地獄の鷹見さん家 2






 もう幾度目かになる邂逅の果て、椿はホークスが隣に降り立つのを許していた。椿は、自分を気に掛けてくれる相手を邪険に扱えるような性格ではない。忙しい時間をやりくりして自分に会いに来る相手を無碍に出来なかったのだ。要は絆されたのである。
 本日の手土産は、珍しいことに足の速い食べ物だった。全国的に展開されているチェーン店のたい焼きで、公園のベンチに二人並んで分け合った。まだあたたかいたい焼きはあんこがたっぷりと詰め込まれていて、素朴な甘さに頬が緩む。半分ほどを夢中になって食べていると、隣に座ったホークスが自分に視線を向けていることに気が付いた。庇護すべき雛鳥を見つめるような、幼子を微笑ましげに眺めるような、慈愛の籠もった眼差し。その視線が気になって顔を上げると、彼はくすぐったそうに小さく笑った。


「美味しそうに食べるね。甘い物好き?」
「はい。美味しいものを食べるのが好きなんです」
「そっか。俺も美味しいもの好きだよ。特に鶏肉が好きかな」
「美味しいですよね、お肉」


 椿は食べることが好きだ。美味しいものを食べると、それだけで満たされる。あたたかい気持ちになる。だから、お腹が空いていると悲しくて、寒くて、どうしようもなくなってしまうのだ。家に帰っても、満たされることはない。椿がホークスに絆されたのも、幸せを与えてくれるからだ。餌付けされてしまったなぁ、と内心で苦笑しながら、残り少なくなったたい焼きを頬張る。カリカリに焼かれた生地が香ばしい。


「まだあるよ。クリームたい焼きなんだけど、食べる?」
「食べます」
「即答じゃん。そんなにお腹空いてたの?」
「成長期なので」
「あはは、そりゃあお腹も空くよね。お腹いっぱい食べな」


 食べ終わると同時に、新しいたい焼きを差し出される。ほんのりあたたかいたい焼きは、甘くて幸せの香りがした。バサ、と翼が喜びを表す。それを微笑ましげに見つめ、ホークスも食べかけのたい焼きを一口。意外に大口で、かぶりつく、という表現がぴったりの食べ方だった。けれど、がっついているようには見えないのだから不思議だ。むしろ様になっているようにさえ見えるのだから、顔が整っているというのは羨ましいことである。
 たい焼きを二つ食べて満足したのか、ホークスは一息ついた。二つ目を食べ初めるのが遅かった椿のたい焼きは、まだ半分ほど残っている。もぐもぐと一生懸命に口を動かしているのが微笑ましくて、ホークスは相貌を崩す。
 美味しいものでお腹があたたかくなって、幸せで満たされた椿の翼はいつまで経っても歓喜を告げていて、たい焼きを頬張る顔も幸せに緩んでいる。普段の澄まし顔を崩し、頬を上気させているのがずるいくらいにかわいらしかった。その少女が妹だと知ってしまえば、尚更。


(妹をかわいく思う感情が俺にあるなんて思わなかったな……)


 心を捨て去ったわけではない。けれど、家族の情なんてものとは無縁だった。助けるべき少女が自分の妹だと知って、確かに心は揺れ動いたけれど、思考と感情を切り離す術は心得ている。情なんて早々湧くものではないと思っていたけれど、七つも年の離れた、存外素直な少女に惜しげも無く笑みを向けられてしまえば、どうしたって胸の裡があたたかいもので満たされてしまう。
 手土産を用意できなくて、初めて手近なチェーン店で買ったおやつを持参して、二人で食べたとき。あまり表情の変わらない子供が、口元を緩ませて、美しい花を咲かせた。大輪の花を思わせる笑みを見て。自分と同じ色の瞳が、幸せにとろけたのを見て。その顔をもっと見たくなってしまったのだ。その感情の名をホークスは知らなかったけれど、大事にすべき心だと彼は思っている。きっとそれは、美しく尊い感情なのだ、と。
 ふわふわと、彼女の体格に合わせた小ぶりな翼が自分の翼に触れた。柔らかくてあたたかい。同じ剛翼であるはずなのに、彼女のそれは自分の翼と違ったものに見える。ふと目を向けたそれに、ホークスはきょとんと目を瞬かせて首を傾げた。


「そう言えば、君の風切り羽って俺のより大きいね?」


 バサリ、と翼を大きく広げ、自分の風切り羽を指でつまむ。全体の大きさはホークスの方が圧倒的に大きいけれど、風切り羽のみを比べると、椿のものより明らかに小ぶりに見えた。
 たい焼きを食べ終わった椿が、ホークスの真似をして翼を広げる。隣に並べると、その違いが顕著に現れた。


「そうですね。私の剛翼は、ホークスの翼のように美しいものではないので、それも仕方のないことかと」
「……どういうこと? そういう自虐、あんまり好きじゃないんだけどなぁ」


