菊花の鱗






「ねぇねぇ、日本ー。日本って昔、髪長かったってホントー?」


 そう言ってドイツの湯飲みにお茶を注ぐ日本に声をかけたのはイタリアだった。

 イタリアとドイツはお互いに休日が被った日を選んで日本の家に遊びに来ていた。
 元枢軸国として国同士関わりが深く、彼ら自身も性別の垣根を越えた友人という間柄で、休日を共に過ごそうというくらいには仲が良かった。
 そして今日もイタリアとドイツは友人に会うべく極東の地に訪れたのだった。
 そこに何故ドイツの兄のプロイセンがついてきたのかは謎だが、彼は元日本の師匠である。日本も彼を慕っているし、彼も日本を可愛がっている。
 きっと愛弟子の顔が見たくなったとか、手伝いをしたら饅頭を出してもらえるとか、大方そんな理由だろう。
 特に邪険にする理由もなく、イタリアとドイツはプロイセンを伴って、日本の地に降り立った。

 突然一人増えての訪問となったが、イタリアたちを孫のように可愛がっている日本は、それすらも心から歓迎し、お茶とお菓子で盛大にもてなした。
 近況報告やちょっとした世間話に花を咲かせ、穏やかな時が過ぎていく。
 そんな中、ちょっと小耳にはさんだ話を、イタリアが口にしたのだ。
 誰が言っていたのかは定かではないが、自分達が出会う前の日本を知る国が言っていたのだ。――昔は日本は長髪だった、と。
 日本の漆黒の髪は、艶やかで美しい。長かったら、きっともっと艶々と輝くのだろう。
 芸術の国であるイタリアは美しいものが大好きで、日本の髪もまた、彼の愛すべき対象だった。
 出会ったときから『これ以上は伸びないんです』というようにショートボブを貫いてきた日本である。今の髪形もよく似合っているし、十分に美しい。
 けれどもっと美しくなるならばぜひ見たい、というのも本心で、女性をこよなく愛するイタリア男の性だった。


「本当なら、すっごく綺麗だったんだろうなー」


 ヴェ、ヴェ、と鼻歌混じるに告げて、自分の向かい側に座る日本を見やる。そして、硬直した。
 日本は無表情だった。いつもそうだろう、と人は言うだろうが、今日は違う。何かを必死に隠そうとするあまりの、臨界点を迎えての無表情だった。
 ――こんな苛烈な日本は、見たことがない。
 隣に座るドイツもそうなのだろう。驚きからか恐怖からか、ドイツの喉がひゅっ、とか細い音を立てた。
 それに気づいたのか否か、日本がゆっくりと口角を持ち上げた。


「――ええ、昔は腰の辺りまでありましたよ」


 着物の袖で口元を隠し、日本が控えめに笑う。先程までの現列な様子は消えさり、いつもの朗らかささえ漂っている。
 ――よかった、いつもの日本だ。
 そう安心したのもつかの間、流すように瞳を動かし、プロイセンをとらえたその一瞬。日本の気がすさまじいまでに高ぶった。
 ひっ、と声にならない悲鳴が上がる。国として幾度となく修羅場を潜り抜けてきた、そんな国たちがそろって気圧された。
 けれど日本は、依然として飄々としている。


「ああ、もうお夕飯の準備をしなくては」


 今日は肉じゃがですよ、と微笑んで、日本が席を立つ。
 いつもなら手伝いを申し出るところだが、この時ばかりは二の句が継げず、イタリアたちは素直に頷くにとどまった。
 台所へと消えていく日本を見送って、イタリアは机に突っ伏し、ドイツが顔を覆った。


