
そっと蔵から目をそらしつつ、日本が確かな怖れを秘めた目を庭に向けた。
「桜は人を狂わせるのです」
その先には、すでに花びらの散った桜の木が立っていた。