 ホークスは、自分の剛翼を美しいものだとは思っていない。仄暗い世界で、汚い仕事もたくさんこなしてきた翼だ。鮮血を思わせる色だと思ったこともある。彼女はそれを知らないから、たくさんの人を助けたヒーローの背負うものだと考えているから、そのように言えるのだ。真実を知れば、椿はきっと尊いものを見るような優しい瞳でホークスの剛翼を映さない。
 椿が、己の背中から初列風切を切り離す。一際大きな羽根は、ヒーロー活動であっという間にボロボロになってしまうホークスの翼よりも、色艶が劣っているように見えた。彼女の健康状態がそのまま現れたような羽根に、ホークスが顔を顰める。けれど、彼女はそれを指しているのではない。


「自虐ではなく、事実です。私の風切り羽は、人を救うようには出来ていない。とても鋭利なんです。岩くらいなら一刀両断出来るくらいに」


 椿の言葉に、一瞬思考が追いつかなかった。
 ホークスは多才な技を持つ万能型のヒーローだ。彼の個性である剛翼は使い勝手が良く、非常に汎用性が高い。巨大な翼で自在な飛行を可能とし、一枚一枚の羽根を思いのままに操れる。数千にも及ぶ羽根が織りなす物量攻撃。僅かな振動で音や空間を正確に把握する感知能力。消耗しても、すぐに生え変わる回復力。過酷なヒーロー業で使い捨てても問題にならないという優れもの。
 しかし、明確な弱点として『火』が上げられる。剛翼は炎に巻かれてしまえば、簡単に燃え尽きるのだ。そしてもう一つ、剛翼は攻撃の決め手に欠けるのだ。火力が出る技がなく、耐久型や防御特化の個性に対して、一撃必殺となるものがないのだ。そうであるが故に、ホークスは己の背中では、人々を安心させられないと考えている。巨悪に打ち勝てるような人材ことが、ヒーローの象徴であるべきだと。


「刃を滑らせれば、大抵の物が切れます。今のところ、斬れないものはなかったですね」


 椿の言い分が真実であるならば、それはホークスが自身の剛翼に音波振動を付与してようやく出せる火力である。切れ味が良いなんてものではない。良すぎて危険だ。椿が手の中で弄んでいる羽根すらも、奪い取ってしまいたいくらいに。


「私の個性は、簡単に人を殺せてしまうんです」


 椿は何でも無いような顔で、凪いだ瞳で己の羽根を見下ろしている。その目があまりにも無機質で、淡々としていて、身体の芯が冷えたような気がした。
 個性というのは、素晴らしいものだ。人を助けることも、何かを生み出すことも出来る。けれど、大きすぎる力は使い方を間違えれば、簡単に人を傷付けることが出来る。椿の言うように、人だって簡単に壊せてしまうのだ。
 だが、椿は剛翼という個性自分の力でたくさんの人を助けた。人を殺せると言った力で。
 彼女は、自分の力を正しいことに使える人間だ。だから、自分の羽根を、そんな冷たい目で見ないで欲しかった。


「そんなこと、言わんでよ……」
「ホークス……?」
「君は、君の個性ちからは、たくさんの人を助けることが出来るんだから」


 もっと、何か良い言葉はないものか。もう少し気の利いた台詞は無いものか。普段は良く回る口が縺れ、言葉を紡げない。表情も取り繕えていないだろう。ずっと訓練を積んできたくせに。肝心なところで役に立たない。本当に、情けなか。
 言葉を探して口を開くも、言葉にならずに溶けていく。安心させたくて笑みを浮かべようにも、どんどん顔が強ばっていく。そうやって藻掻いていると、ぽかんと呆気に取られたような顔をしていた椿が、不意に口元を緩めた。ほんの少し眉の下がった笑みは苦笑に似ていたけれど、呆れたようなそれではなくて。小さい子供の無邪気さに、仕方ないなぁと微笑む大人のものに似ていた。


「ありがとう、ホークス。でも、大丈夫だから」
「………なにが」
「私の翼は、確かに人を殺せます。でも、使い手わたしが使い方を間違えなければいいだけの話ですから」


 そう言ってホークスを見つめる瞳は、力強い光を湛えている。その言葉を違えることはないと、何の根拠もなく信じられてしまうくらいに。
 美しい瞳だと思った。自分と同じ色をしているはずなのに、彼女の瞳は陽だまりを思わせた。


