ジャミルの友達が姐さんだったら 番外編 2
ナイトレイブンカレッジの入学届が届いたことで、フロイド・リーチは陸の学校に通うことになった。
初めて訪れた陸は、初めて感じた重力は思ったよりしんどくて、尾びれの代わりに得た足を動かすのは思ったより難しくて。陸と海では何もかもが違っていて、全くの未知の世界に来たように感じたものだ。
海での常識は陸には通じなくて、陸での常識は海には存在しない。挙げていけばキリがないほどに全く異なる文化が根付いている。
何をするにも億劫になるほどのハンデがあったけれど、そんなことがどうでも良くなるくらいに、地上の世界には目新しいものが溢れていた。
その中で、一等目を引いたのが重力をものともせずに飛翔する背中だった。
その背中を見たのはバスケ部の部活見学で、見ているだけではつまらないだろうから、とミニゲームをやったときに目にしたのだ。
相手は同じ一年生。一見すると大人しそうな見た目で、岩陰に隠れて息を潜める小魚を彷彿とさせる生き物だった。
そんな印象が一変したのは、ミニゲームが始まってすぐのことだった。まだ完全に陸の身体をものにしていなかったとは言え、恵まれた体躯を持つフロイドを、その相手は易々と振り切ってゴールを決めたのだ。
フェイントに釣られかけたほんの一瞬、わずかな隙を突いてフロイドを突破した男は、虚を突かれて呆然とする彼を置き去りにした。重さなんて感じさせない動きで何人もの相手を抜き去って、まるで背中に羽が生えているような身軽さで飛んだのだ。
そして振り返った男―――――ジャミル・バイパーが見せた不敵な笑みに、フロイドは見惚れてしまった。陳腐な表現だが、心臓が射貫かれるという感覚を、このとき彼は体感したのである。
初めのうちは、彼は自分が恋に落ちたことに気付かなかった。おそらく、他の誰も気付いていなかっただろう。けれど、そんなフロイド自身ですら芽吹いたことに気付かなかった感情に気付いた人物がいた。ジャミルの幼馴染みであるツバキ・サニワである。
ツバキは恐ろしいほどに物事の本質を見抜く目を持っていた。その瞳は本人が気付いていないことすらも読み取ってしまうのだ。
フロイドはそのオニキスのような瞳が、実は魔眼の類いなのではないかと疑っているが、そうではないらしい。それはツバキの個性であり、ツバキの一族には必要不可欠な能力であるという。ツバキの一族は皆一様に聡い一面を持っているが、ツバキのそれは一線を画するものであるらしい。“不世出”だとか“歴代随一”と言われているとは、ジャミルの談である。その能力は神々ですら看破するというのだから、一介の人魚に隠し事など出来るはずもない。
(そんな目持ってるとかずるくない?)
そのせいというか、おかげというか、フロイドは自分自身でさえも自覚していなかった恋心を知ってしまったのである。
けれど、それと同時に自分の想いが虚しい最期を遂げることを告げられた。
人は、いつ死ぬか分からない。誰も彼もが「また明日」と気軽に約束を交わすけれど、必ずしもそれが守られるとは限らない。そんな生き物の中でも、フロイドの想い人は一等儚い命であるという。―――――彼は、神に見初められているのだ。
彼の何が神の琴線に触れたのかは分からない。けれど確かに、彼は神々のお気に入りだった。自分たちの世界に連れて帰ってしまいたいと、幼い命を摘み取ろうとする神が後を絶たないほどに。故に彼の命は、次の瞬間には失われる可能性だって大いにあるのだ。儚いなんてものではない。あまりにも哀れで、哀しい命だった。
彼の最期は、誰も手にすることが出来ない。それが決定されている。死体が残れば御の字だと、彼の幼馴染みが目を伏せていたのが印象的だった。依存と見紛う友愛をジャミルに抱くツバキなら、例え神が相手だろうとも、諦めることなどしそうにないのに。
(それだけ、難しいことなのかな)
伏せられた瞼の下で、ツバキが何を思っていたのかは定かではない。中身の入っていない棺を思い浮かべて未来を憂いていたのかもしれない。もしかしたら神々を引きずり下ろす算段を付けていたのかもしれない。きっと、あのときのツバキの心中を察することが出来るのは、ジャミル以外には居ないだろう。
けれど、一つだけなら、フロイドにも察することが出来た。それはツバキが、誰よりもジャミルの幸せを願っていると言うことだ。
ツバキがジャミルに抱く想いは、どこまで行っても友愛だ。どれほど大きいものであろうと、どれほど深いものであろうと。だからこそ、彼の幸せのために全力を捧げることが出来るのだ。
ツバキはきっと、フロイドに期待しているのだ。フロイドが、ジャミルを幸せにする“誰か”であることを願って。だからフロイドの中に眠っていた想いを無理矢理叩き起こして、さぁ早く行けとばかりに背中を押したのだ。明日にでも理不尽に命を奪われるかもしれない友を想って。
(…………オルカちゃんが恋敵じゃなくて良かった)
ツバキとジャミルは、お互いがお互いを幸せに出来るとは思っていない。友人としての楽しみは提供できても、恋愛ごとだとか、家庭を持つような幸せを差し出すことが出来るとは、これっぽっちも思っていないのだ。そもそもとして、一切考えてすらいない。それほどまでに、彼等の間には恋慕の類いは存在しないのだ。
けれど、彼等はお互いに、お互いの幸せを一番間近で見つめることが出来るのは自分であると考えているのだ。まるで、それが世界の理であるかのように。
凶悪なまでの親愛。悍ましいまでの友情。二人の間には、二人だけで完結し、完成してしまっている世界が広がっている。
ツバキは支援者であると同時に、最大のライバルでもあった。むしろ、決して乗り越えられない果てしない壁であったのだ。これでもし、ツバキに恋心が欠片でもあったなら、神様なんて目ではないくらいに、厄介極まりない存在になっていただろう。
けれど、ツバキはどこまでもフロイドを応援してくれている。ジャミルを幸せに出来る“誰か”であると信じて。
(神様に連れていかれるくらいなら、一緒に逃げてくれないかな、ウミヘビくん)
彼がそうしてくれるなら、フロイドだってすべてを擲って、世界の果てまで連れて行くのに。
けれど、それが難しい事だというのは分かっている。
神様から逃げるなんて、きっと不可能だ。いつか必ず、別れの時はやってくる。けれど、絶対はないと信じたい。何かの気まぐれで見逃してくれる事だって、あり得ないとは言い切れないのだ。神様とは埒外の存在で、理解するものではないのだから。
―――――万に一つの可能性を信じて、想いを伝えてみるのもありかもしれない。折角押してもらった背中なのだから、それを無碍にしない方向で考えてみるのもありだろう。後悔しないようにと、いつの間にか育んでくれた友愛を込めて、ツバキは教えてくれたのだから。