ジャミルの友達が姐さんだったら 7
オオカムヅミの果実酒は、幸運をもたらす天上の甘露である。効果は確かなものだが、いつ、どのような幸運が訪れるかは神の采配によるものだ。故に得られる幸運は千差万別。ある人は九死に一生を得る。ある人はかけがえのない人を得る。ある人は、ずっと望んでいた願いが叶えられる。それがオオカムヅミの授ける祝福である。
誰が、いかなる幸運を得られるかは分からない。けれど、オオカムヅミは確かに、人々の幸福を願っているのだ。
「それで、今年の降臨祭では小さい子達がお琴を披露するんだって。何ヶ月も前から練習していたそうだよ」
彼の耳にその声が届いたのは、奇跡と言っても過言ではない。人通りの多い観光地で、喧騒の中、その声を拾い上げたのだから。
耳に良く馴染む、透き通った水のような声。決して大きい声というわけではないのに、不思議なほどによく通る。そんな声の持ち主に、シルバーは一人だけ心当たりがあった。
声のした方を振り返る。その背中に、見間違いようがなかった。夢の中で何度も見た濡れ羽色の髪。横顔に浮かんだ慈しみに満ちた笑みは、夢の中の美しい男達に向けるものによく似ていた。
隣にリリアが居るのも忘れて、思わず駆け出した。人にぶつかりそうになりながら、その背中を見失わないように追いかける。人垣に隠れてしまいそうになって、咄嗟に手を伸ばす。ずっと探し求めていた人の手に、手が届く。その瞬間、横から伸びてきた手に、強く腕を掴まれた。
ハッと我に返って、顔を上げる。視界には驚いた顔の夢の主と、自分の腕を掴んで止めている青年の顔が飛び込んできた。
「シルバー?」
「…………ジャミル?」
自分を止めた青年―――――ジャミル・バイパーが、何故ここに居るのか、と驚きと疑問で目を瞬かせる。シルバーも、きっと同じような顔をしているだろう。
ジャミルがシルバーの腕を掴んでいた手を緩め、同行者と顔を見合わせた。
視線だけで会話をする二人に、シルバーの胸に不快感が生まれる。二人はどういう関係なのだろう、と考えると、頭痛までしてきそうな心地だった。
これは一体何なのだろう、と胸に手を当てて首を傾げると、ふと背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「シルバー! いきなり走り出してどうしたんじゃ! 土地勘のない場所で迷う、と……?」
自分の同行者であるリリアだ。声も掛けずに走り出したシルバーを追いかけてきたらしい。人混みを避けるのに四苦八苦していたシルバーとは違い、リリアはするりするりと行き交う人々の間を縫ってこちらにやってきた。そしてシルバーとジャミル、見慣れない顔を見て、彼は大きな目をぱちくりと瞬かせた。
新たに現れたリリアに、ジャミルと夢の主がもう一度視線を交わす。二人はお互いに考えていることが分かるのか、言葉らしい言葉は一切無かった。二人は親しいのだろうか、とさらにモヤモヤが募っていく。
「おう、ジャミルではないか! おぬしも東方の国に来ているとは、奇遇じゃの! ところで、そちらの御仁はおぬしの知り合いか?」
「こんにちは、リリア先輩。シルバーも久しぶりだな。こいつは俺の幼馴染みなんです」
「初めまして、ツバキ・サニワと言います」
「わしはリリア・ヴァンルージュ、ナイトレイブンカレッジ2年生じゃ」
幼馴染み、と口の中で反芻する。ツバキと名乗った夢の主とジャミルは、長い付き合いがある、と言うことだろうか。また、モヤモヤとしたものが胸に宿る。
リリアに肘で突かれ、シルバーも慌てて挨拶を交わす。ツバキはシルバーを見て、わずかに口元を緩ませた。
「あ、あのっ! お、俺のことを、覚えているだろうか……?」
「ああ、もちろん覚えているとも。元気そうで何よりだ。あのときは名乗れなくてすまなかったな」
「いや、あそこでは名乗らない方が良かったのだろう? あなたの判断を、間違っているとは思わない。あのときは、俺のことを助けてくれてありがとう。あなたのおかげで、俺は無事に大切な人たちの元に帰ることが出来た」
「そうか。それなら良かったよ」
やっと、お礼を伝えることが出来たと、シルバーが顔を綻ばせる。澄ました顔をしていることの多いシルバーには珍しく、柔らかな日差しのような笑みだった。
二人のやり取りでツバキを夢の主だと悟ったリリアが、ぱぁっと顔を輝かせた。
「おお! おぬしが夢の主か! わしからも礼を言わせてくれ。シルバーを助けてくれたこと、心より感謝する」
「いえ、大したことではありませんから」
じ、とオニキスのような漆黒の瞳がリリアを捕える。観察されているようだった。