「それに、例え使い方を間違えてしまいそうになっても、きっとヒーローが止めてくれますから」
「そっか……」
「はい。だから、安心してください」


 ―――――そうやってヒーローを頼ることが出来るなら、どうか俺の手も取って欲しい。
 そう思うのは傲慢だろうか。ホークスはそっと息を吐く。
 今はまだ、時期尚早なのだろう。椿は依然、自分の置かれている状況を話そうとしない。それどころか、ホークスのことばかり気に掛けている。一刻も早く保護してしまいたいが、何の理由もなしに親元から引き剥がすことなんて出来ないのだ。ヒーローに与えられた権限は“敵”に対しては大きいけれど、被害者の保護に対しては、専門機関に依存している。何も出来ない訳ではないけれど、そこに行き着くまでに、複数の手順を踏まなければならないのだ。
 これが普通の家庭ならば話は簡単だった。児童相談所に通報さえしてしまえば、行政が動いてくれる。もしくは証拠を集めて書類を提出してしまえば、あとはヒーローでも保護することが出来る。けれど、羽飼家は公安の保護下にあるのだ。公安が虐待を認めなければ、例えヒーローであっても親元から未成年の子供を引き離すことは出来ない。被害者である子供が、自ら助けを求めでもしない限りは。


(だから早く、俺に助けを求めてよ)



***



椿「あなたは存外、分かりやすい人ですね」
ホークス「………そんなこと、初めて言われたんだけど」
椿「そうなんですか? あなたの周りは、あまり人の顔を見ない人が多いんですね」
ホークス「ヒーローばっかりで、それはないんじゃないかなぁ……」
椿「なら、気遣い屋が多いんでしょう」
ホークス「気遣い屋」
椿「気付いていても、あなたが隠していることを暴きたくなかったから、黙っていたのかもしれませんね」
ホークス「………そうかもね」
椿「ホークスは優しい人だから、きっとあなたの周囲はあたたかい人が多いんでしょうね」
ホークス「……そうだね、いい人ばかりだよ」



***



ホークス「公安はあの子のこと、知っていましたよね?」
目良「……ええ。自分が報されたのは、大分後になってからでしたが」
ホークス「保護を検討しなかったんですか」
目良「………あの子のことで、聞こえてきた声が二つあります。一つは保護し、公安ヒーローを育成するというもの。もう一つは、万が一のときの保険」
ホークス「…………俺への交渉材料にするつもりです? 俺、今まで命令違反なんてしましたっけ?」
目良「それもありますが、色々使い道がありそうだと」
ホークス「…………あの子には何の義理も無いはずだ。確かにあの子が屋根のある場所で暮らせているのは公安のおかげです。ですが、虐待されている事実を知っていながら、あなたたちはそれを放置している。あの子に、公安のために働く理由がない」
目良「……ええ、おっしゃる通りです」
ホークス「あの子に手出しはさせません。あの子は護るべき一般市民だ。あの子に手を出したら、俺は何をするか分かりませんよ」
目良「肝に銘じておきます」



***



 学校が休みの休日は、椿はいつも図書館で勉強をして過ごしている。少しでもいい学校に入って、少しでもいい肩書きを持って巣立ちたいのだ。壊れた家庭の子供は、どうしたって色眼鏡で見られてしまうから。
 この日も椿は開館時間から図書館に入り浸ろうとしていた。彼女が利用する図書館は、掲載時期が終了したチラシや掲示物が『ご自由にお使いください』と書かれた箱に入れられている。その紙をノート代わりに使わせて貰い、椿はノートを消費することなく勉強をすることが出来るのだ。お金に不自由はしていない家庭だったが、それが椿に回されることはない。そのためノートを買う余裕などなく、そのチラシを使わせて貰っていた。
 初めのうちは遠慮して大きめのものを二枚か三枚ほど使っていたのだが、それを何日も続けていると、職員の方から『遠慮しなくていいよ』とチラシをどっさりと手渡された。それからは、ほんの少しだけ遠慮を捨てて、多めに使わせて貰っている。
 今日もあたたかい人達の居る図書館に向かおうとした。けれど、その日は遠見絵がそれを許してくれなかった。
 夢見が悪かったのか何なのか、まだ空が白み始めたばかりの早朝。いつもならベッドの中で寝息を立てているはずの遠見絵が、椿の蹲るクローゼットの扉を開け放った。その音で目を覚ました椿は、自分を見下ろす鈍い金色にゾッとした。薄暗い室内の僅かな光を反射して、妙にギラギラと輝いていたのだ。逃げなければ、と思ったときには遅かった。赤い翼を掴まれ、クローゼットから引きずり出される。背丈ばかりがひょろりと伸びた椿は、身長に見合わない軽さをしている。引き摺るくらいなら女性でも可能で、椿は簡単にクローゼットから引っ張り出された。


