日影探し
ふわりと香ったのは、嗅ぎ慣れない匂いだった。笑顔で隣を通り過ぎた燭台切光忠と鳴狐から香った匂いだ。
(何の匂いだ……?)
嗅ぎ慣れない、けれど記憶の片隅で、彼女はその匂いを知っていた。
(どこで嗅いだ……? この、錆びた様な匂い……)
古い鉄が錆びたものだろうか。けれどそんなものが、この真新しい本丸にあるわけがない。
(鉄に似た匂いなんて、他に……)
知らない、と結論付けようとして、椿はようやく、その答えにたどり着いた。
その答えに気づいたとき、椿は強烈な喉の渇きを覚えた。次に感じたのは恐ろしいまでの手の震え。そして強烈な怒りだった。
「待て」
口から発せられた声は、自分のものとは思えぬほどに低く、重いものだった。
彼らも同様だったのだろう。肩を跳ねさせ、狼狽した様子で椿を振り返ったのだから。
けれど椿はそんな様子を気にも留めず、厳しい視線で鳴狐達をねめつけた。
「お前たち、負傷しているな……?」
怒りを抑えようと握り込んだ拳が、怒りを抑えきれずに震えている。掌に収まった爪先が皮膚を斬り裂いても、痛みすら感じない。それほどまでに、強烈な怒りを抱いていた。
「何故隠していた!」
静かな縁側に、怒声が響く。椿が声を荒げたのを見たのは、前任と剣を交えた時以来で、燭台切たちの動揺は増すばかりだ。
「こ、このくらい何ともないし、資材が勿体無いでしょう?」
「そ、そうです、姐様。中傷程度で進軍に支障をきたしたりしません」
「問題ない」
そんなことよりも、と椿を心配する様子に、椿は更に怒りを募らせた。
「このくらい? 資材が勿体無い? 中傷程度? 問題ない? それを決めるのはお前たちじゃない! 指揮官たる私だろうが!!!」
負傷を当たり前の様に許容している彼らが悲しくて。自分達の身よりも、資材を優先する精神が理解できなくて。彼らをそんなふうに変えてしまった前任が許せなくて。
けれど、そんなものよりも、彼らの負傷に気付けなかった自分が一番情けなくて、憎らしかった。いっそ自分の首を絞めてしまいたいほどに。
「それに、それを許容してしまったら、私はあいつと同じだろうが!」
鳴狐たちはガツン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。
そんなつもりなど、一切なかった。けれど、自分達のしていることは、そういうことだ。そして、それを容認してしまったら、椿は―――あの男と何も変わらない、愚か者になり下がってしまう。
そうならないようにと、誓いの場が設けられたのに。
「私は言ったはずだ! 私が道を誤りそうになったら、”あの男の様になってくれるな”と、殴ってでも止めろと!」
怒っているのに、今にも泣きそうな表情で、椿は叫んだ。血でも吐きそうな、苦しげで、悲痛な声で。
「信じろと言った君たちが、私に道を誤らせてどうするんだ!」
溜め込んでいたものを吐き出すように、衝動のままに叫んだ椿は、肩で息をしていた。
こんな風に昂る椿を見たのは初めてだった。
その顔を見て、彼らはようやく悟った。自分達が、いかに椿を傷付けてしまったのかを。
椿は器用な性質ではない。むしろ不器用な刀達ですら不器用と形容するほどに愚直な人間だ。
自分達の傷を知って、それを知った彼女もまた、傷つくのだ。
自分達の過去の出来事を知り、悲鳴を上げる心を押さえこんできた椿を、自分達はずっと見続けてきていたはずなのに。受け流す術もあるのに、ただ受け止めることしかできないほど真っ直ぐで愚かな人だと知っているはずだったのに。どうして自分達は、そんなことも忘れて、彼女に新たな傷を負わせるようなことを口に出来たのだろう。
「あ、あぁ……っ、ご、ごめんなさい、姐様……っ! そんな、そんなつもりじゃ……!」
「申し訳、申し訳ございません! 私たちにそのような意図は無かったのです!」
「ごめ、ごめん、姐さん! 僕たち、可笑しかったんだ! 何が普通で、何が可笑しいのか、分からなかったんだ……!」
自分達のしでかしたことの大きさに気づいた鳴狐達は大いに狼狽した。
今にも泣いてしまいそうな顔で椿に縋る鳴狐達を見た椿もまた、悟った。
彼らの傷は、まだまだ深い。