否、見透かされている。見通されているのだ。
真にそのようなことがあるのかは分からないが、このまま見つめられていれば、すべてが暴かれてしまいそうな眼差しだった。
ひやり、とするものを感じながら、リリアは笑顔のまま視線を逸らす。そのまま、ジャミルに目を向けた。
「それにしても、心当たりがあったなら教えてくれても良かったのではないか? 冷たい奴じゃのう?」
「確証がなかったので。それに、シルバーはともかく、うちの学園の生徒にツバキの存在がバレたら、利用しようとしてくる奴も多いでしょう?」
「………それについては否定出来んなぁ」
オオカムヅミの果実酒など、善人と呼ばれる人間ですら、悪人に変えてしまうほどの一品だ。その在処を知っていると言うだけでも、ツバキにはとんでもない価値があった。
その上、ツバキは“審神者”だ。名を名乗られたことで、改めてそれを確信した。
ツバキの一族が“サニワ”と名乗っているのは、その名を戴いたからに他ならない。職業の名を名乗ると言うことは、何かしらの偉業を為したからだろう。最初に星を見つけた人が名前を付ける権利を得るように、ツバキの一族は、その名を名乗る権利を得たのだ。
その名から察するに、ツバキの一族は真に神と語らうことが出来るのだろう。その力の活用方法も、悪用方法も、嫌と言うほど思い浮かんでくる。ジャミルが警戒するのも納得が行く話だった。
そういうことなら仕方ない、とリリアが引き下がると、ジャミルがほっと息を吐いた。
「おっと、忘れるところであった。シルバー、礼の品を渡すんじゃ! わしも本人を見て、確信したぞ! あの品はサニワ殿にぴったりじゃ!」
「は、はい……!」
散々迷って、リリアからの薦めもあって、シルバーはリボンの髪留めを購入した。渡せるかどうかは分からなかったが、買って良かったと心の底から思った。
ブラウンの包装紙に、ゴールドのリボンで包まれたプレゼントボックスを差し出す。どこか気恥ずかしそうに目元を赤らめているシルバーを、リリアは微笑ましく見つめていた。
差し出された箱を見て、ツバキが目を瞬かせる。不思議そうにシルバーを見つめる顔は幼子のようだった。
「これは?」
「助けて貰った礼だ。どうか、受け取って欲しい」
「大したことではないのだし、別に構わないのに……」
「あなたにとってはそうでも、俺にとってはそうではないんだ」
「………そうか。では、有り難く」
開けてみても? と尋ねられ、小さく頷く。気に入って貰えるだろうかと、不安と緊張で心臓が痛む。
ツバキは丁寧に包装を解き、箱を開いた。中身を見て、わずかに目を見開く。そして髪留めとシルバーを交互に見つめて、そっとリボンを取り出した。
「髪留めか……。綺麗な赤だな」
「ああ。あなたの黒髪に、似合うと思って」
ふわりと、柔らかい笑みがシルバーの端正な顔を彩る。寒さだけではない赤みが、頬を色づけている。
ジャミルがそっとリリアを伺うと、彼は輝く笑顔でサムズアップを決めていた。やはり、そういうことなのだろう。またこいつは、と呆れを含んだ視線を向けてしまうのも仕方がない。ツバキは、はまる相手にはどこまでも深い沼のような少女なのだ。
ツバキは、好き嫌いがはっきり分かれる人物である。彼女を嫌う人間は、蛇蝎のごとく彼女を嫌う。けれど、誰かにとっては輝く星に等しい存在となるのだ。
ツバキは、誰かの人生を狂わせながら生きていく。そのような意図はなく、ただあるがままに生きているだけで。そういうところは、神様達とそっくりだった。
シルバーも、きっとそのうちの一人となるだろう。彼女への愛に苦しみ藻掻き、のたうち回りながら、それでも彼女を想うことを止められないだろう。血反吐を吐くような激情を抱えながら、それでもどこか幸せそうな彼等。あるいは彼女等。ツバキと出会ってからの十年ほどの間に、ジャミルはそのような人間を何人も見てきた。彼等、彼女等がどれだけ願っても手に入れられない、“親友”という特等席で。
ツバキが、一つにまとめていた髪を改めて結い直し、最後の仕上げに髪留めを挿す。濡れ羽色の髪に、目の覚めるような赤ときらめく金色が添えられる。美しい黒髪に、赤色が映えていた。
「どうだろうか? 君の見立て通り、似合っているだろうか?」
「―――――ああ。とても、よく似合っている」
シルバーに見えるように首を傾げながら、ツバキが尋ねる。するとシルバーの顔に、これ以上無いと言わんばかりの、とろけたような笑みが浮かんだ。
「ふふ、ありがとう。大事に使わせて貰うよ」
そう言って浮かべられた花のような微笑みに、シルバーはぶわりと顔を赤らめた。