「私に似た子供だったら愛せると思ったのに。あんたはあの人にそっくりで、ちっともかわいくない」


 掴まれたままの羽根を、力任せに引きちぎられる。剛翼は自切することが可能だが、感覚が無いわけでは無い。無理矢理毟られるのは相応の衝撃があり、椿は瞬間的に剛翼を硬化させてしまいそうになる。普段はただの羽毛だが、剛翼は武器になるほどの固さとしなやかさを持っている。その強度の羽根に素手で触れれば、ただでは済まない。特に風切り羽は切れ味が段違いで、人の指ならば簡単に落とせてしまう。それは避けないと、と出来るだけ力を抜き、両腕で頭を抱える。身体を縮め、防御の姿勢を取った。


「どうしてあんたを産んじゃったんだろう……。あんたなんて、産まなきゃ良かった」


 ゴス、と背中に拳が落とされる。泣いているのかというほど震えた声で、憎々しげな言葉を紡ぐ。
 愛そうとはしてくれていたのか。自分は父親似なのか。背中から伝わる痛みから逃避したくて、場違いな思考に意識を向ける。


「あんたは本当に私を苦しめるだけの存在だね……」


 自分に似ていたらいいと希望を持って、けれど実際に生まれたのは憎い男に似た子供で。それは同情するけれど、だからといって暴力を振るわれる謂われはない。何度か抵抗しようかとも考えたけれど、抵抗したところでどうしようもないというのが現状だ。
 おそらく“敵”だと思われる父親。働いている様子もないのに、保障された生活。まともな生活を送れているとは思えない様子の子供を見ても、助けようとしない周囲。きっと、何かしらの大きな力が働いているのだ。そうでなければ、ヒーロー社会がこんな歪な家庭を放置したりはしない。だからきっと、母に反抗しても意味がないのだ。実態がどうあれ、椿は遠見絵の庇護下にあることになっている。独り立ちできる年齢になるまでは、どうにか耐えなければならない。


「あんたの兄さんは、この家を用意してくれたよ」


 遠見絵の言葉に、椿の脳裏に鈍い金色が過ぎる。思い出されるのは、庇護すべき雛鳥を見つめるような、幼子を微笑ましげに眺めるような、慈愛の籠もった眼差し。
 自分とよく似た赤い翼。ホークスの顔がテレビに映ったときの母の反応。劣悪な環境を理解している素振り。―――――彼が椿を気に掛けるのは、彼が実の兄妹であることを知っていたから?


「で、あんたは私に何をくれるの」


 髪を引っ張られ、無理矢理顔を持ち上げられる。痛いはずなのに、それよりも絶望に近い感情が心を占めて、胸の方がずっと痛かった。


(やっぱり、あなたは凄いなぁ……。こんな壊れた人すらも救うだなんて)


 だからこそ、嘘だと言って欲しかった。清廉潔白が望まれているヒーローに、不穏な影をちらつかせてはいけない。娘に暴力を振るう母親なんて居てはいけない。母親を脅してお金を貰う妹なんて居てはいけない。
 助けて欲しくないわけではないのだ。理不尽な苦しみなんて負いたくない。普通の生活を送りたい。けれど、今の椿にとって、誰かに助けを求めると言うことは、酷く難しいことなのだ。
 もうずっと、誰かに甘えるなんてしたことがなかった。一度目の人生むかしは頼り頼られが当たり前で、甘え甘えられが普通のことで。何の気負いもなく出来ていたはずなのに。もう何年も一人で頑張ってきたから、甘え方なんて忘れてしまった。
 もうずっと、守ってくれる人なんて居なくて。自分を救えるのは自分だけだという環境で生きてきて。無条件で愛してくれる存在なんて、遙か遠くに置いてきてしまった。そんな自分の前にようやっと現れたヒーローは、あってはならないことなのに、自分と同じ血が流れている。


(母のためにも、私のためにも、私は母から離れた方が良い)


 けれど、椿は怖いのだ。助けての声が、誰かに届く前に握りつぶされてしまうのではないかと。
 母親は椿の味方ではない。学校は『問題のある家庭なんてありません』と、『いじめなんてありません』と平気で嘯く。椿に衣類や教科書を提供してくれた保護者達は、哀れみの籠もった瞳で見下ろすだけ。声を上げても、助けようとしてくれた人なんて居なかった。見て見ぬ振り、あるいは誰かが助けてあげるだろうと放置されてきた。
 ―――――ホークスは?
 あの人なら助けてくれるのではないかと期待している自分がいる。何度も伸ばされた手を、無碍にしてきたくせに。
 なんて身勝手。なんて傲慢。今更なんだと、拒絶されても仕方のない所業。
 最悪の事実はもう、確定してしまったも同然だ。これ以上の絶望なんて、滅多にないだろう。ならば、もういっそのことどん底まで落ちてしまおうか。


(駄目元で助けを求めて、“やっぱり駄目でした”って言われたら、私はきっと、もう少し頑張れる)


 底まで落ちてしまえば、後は上がるだけだと知っているから。
 底が見えないことの方が、椿にとってはよほど恐ろしい。




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