影を泳ぐ魚
―――とぷん。
ある日の昼下がり。書類仕事をこなしていたときのことだ。どこからか聞こえてきた水音に、椿はよどみなく動かしていた手を止めた。
はて、と首をかしげる。
椿の本丸の池に、生き物はいない。
どこからかやってきた生き物が住み着く可能性も無い。
本丸は隔離空間だ。入り込む余地が無い。
ならば誰かが石でも投げたか。
そう思い池を見るも、人がいた気配は無く、それどころか水面が揺れてすらいない。
可笑しいな、と椿が再度首をかしげる。
聞き間違いか、と書類に向き直ろうとした時。
―――ぱしゃん、
先程よりも明確な水音が聞こえ、辺りを見回す。
そして目に飛び込んできた光景に、椿は目を瞬かせた。
「おやまぁ……」
自分の影の中に魚が一匹、揺蕩う様に泳いでいた。
「影を泳ぐ魚、ねぇ……」
今日の近侍の薬研と共に、縁側に腰かける。
自らの異変に気付き、椿は素直に薬研に進言したのだ。こう言った手合いを隠すと、彼らは酷く憤るから。
最初にこのことを伝えた時、薬研は目を丸くし、次いで剣呑な表情を浮かべたが、害が無いと判断してか、こうして落ち着いている。
「害は無さそうだが、何ぞ不気味だな」
「風流でいいと思うがなぁ」
「雅なことは分からん」
何せ戦場育ちなもんでな、と苦笑する薬研に微笑みを落とし、椿が自分の影に目を向ける。
椿に見られていると気付いたからか、白い魚は影の中でぱしゃりと跳ね、元気に泳ぎ回る。
それに椿が笑みを浮かべ、薬研が渇いた笑みを漏らす。
「気に入られてんなぁ……。何か心当たりはねぇのかい?」
「見覚えならある」
「へぇ?」
「ああ、万屋通りで見かけたんだ」
椿がその魚を見かけたのは数日前。先に行ったように、万屋街の通りでのことだった。
それは通りを流れる川のそばの柳の木の影にいた。
最初は見間違いかと思ったのだが、あまりにも堂々と、悠然と泳ぐ姿にそれは間違いだと悟った。
この魚は間違いなく影の中を泳いでいる、と。
最初は物珍しさから眺めていたのだが、いつしか閃く純白の鱗に目を奪われていたのだという。その輝きが日に翳した刀剣の輝きによく似ていたから。
―――綺麗だなぁ、と感嘆したという。
以上が事の顛末だ。
たったそれだけ。それだけのことなのだが、薬研は理解した。
「嬉しかったんだろうなぁ」
「それで気に入られたのか」
「まぁ、害はねぇんだが」
妖としては弱い。ただ影の中を泳ぐだけの存在だ。
しかし薬研は「気に入らねぇな」と口には出さずに嘆息する。
主と片時も離れずそばにいられるというのは、面白くない。
「妬けるなぁ……」
溜息とともに愚痴が漏れた。
そんな薬研を知ってか知らずか、白い魚は影を揺蕩う。