そこには一振りの刀がある
「”桜の樹の下には屍体が埋まっている”」
刀から逃げるように蔵を出たプロイセンを迎えた日本は、湖面の様な瞳で庭の桜を見つめていた。
言葉もなく肩で息をするプロイセンには目もくれず、日本は言葉をつづけた。
「とある方の作品の、有名な表現です。これが独り歩きして”桜の花は元は白く、屍の血をすすり、美しく色づいている”のだという俗説が生まれたのだと言われています。が、」
――あながち間違ってはいないと思いませんか?
日本はそう言って、ようやくプロイセンの顔を見た。
その俗説は初めて聞いたものだが”桜”を見たあとだと、俗説は俗説だと吐き捨てることもできない。あの”桜”は生き血を啜り、より美しさを増していた。
「あの刀には、本来名はないのです。私があの刀を手放した時、私が名付けました」
日本には言霊というものがあり、名は人を縛り、ものを縛る。少しでもあの刀を縛る枷になれば、と。
けれどだめでした、と日本が苦笑した。
色濃い疲労が見えるその顔に、どれだけあの刀に手を焼いているかがうかがえる。
「……あの刀、使ってたのか?」
「ええ。使用していた当時は私の気に入りの刀でしたので、かなり。ですが、最後に使ったのは五百年ほど前です」
日本が目を細める。それが懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか、プロイセンにはわからなかった。
五百年前。つまり鎖国の行われる前のことで、自分と日本が出会う前の話だ。知りようすらない、過去のことだ。
「その頃の我が国は”戦乱の世”と呼ばれる時代にありました。その名の通り、この国で最も戦乱が頻発した時代です」
それは国の内で行われた戦を示す。武士たちが「天下」を統一すべく、血で血を洗う戦いを繰り広げた戦乱の世だ。
「この時代は血を流すあまり、血に酔った者たちが増え『辻斬り』などが横行したのです」
辻斬りとは武士が刀の切れ味を実証するために行った試し斬りや金品を狙ったり、己の武芸の腕を試すために行われた人斬りのことを指す。
千人切りという行為まで生まれたほどだ。これは千人の人間を斬れば悪病も治るという迷信である。
それらの行為で、あまりに多くの血が流れた。法で禁止せねばならないほど、人斬りが横行したのだ。
国の化身は民意の現れである。それほどまでに血に酔った者が増えたのならば、それは国の化身にも反映される。
彼は血に酔っていたのだ。刀で”桜”で人を斬ることに。
彼は”桜”に、血に魅せられていたのだ。
その、血に酔って狂わせた時代に。人を斬らずにはいられないほどに。
「……あれを握ったお前とは出会いたくねぇな」
「ええ。まったくもって」
一目でわかった。あの刀が啜ってきた血の多さが。それを扱っていたのは、今目の前にいるこの男。
時折見せる苛烈さは人斬りの名残か。
(まったくもって末恐ろしい限りだ)
自分達欧州との戦いであの刀を用いられなくてよかったと、プロイセンは心の底から思った。
そして、これから先あの刀が使われることがないことを願うばかりだ。
日本の家には、大きな蔵がある。そこには一振りの刀がある。血に飢え、血を欲し、血に狂わせる刀が。
その刀がある限り、日本は蔵を掃除することが出来ない。
日本が血に魅せられることを恐れる限り。血に濡れることを望まない限り。
日本はこれからも蔵を掃除することが出来ないだろう。日本国が戦いを望まない限りは。