裏側にて
「この本丸は、不思議なところだ。誰も俺を恐れない」
長曽根がその声が聞いたのは、初めての非番ゆえに何をしていいか分からず、本丸内を彷徨い歩いていたときのことだ。
声のする方を見やれば、そこには長曽根を顕現させた主である椿と、ブラック本丸から引き取った膝丸が縁側に腰かけていた。
二人はどうやら、畑当番である今剣と宗三左文字の様子を眺めているようだった。
「例え穢れを纏っていても、君が一振りの刀剣男士であることに変わりはないからな」
「……恐ろしく思い、忌避するのが普通の反応だ」
「君が本当に恐ろしい奴ならな」
相変わらず、強い言葉を口にする娘だ、と思った。
まだ子供と言って差し支えないこの審神者は、強い言葉と真っ直ぐな眼差しが印象的な少女である。
普段は年の割に落ち着いた少女という認識を持つが、ふとした時に人の上に立つ者特有の気配を漂わせるのだ。
それが見せかけのものであるのか否か、長曽根は未だ測りかねており、この本丸の習わしで「主」と呼べないでいた。
「大変そうだな、ちょっと手伝ってくるよ」
「手伝えなくて、すまない」
「構わない。その靄が消えたら、それまでの分まで働いてくれ」
「もちろんだ」
そう言って、椿が宗三達のもとへと駆けていく。
膝丸はブラック本丸の刀剣男士の中でも特殊だ。
その身に穢れだけでなく、刀剣男士の怨嗟まで纏っている。
そのため、その靄が何にどう影響するかが判明するまで、仕事を任せることが出来ないでいるのだ。
一人で駆けていく椿を見送って、長曽根は膝丸に歩み寄った。
「膝丸、だったか?」
「む。ああ、長曽根、だったな? 俺に何か用か?」
「少しな」
長曽根は顕現されて日が浅い。そのためブラック本丸がどういうものか詳しくは知らない。
この本丸に所属する刀剣達のほとんどがブラック本丸の出身で、どのような扱いを受けてきたのかは知っているが、想像するのは難しい。
だから、知りたいと思って、膝丸に声を掛けたのだ。
そして、そんな彼らに認められた主がどのような人間なのか知りたくて、彼女が苦痛を押してまで受け止めようとする刀剣達の激情を、その身で受け止めようと思って。
「……触れても、構わんか」
「……構わんが、相応の覚悟を持ってくれてくれ。気が触れることのないよう」
「応とも」
腹に力を込め、覚悟を決める。
そろりと靄に手を伸ばす。
ただ手を伸ばしただけなのに、嫌な汗が止まらない。
触れたくない、逃げ出したい。そんな感情で頭が埋め尽くされる。
しかし、ただの子供が触れているのだ。刀剣男士たる自分が、逃げ出すわけにはいかない。
勇気を出して、靄に指を絡める。
「うっ、ぐぅ……!」
その瞬間、強烈な吐き気に襲われた。ガンガンと鈍器で頭を殴られているような激しい頭痛と共に。
強烈な吐き気は、あまりの負の感情ゆえに。激しい頭痛は、あまりに膨大な記憶ゆえに。
壊れるかと思った。正気を失わなかったのが奇跡だとも。
それほどまでの記憶の濁流。嵐と見まごう激情の渦。
朦朧とする意識の中で、膝丸を見やる。
彼は涼しげな顔で、長曽根の姿を見つめていた。
こんなものを背負ってなお、どうして平然としていられるのか。兄の守りがあるとはいえ、耐え難い苦痛であるだろうに。
いや、もっと辛いのは、守りすらない椿という娘。
(こんなものに、あの娘は耐えているのか)
ああ、自分は見誤っていた。
言葉だけでなく、態度だけでなく、その全てで彼を受け止めているのだ。
こんなにもおぞましい物を抱えた彼を、顔色一つ変えることなく。ただ一振りの刀剣男士として認めて。
(認めざるを得んな……)
ああ、彼女は、主たる人に相応しい。