彼らの幸せを願う
<信頼>※長谷部視点、研修前
「そう言えば、君はどうして”へし切”と呼ばれるのが嫌なんだ?」
書類仕事が一段落つき、少し休憩しようか、といった姐様の言葉に従い筆を降ろした時、姐様の言葉がするりと耳に馴染んだ。
俺――へし切長谷部よりも少し早く筆を置いた姐様は、まっすぐに俺を見つめていた。
「それは、どういう意味で? ”へし切”と呼びたい、ということでしょうか?」
「いや、そういう訳じゃないんだ。長谷部の方が呼びやすい。でも、わざわざ自分から進言するのには、何かわけでもあるのかと思ってな」
あっけらかんと、何でもない風に姐様が笑って、書類に手を伸ばした。書類を片づける姐様の笑みに、わずかな苦みが混じっているのに気付いて、俺の方にも苦笑が浮かんだ。
国永と国広のことがあって、尋ねてしまったのだろう。彼らは前任の審神者に、ある意味特別な名で呼ばれていた。前者には異常な執着を、後者には多大な悪意を持って。
二振りはそれらの呼び名を嫌い、現在の「国永」「国広」呼びとなったのだ。自分が「長谷部」と呼んでほしいといったのも、彼らの様な理由が原因なのではないかと考えたのだろう。
(つくづく不器用な人だな……)
生きにくいだろう、と常日頃思っていた。
俺達が傷ついているのを知っている。俺達がその傷と向き合い、乗り越えようとしているのを知っている。
俺達の傷を知って、自分が傷つくのも理解している。彼女は俺達の傷を幾度となく見て、聞いて、傷ついてきた。
傷つくのは怖いはずなのだ。痛いことだと理解しているはずなのだ。時には歯を食いしばって、時には拳を握りしめて、悲鳴を上げる心を押さえこんでいるのを、俺達は見てきた。
それでもなお、彼女は真正面から俺たちと向き合おうとするのだ。自分も傷つくとわかっていながら。
彼女はかわせないのだ。俺たちから延びる刃を。もう少し器用であったなら、いなせるであろう刃も。愚かなほど、まっすぐな人だから。
不器用だと言われる俺よりも、ずっとずっと不器用な人。思わず苦笑が漏れるのは勘弁してほしいところだ。
「安心してください。あいつに言われたから、嫌なのではありません」
「っ、そう、なのか」
姐様が、面食らったように俺を見た。きょと、と少し呆けたように頷くのを見て、ほっとした。浮かんでいた表情から、苦味が消えた。
「しかし、切れ味を誇るような名は、刀にとって誉れなのでは?」
「本来はそうでしょう。しかし、俺の名の由来は前の主の狼藉なのです」
「前の主?」
「織田信長ですよ」
「天下人じゃないか!」
姐様が、くるくると表情を変える。表情の変化は大きくないが、驚けばその切れ長の目を開き、嬉しければゆるりと細める。どちらかといえばしぐさや目に感情が乗る方で、そういうところは廣光や鳴狐に似ているように思う。
俺の前の主の名を聞いて目を瞬かせる姐様は、常よりも少し幼く見える。年相応と言っていいのかもしれない。姐様はまだ、少女と言っていい年齢だ。
「君はそんな名将に使われていたのか……」
「しかし俺は下げ渡されたのです。黒田官兵衛という男に!」
主と定めた男に下げ渡された時のことを思い出し、思わず低い声が出る。唸るような声に、姐様はもう一度目を瞬かせた。
「刀の譲渡も行われていたわけか……。まだまだ知らないことだらけだな……」
思案げな顔で呟き、ことりと首をかしげる。その動作に、つい、熱くなってしまったことに気付き、額を押さえる。
しかし姐様はさして気にした風もなく、ゆるりと天井を見上げたかと思えば、思いのほか強い眼差しを向けられ、居住まいを正した。
「君は恨み事のように下げ渡されたというが、私は信頼の裏返しだと思うんだ」
「信頼の裏返し、ですか……?」
「ああ。かの人は天下人として君臨していただろう? そんなお方が自分の名を背負わせて他人の手に渡すんだ。自分の品格を下げるようなものは渡せない。鉄くずを渡されたなんて噂が広まりでもしたら、織田の威光に傷がつく」
姐様が、にっと口角を上げる。女性であるにもかかわらず、姐様は男くさい表情が様になる。
言われた言葉の内容を処理しきれぬうちに、姐様が言葉を重ねた。
「そういう意味では、君はとても信頼されていたんじゃないか?」
「……そう、でしょうか……」
「君の切れ味を身をもって知っている私が言うんだ。まちがいないさ」
そう言って姐様は、包帯の取れた右腕を撫でた。
前任者である男が、俺を使ってつけた傷は、すでに癒えている。二二〇〇年代の医療技術は姐様のいた時代のそれをはるかに上回っており、凄まじい回復を見せた。だが、傷跡は生々しく残ったままである。
傷跡を消し去ることも出来るのだと言うが、姐様はそれをしなかったのだ。忌々しいものであるだろうに、姐様はそれを誉れのように、愛しげに撫でるのだ。
(そんなものを撫でるくらいなら俺を撫でてほしい)
顔が険しくなるのは仕方がないだろう。回復したらすぐにでも消えるものだと思っていたのに。主を傷付けた罪の証だなんて、今すぐにでも早く消えてほしいと願っているのに、それはなかなか消えてくれない。
「消えないよ」
姐様の言葉に、心の臓がひやりと冷えた。心を読まれたようで、肩が跳ねる。
「君には悪いが、これを消すつもりはない」
体を突きさすように感じるほど、まっすぐな声。曲がることを知らない強い声。まるで姐様を表しているような、そんな声だった。
もしかしたら、無意識に言霊を使っているのかもしれない。言霊なんてものを使えば、それに縛り付けられるはずなのに、姐様はそれすらも強さに変える。
逞しく、凄まじく、末恐ろしい。
――だからこそ、主と定めたのだけれど。
「これは私の誇りなんだ。君達を勝ち取った証だからな」
姐様はもう一度、男くさい笑みを浮かべた。
「君にも誇ってもらうぞ。その勝利を、私のことを」
「――ええ、もちろんです。あなたなら、俺に誇らせてくれると信じています」
壮絶なまでの笑みを浮かべた姐様は、刀剣のように美しかった。
<おまけ>
「さて、」
すくり、と姐様が立ち上がる。茶でも入れるか、と呟いて、袴の裾をさばいて歩く。
現代では着物の文化は廃れつつあるらしいが、姐様はそれを感じさせないくらいに着物の扱いを心得ている。
茶なら俺が、と立ち上がろうとすると、俺の隣をすり抜けようとした姐様が一瞬だけ立ち止まった。
する、と指の背で頬をなでられ、ぽふりぽふりと柔らかく髪を撫でられる。その感触に、ぎくりと体が固まった。
「私の気分転換も兼ねている。君は待っていてくれ」
ひらり、と後ろ手に手を振る姿は酷く男らしい。それを見送り、俺の体から力が抜ける。
かくりとその場に座り込んでしまい、うなだれて顔を覆う。
視界の端では、桜が舞っていた。
俺ごときの心など、姐様にはお見通しであるらしい。
(何だってあの人は、あんなにも格好いいんだ)
深く息を吐くと同時に、廊下から姐様の楽しげな笑い声が聞こえた。