「ヴェ~……怖かったよー……」
「ああ……」


 イタリアは今にも泣いてしまいそうで、ドイツは顔から血の気を引かせていた。
 二千と六百有余年。日本の化身であり続けた、その迫力を感じて、二人はぶるりと体を震わせた。
 ――あんな日本、知りたくなかった。
 普段の日本は表情に乏しいけれど、時折浮かべる微笑は聖母のように優しく、自分たちを迎え入れてくれる手は陽だまりの様に暖かい。
 そんな日本の鬼神もかくやというような、激情に駆られた彼女の姿なんて。
 イタリアがマフィアの本場であることを知らしめるような眼光を飛ばし、ドイツが大の大人もはだしで逃げ出すような険しい表情を浮かべてプロイセンを睨みつけた。
 しかし彼の視線は、台所にいるであろう日本をいつまでも見つめ続けていた。


「ああ……たまんねぇ……」


 はぁ、とやけに熱っぽい嘆息が、プロイセンの口から洩れる。その目は確かに熱を孕んでおり、うっとりと細められていた。
 その様子に日本の怒りの原因であろうプロイセンに向けた激情が飛散する。問い詰めようと開いた口からは言葉は出ず、イタリアとドイツは顔を見合わせた。


「ねぇ、プロイセン……。俺、もしかして日本の地雷踏んだ……?」


 何かを知っているだろうプロイセンに、イタリアが恐る恐る声をかける。するとプロイセンはケセセ、と彼独特の笑みを浮かべてイタリアを見やった。


「別に地雷とかじゃねぇから安心してくれてかまわねーぜ? 髪にもそんな執着なかったみてーだし」
「にい……兄貴、何か知っているのか?」


 日本の怒りの理由に心当たりがあるらしい兄に、ドイツが目を丸くする。それから、どこか熱に浮かされたような顔で楽しげに笑うプロイセンに眉を寄せた。
 不謹慎だ、と牽制するように睨みつけるが効果はない。


「……日本が怒った原因も知っているのか?」
「おー。それ俺様だしな!」


 ケセセ、と笑ったプロイセンにイタリアとドイツがぽかんと口を開けて呆ける。
 言葉の意味を理解して、なおも笑うプロイセンに目尻が釣り上がる。憤慨しようとして、二人は思わず息を飲んだ。
 ――プロイセン。かつて『国家を有する軍隊』と言われ、恐れられてきた軍国。その気配を漂わせた国の化身が、そこにはいた。


「――……昔、俺様があいつに指導してたってのは知ってるだろ?」
「あ、ああ……」


 ふ、と気配を緩めたプロイセンに、ドイツがほっと息をつく。基本的に気弱なイタリアも、同じように安堵の息を漏らした。


「そんとき世界は荒れてた。日本は開国したばっかで、何もかもが遅れてて、今から欧州に追いつくのは無理だと踏んだんだ」


 それでも、わざわざ自分を選んで師事を仰ごうというのだから、とりあえずは会ってみることにした。やる気のある奴だったら面倒を見てやるのも吝かではない、と。
 しかし現れた日本の化身は、子供と見間違う女だった。


「やる気はあったし、国を想う気持ちも生半可なもんじゃねぇってのはその目を見りゃあわかった。でも、あいつのあの見た目だ。何が出来るように見える?」


 ただでさえ幼く見える東洋人の、その中でも幼く見える日本。線も細く、武器一つ持てるようには見えない。
 自分が指導したところで、世界に名を連ねる欧州の強国たちと渡り合えるとは、とても思えなかったのだ。
 ――食いつぶされて終わりだと、そう思ったのだ。


「その考えがあいつにも透けて見えたらしくてな。それにあいつがブチ切れて、いきなり抜刀してきたんだよ」


 その時のことを、プロイセンは今でも覚えている。百年たった今でも、色褪せることなく。

 日本は、その国民性ゆえか、顔色を読むのが非常に上手かった。プロイセンの考えなど、口に出さずとも読み取ってしまうくらいに。
 考えが読めた日本は、プロイセンに対して激しい怒りを覚えた。
 無理やり国を開かされ、己の無力さを知った日本が、自国を食いつぶされぬよう、力をつけるために決死の覚悟で海を渡ってきたというのに。――何だ、その目は。
 憐みにも似た目で見下ろされ、日本は血が逆流するような感覚に陥った。
 ――それが、今の日本に対する欧州の評価なのか。

