ジャミルの友達が姐さんだったら 12






 嫌な予感がしていたのだ、その日はずっと。それこそ、目を覚ました瞬間から。
 朝起きたとき、まず真っ先にツバキの脳裏に浮かんだのは、“気持ち悪い“だった。悪夢の類いを見たときのような、じっとりとした汗が背中を濡らしていて、気分が悪くてたまらなかったのだ。
 いつも髪を束ねているヘアゴムが音を立てて千切れ、授業ではクラスメイトの失敗に巻き込まれそうになり、ずっと散々な目に遭っていた。一日の半分も終わっていないのに、早く夜が来ることを願ってしまうくらいに。
 けれど、まだ終わらないのだと、ツバキには分かっていた。すでに最悪と言っていいほどの目に遭っているのに、これ以上の最悪が訪れることを、彼女は予見していたのだ。今までの経験から、これはまだ始まりに過ぎないのだ、と。


「ツバキちゃん、大丈夫? 今日、何だかツイてないね?」
「リュバンシェ……」
「良かったら、これ食べて? 甘いものを食べると元気が出るよ」


 そう言ってネージュが差し出してきたのは、かわいらしい花の形をしたキャンディだった。彼がイメージキャラクターを勤めている商品だ。ツバキはまだ食べたことはなかったが、象られた花の香りが口の中に広がるのだとか。女性受けのよい商品で、購買部でも取り扱われているが、いつも品薄の状態だった。


「ありがとう」


 自分を思ってくれる心が嬉しくて、ツバキが笑みを浮かべる。ツバキが笑顔を見せたことを喜んだネージュも口元を緩ませた。
 ネージュが嬉しそうにツバキの手のひらにキャンディを乗せた、その瞬間。手の上で、パキン、と軽い音が響いた。ひとりでに、キャンディが真っ二つに割れたのだ。渡されたキャンディが、一つ残らず。
 あまりのことに、ネージュが息を呑む。ツバキは、手のひらのキャンディを無言で見下ろしていた。
 そのとき、ツバキのスマホが音を立てた。ネージュに断ってスマホを見ると、そこにはカリムの名が表示されていた。通話に出ると、聞こえてきたカリムの声は、切羽詰まっていた。


『ツバキ! ジャミルが吐血した! 多分、呪いだ! すぐに来てくれ!!』


 何が起こったのかを聞き返す前に、ツバキは咄嗟に呼び出した黒姫の影に飛び込んだ。背後からネージュの声が聞こえたような気がしたが、それはツバキの足を止めるに足るものにはならなかった。







 それはあまりにも突然の出来事だった。移動教室の途中、不自然に足を止めたジャミルを不思議に思ったカリムが、ジャミルを振り返る。どうした、と尋ねようとして、その言葉は形にならなかった。振り返った瞬間に視界に広がった光景に、彼が絶句したからだ。
 ジャミルの身体がくの字に曲がっている。手のひらで覆われた口元は、恐ろしいほどの鮮やかな赤色で彩られていた。


「ジャミル!!!!!」


 ごぷ、とジャミルの口から血が溢れたのを捉え、それを脳が理解した瞬間、カリムは絶叫にも似た声を上げた。
 廊下の真ん中での出来事であったから、彼等を中心に、周囲が騒然とした。
 そんな周囲をよそに、カリムが頽れそうなジャミルを抱きかかえる。毒か、と咄嗟に懐に手を伸ばす。解毒剤の類いは、常に懐に忍ばせているのだ。
 しかし、それがすぐに毒の類いではないことが分かった。ジャミルの身体に、鬱血痕のような痣が浮かび上がったからだ。人の手形のようなものが、ジャミルの身体を締め付けるような形で痕を残していく。
 カリムは“その手の類い”と相性が良くないのか、ツバキとの付き合いはそこそこの年月を重ねているものの、未だに詳しいことは分からない。事の次第の全容が掴めないなんてことは当たり前で、出来るだけツバキの負担にならないように、邪魔にだけはならないように動いてきた。
 けれど、このことについては、何故だかはっきりと理解できた。―――――誰かが意図的に、ジャミルを害したのだ、と。誰かが明確な意志を持って、ジャミルを殺すために。


「誰か! 先生を呼んでくれ!」


 ざわめきが止まない廊下の中心で、血の気を引かせた生徒達に向かって指示を出す。その声に我に返ったうちの何人かが慌てて走り出すのを尻目に、カリムはすぐさまツバキに連絡を取った。三コールほどでツバキに繋がり、その瞬間にカリムが叫んだ。


「ツバキ! ジャミルが吐血した! 多分、呪いだ! すぐに来てくれ!!」
『―――――了解』


 静かな、落ち着いた声だった。その声を聞いて、カリムは冷水を浴びせられたような心地に陥った。荒れ狂う感情を無理矢理押し殺し、冷静さを装った仮面を付けているように感じられたからだ。
 貼り付けられた仮面の下で、どのような激情が渦巻いているのかを、カリムは正確に計り知る事は出来ない。けれど、凄まじい感情の嵐が吹き荒れていることだけは確かだった。
 スマホの通話が切れ、ツバキの到着を待つ。どのような手段を用いてでも駆けつけてくるのは明白である。それまでの間、カリムは自分に出来ることをするだけだ。
 ジャミルの治療は出来ない。カリムの呪いに明るくないのだ。彼に出来るのは周囲を探ることである。推理ドラマなんかで“犯人は現場に戻る”と言われているが、それは呪いでも同じ事だ。自分の為したことの結果が見たいのだ。要は相手が確実に呪われたかどうかを知りたいのである。
 腕の中にジャミルを抱え込んで、周囲に探りを入れる。不審な動きをしているものはいないか。歪んだ口元をした人間がいないか。教師が来るのを待っている振りをしながら、ジャミルを害した犯人を捜す。そのとき、首筋の辺りに焦がすような視線を感じた。ぐる、と大きく首を動かして背後を見やると、黒に近い紫の髪の青年と目が合った。榛色の瞳が、カリムのガーネットとかち合った瞬間に逸らされる。


「カリム」


 ずるり、と足下から腕が伸びる。使い魔の黒姫の能力を使って、ツバキがカリムの影から現れた。
 頼れるツバキが来たことに安心して、カリムはほっと息をついた。ジャミルの様子が見やすいように、大事に抱え込んでいた腕を広げる。カリムのそばに膝をついたツバキが彼の容態を見て、わずかに目を見開いた。


「―――――呪いじゃない」
「…………え?」
「ある種の呪いであるのは確かだが、もっとタチが悪いものだ」


 ゆら、とツバキの魔力が立ち上る。炎のような熱を感じるのに、身体が芯から冷えてしまうそうな寒気を覚えた。
 ツバキの魔力量はさほど多くない。けれど、その質と密度、純度は最上級のもの。そんな魔力が、ツバキの怒りに呼応して震えている。ツバキの登場に驚いていた周囲の生徒達が、その魔力に気圧された。


「ジャミルを捧げやがった……! ―――――ジャミルを生け贄にしたんだ!」


 紫の髪が翻るのと同時に、生徒に案内された教師達がようやっと現れた。




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