ジャミルの友達が姐さんだったら 番外編
モルン山の山深くを、ツバキは一人歩いていた。
輝石の国の北方、その雄大な姿を神聖視されるモルン山。古来より続く信仰は、確かな形を持って存在している。
しかし、長く続く信仰は、いつしか形を変えていく。強烈な畏れから、美しさへの憧れへと。生まれ落ちた信仰心の形かみさまも、生まれ変わることで紡がれていく。
通常ならば人が来ることのない程の深奥。切り立った崖の上で、その山神は山間の村を見下ろしていた。
人間であるツバキの目には、村はごく小さいものだ。人の形など判然としない。けれど、人為らざるものの目には、その形をはっきりと捉えているのだろう。薄れゆく身体をした神の瞳は、愛しげに細められていた。
「初めまして、モルン山を司る山神よ」
ツバキが声を掛けると、その神は驚いたように目を見開き、ツバキを振り返った。
神が遠のいた時代において、神を視認できる者はごく限られている。山神の姿を捉えられる者が訪れることなど無かったのだろう。事実、神は愛しい人の子の瞳に映ることを喜んでいるようだった。
「私は神意を汲む者。尊きお方と語らう者。姓を清庭、名を椿と申す」
しんしんと降りしきる雪を思わせる静かな声が、ツバキの歓迎を告げる。その心を受け止めて、ツバキの口元が緩む。
「本日豊作村を訪ねたのは、かつて起こった惨劇が繰り返される兆しがないかを調査するためです」
愛しげに緩められていた口元が、険しいものに変わる。身体に直接霜が降りてきたような寒さを感じ、ツバキの身体が震える。生きをするのも苦しいような寒さの中、縺れそうになる舌を必死に回し、懸命に言葉を紡ぐ。
「安心してください。そのような事を繰り返させないためのものですから」
今日の調査結果を山神にも伝えると、神は人のように笑った。それは、人がほっと胸をなで下ろす仕草によく似ている。
モルン山を司る山神は、山間の村に住む人々を心から愛しているのがよく分かる。彼は複数ある山間の村を毎日のように眺め、懸命に生きる人の子達を愛でながら日々を過ごしているのだ。
けれど彼は、そんな日々に別れを告げなければならない。
「…………あなたが彼等を見つめていられるのは、もう何年もないでしょう。あなたも理解していることでしょうが」
「―――――……」
「審神者わたしに、何か出来ることはありますか?」
「―――――……」
「…………そうですか。では、私達に出来ることは何もないのですね」
人の心は、移ろうものだ。気が遠くなるほどの時間を、人を見つめることに費やしてきた神は、それをよく理解していた。彼は、己の変貌を受け入れて、消えゆく己すらも尊いものとして見ていた。穏やかな表情を湛えた神を見て、ツバキの口元が柔らかく綻んだ。
「…………彼等を信じて見守るのもまた、愛だものな」
人を愛する慈悲深い姿に、ツバキの胸にあたたかいものが宿る。ここではない、遙か彼方で得たものを想起させる、愛しく尊い感情だった。
―――――嗚呼、どうして神というものは、こうも人を愛してしまうのだろう。人を阻む嵐にもなるくせに。どこまでも身勝手に振る舞うくせに。けれどどこかで、人が必ずその困難を乗り越えることを信じているのだ。その信頼を、裏切りたくないと思ってしまうほどに。その愛に、愛を返したいと思ってしまうほどに。
「あなたと、あなたの愛し子達の未来に幸多からんことを」
審神者たるツバキの目にも透けて見える薄い姿をしっかりと目に焼き付けて、ツバキが深々と頭を下げる。それ以上は何も告げず、ツバキは踵を返した。
その背中を見送った神は、再び人の営みに視線を落とした。変わりゆく己を受け入れて、消えゆく自分すらも愛しく思いながら。