 プロイセンは一瞬、身を斬られたと錯覚してしまうようなすさまじい殺気に襲われた。
 その殺気に本能が逃げろ、と警鐘を鳴らし、咄嗟に跳び退る。
 今のはいったい何だ、と考える前に、日本と目があった。立っているだけでゾッとする程の、日本と。
 ――ただ立っているだけに見えた。しかしその手にはいつの間にか刀が握られていた。
 恐ろしく研ぎ澄まされた、鈍く光る銀色の奥には、深淵を覗きこんだような暗い目をした日本がいる。
 ――いつ刀を抜いた。太刀筋どころか、抜刀の瞬間がいつなのかすらもわからなかった。

 数々の戦場を生き抜いてきた軍国である自分が、完全に後れを取った。たった今、侮り憐れんだ相手に。極東の小国に。
 つぅ、と頬を伝う温かいものに気付き、頬に手を這わせる。ぬるりとしたその感触には、よく覚えがあった。
 それが何なのかは見るまでもない。じくじくと頬が熱を持ち、焼かれるような痛みが走った。
 ――斬られていた。そして、それに気付けなかった。
 剣の達人に斬られると、斬られた相手は斬られたことにすら気付けないという。それをプロイセンは、身をもって体験したのだ。

 ――やべぇ……っ!
 喰われる、と思った。食い潰す側であるはずの軍国が、被食者の立場に立たされたような感覚を覚えさせらたのだ。
 先程の殺気の正体は、今目の前にいる日本だ。――今は逆に、まるで殺気がない。それは押し殺しているだけだ。異様なまでに上手く、巧妙に。
 そう理解して沸き上がったのは恐怖、そして歓喜。


(やべぇな、おい……)


 ぞくりと、軍国の血が震える。――こいつと戦いたい。この強者を屈服させて、服従させて、壊してやりたいと。


「――分かりました」
「…………あ?」


 日本が物騒なものを孕んだ、蔑むような目をプロイセンに向ける。
 すらりと、やけにゆったりと日本が刀を持ち上げた。
 ――来るか、と身構えたが、動く気配はない。むしろ、自らに刀を向けていた。高い位置で結いあげられた、美しい黒髪に。
 何を、と思う間もなく、いとも簡単に呆気なく、日本は自分の髪を切り落としていた。


「いいえ――再確認させていただきました。あなたたちが私を、我が国をどうお思いになっているのか、」


 切り落とした髪を、さらりと風に流す。バラバラと散っていく髪に気を取られたその刹那、ひたりと、首筋に寒気が走った。
 自分は死んだと、今日この日、何度そう思っただろう。ここが戦場ならば、確実に自分は首を撥ねられていた。
 プロイセンの首筋に刃を押しつける、目の前の国によって。


(ああ、ちくしょう。かなわねぇ)


 そう確信しつつも高ぶる感情は何なのか。強者を見つけた喜びか、不死の身でありながら死を覚悟した恐怖か、それとももっと別の何かか。
 夜空の様な、吸い込まれてしまいそうな黒い瞳と視線が重なり、気分が高揚した。


「あなたは軍国。力を見せつければ、少しは認めてくださいますか?」


 教えを請う立場でありながら、完全に日本が主導権を握っていた。
 けれど悪い気はしない。これくらいの相手でなければ、張り合いがない。


「力を見せつけられれば、なっ!」


 素早く剣を抜き、首にあてがわれた刀を弾く。
 距離を取り、お互いに構えを取る。
 リーチの長さから言えばプロイセンの方が長く、間合いも広い。けれど、それをやすやすと犯すだけの速さが日本にはあった。
 しかし臆せば負ける。会話とは違って、戦いの中で相手に主導権を握らせれば、敗北は確定する。
 侮りはもうない。むしろ、格上の相手と認めての勝負。感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。
 一対一の勝負。周りを気にする必要はない。相手だけを、見据えていればいい。
 じりじりと間合いを詰めていく。射程距離まであと一歩といったところで、わずかに残った日本の長髪が、ゆらりと揺れた気がした。


「……っ!」


 とっさに構えた切っ先に、刀身がぶつかり、火花が散る。
 速いうえに隙がない。更に予備動作もない。且つ殺気もないから、いつ斬りかかってくるのかもわからない。


(何より一番やべぇのが躊躇がねぇってことだよな!)


 幾ら国が不死身だと言っても、首を落とされればどうなるかわからない。
 もし万が一にも自分に何かあれば、国際問題にすら発展する。それすらも恐れないというような、まさに神をも恐れぬ所業だ。


(いや、それでどうこうする気はねぇんだけど、)


 自分も剣を向けているわけだし、お互い様だ。そして何より、この状況を楽しんでいる。
 いつ殺されてもおかしくないこの状況を。

 振り下ろされた刀を受け止める。力は大してないが、その技術は凄まじい。力で押し切ろうにも受け流され、こちらが斬りかかる前に斬りかかられる。
 鍔迫り合いに持ち込み、力の限りで刀を弾く。
 大きく引いた瞬間を見計らって、一気に懐に飛び込む。そこでようやく、プロイセンは攻め込むことに成功した。


(いいな、こいつ)


 ――欲しくて欲しくてたまらない。本能が、魂が、この獣を欲している。決して飼われることのない、本物の野生を。
 斬りかかった剣を、日本は刀身で滑らせることによって受け流す。
 その勢いでたたらを踏んだふりをして、とどめを刺そうと日本が刀を振り上げた瞬間。まばらに残った日本の長髪を力任せに引き寄せ、その唇に強引に唇を重ねた。
 色気も何もあったものではない。噛みつくような口付けは、血糊の味がした。
 その味を味わうように、日本の唇に舌を這わせた。
 きっとお互いに唇を切ったのだろう。口の周りは血だらけだと予想がついた。
 ――餌を食い荒らした獣のような姿だ。そんな想像をして、プロイセンの口角が持ち上がる。
 それを唇から感じ取ったのだろう。その瞬間、先程感じたものとは比べ物にならないほどの膨大で鋭利な殺気が襲いかかり、以降世界は暗転した。
 そして次に目が覚めたのは、清潔な医務室だった。
 ――負けたのだ、プロイセンは。欧州が食い物としか見ていない、牙を隠した獣に。


「刀抜かれたらこっちも応戦するしかないだろ? そんで斬り合ったんだけどよ、あいつ、つえぇのなんのって、俺様が一方的にやられちまったぜ」
「えっ!? プロイセンが!?」


 驚きのあまり、イタリアが目を見開く。ドイツは衝撃が強すぎて、硬直してしまっていた。
 ――まぁ、分からなくもない。それだけ俺様が強かったからな! とプロイセンは自画自賛する。
 そう。プロイセンは強かった。今はもう弟であるドイツに国としての権限を引き継ぎ亡国となったが、彼を知るものは、彼を恐れている。
 そんなプロイセンが日本に、たおやかで大人しい女性に後れを取るなんて。
 普段の日本を見る限り、刀を持つ姿すら想像がつかない。
 イタリアとドイツが絶句する様を、プロイセンは愉快そうに眺めていた。


「あんな化けモンをその身に飼っていて、それでいてなお飄々としてんだぜ? あの婆はよ」


 ――知れば知るほど俺様好みだ。たまんねぇよな、と軍国の化身がうっそりと笑う。
 背筋を凍らせるような、獰猛さを孕んだ笑みだった。肉をむさぼる、牙をもった獣のような。


「ああ、本当に、俺様のモンにならねぇかな……」


 あのときと同じように、舌を唇に這わせる。
 感じるはずがないのに、その舌は日本の血糊の味がした。




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