地獄の鷹見さん家 7






 椿がホークス事務所を尋ねる機会は、存外早く訪れた。ホークスがチームアップに呼ばれ、大阪に出張することになったためである。
 期間は未定である。未定ではあるが、ホークスの活動拠点は福岡であり、あまり長く引き留めるわけにはいかないと、一週間という期日が設定されていた。だが、“敵”を確保できれば、その分短縮できる類いのもの。ホークスは自身が最速で飛ぶことを条件に、このチームアップ要請を受け入れた。


「体調が悪くなったら、隠さずに報告すること。暗くなる前に家に着くように帰ること。事務所に着いたときと、家に帰ったときに連絡を入れること。これだけは絶対に守って」
「はい、分かりました」
「何か変わったこととか、気になることがあったら、いつでも連絡してきて良いからね。何か良いことがあったよ、とか、些細な事でも何でも」
「ホークスも、連絡してくれますか?」
「もちろん。だから、椿ちゃんも遠慮しないでね」
「………はい」


 現状において、椿が頼れるのはホークスだけである。そんなホークスが家を空けるのは、トラウマを抱える椿には多大な負担となるだろう。また夜中に飛び起きて、クローゼットの中で震える夜を過ごすことになりかねない。それは避けたい事態だった。出来れば、長期間事務所を空けるようなチームアップは、彼女の精神がある程度回復してからが好ましかった。だが、“敵”はこちらの事情に頓着しない。一人でも被害者を減らせるように。少しでも多くの人を救えるように。そのために駆け回るのがヒーローの仕事なのだ。
 けれど、傷を抱える家族の憂いを払いたいと願ったっていいだろう。例え、万人を優先しなければならないヒーローだったとしても。


「とりあえず、日中は出来るだけ事務所で過ごして。困っていることがあったら、一人で抱え込まずに彼等に相談してね。本当は俺に言って欲しいけど、今回ばかりはすぐに解決してあげられないからさ」
「はい」
「絶対だよ? 彼等も誰かを助けたいって想いから、ヒーローやってる人達なんだから」


 日中に家で心細い想いをしないように、ホークスは椿を事務所に通わせることにした。遅くなったとしても、ホークスが帰ってくると分かっている普段とは違い、今回は帰宅がいつになるか分からない。それはきっと、計り知れない負担と不安を強いることになる。少しでも気が紛れるように、事務所の面々には椿を気に掛けて貰えるようにお願いしていた。


(それでも、一人で不安な夜を過ごさせなければならないのは、なんとも歯がゆいな……)


 初めて椿がホークスの翼を抱えて眠ったあの日以外にも、椿が悪夢で飛び起きる日は何度かあった。その中でも、一際酷い取り乱し方をしていたのを見たときは愕然とした。どうしてこんなにも深い傷を、彼女はおくびにも出さずに過ごせているのだ、と。

 ―――――ごめんなさい、ごめんなさい……! 生まれてきたこと謝るからぁ……! もう蹴らないで、毟らないでくれ、母さん……っ!

 すすり泣き、懇願する声は掠れていた。頭を抱え、身と翼を縮込ませた姿は、赤い繭のようだった。ずっと、そうやって一人で自分を守ってきたのだ。
 どうしてこんなにも辛い過去を抱えて、彼女は笑っていられるのだろう。自分の倍以上の時間を虐げられてきて、どうして人を愛せるのだろう。殴られて、蹴られて、毟られて。それでも尚、相手を傷付けないように、羽根を柔らかく保とうと必死になるのだろう。痛いのも、苦しいのも、惨めも、恥ずかしいも、嫌と言うほど味わっているはずなのに。それらの原因になった相手を、どうして思いやれるのだろう。
 けれど、少しだけ、ホークスにも覚えがあった。父親の姿に、こんな人間にはなりたくないと思った、かつての自分を思い出した。
 自己犠牲とは違う。ただ、傷付けたくないだけ。その由来は正確には量れないけれど、きっと彼女は、誰かを傷付けるのが怖いのだ。自分がその痛みを知っているから。
 この子が両親に似なくて良かったと、心から思った。けれど、似なくて良いところが、自分と似てしまった。―――――人に頼るのが苦手なところは、似なくて良かったのに。


「…………ずっと誰にも頼れずにいた君には難しい事かもしれないけど、」


 一歩で良い。差し出した手に指を掛けてくれるだけで良い。ほんの少しだけ、勇気を出してくれたなら。その勇気ごと、全部掬い上げるから。


「…………うん。ちゃんと、頼れるように頑張るから」


 今度は伸ばされた手を、ちゃんと握り返すから。ちゃんと、声を上げるから。そのときは振り絞った勇気ごと、助け出して欲しい。
 椿の雄弁に語る瞳を見つめ、ホークスが微笑む。
 まだまだ、難しいだろうけれど。戸惑いが勝ってしまうだろうけれど。それでも、手を伸ばしたいと思ってくれた。そうしたいのだと笑ってくれた。今は、それで十分だろう。


「ホークス、そろそろ時間ばい」
「早く行って、早く帰ってきた方がいいんじゃないですか?」


 二人のやり取りを見守っていたサイドキック達が、ホークスに声を掛ける。時間を確認したホークスが「もうこんな時間か……」と小さく呟いた。声音は普段と変わらないように聞こえたが、僅かに不満が滲んでいる。おそらく、その不満を聞き届けたのは椿だけだった。
 けれど、それも一瞬。すぐに淡い笑みを浮かべて、ぽん、と頭に手を置かれる。


「すぐ帰ってくるからね」
「はい。いってらっしゃい。お気をつけて」
「うん、行ってきます」


 控えめに手を振ると、ホークスが嬉しそうに破顔する。ひら、と手を振って、ホークスは窓から空へと飛び立った。事務員から「玄関から出なさい!」とお叱りが飛ぶけれど、ホークスはすでに空高く舞い上がっている。剛翼が声を拾っているかもしれないが、彼から返事はなかった。
 そんな後ろ姿を見上げながら、「まったく……」と盛大にため息をつく。そんな事務員の代わりに、椿は開けっぱなしの窓を閉めた。


「椿ちゃん、前に来たときにも案内されたと思うけど、もう一回事務所内の案内する?」
「いえ、覚えているので大丈夫です」
「そう? 記憶力良いんだねぇ」


 椿が新しい場所に来た際に行うことはいくつかあるが、その一つが逃走経路の確認である。建物の全体を把握して、どの場所で危険に晒されても、迅速に脱出するためにシミュレーションを行う。ホークス事務所でも、当然のように同じ事を行った。その際に思ったのが、この事務所は随分とこじんまりしており、重要な部屋が所長室周りに集中しているということ。本来なら、そう言った重要箇所はばらけさせるものである。それをしないのは、おそらくホークスにそれだけの自信があるということだろう。あるいは、絶対に守るという固い意志と、その覚悟。
 そんなもの、無ければ良いのに。そう思ってしまうのは、椿のよりどころが、彼以外にないからだろうか。


「家では、日中は何して過ごしているの?」
「家事と、勉強です。ホークスがテキストをたくさん買ってくれたので、それをして過ごしています」
「そっか。今日も勉強して過ごすつもり?」
「はい。なので、机を貸していただけるとありがたいです」
「なら、集中できる場所の方が良いよね。あんまり使ってない資料室があるから、そこ使う? 掃除は定期的にしてあるから、汚くは無いと思うよ」
「ありがとうございます。でも、資料室に入っても大丈夫なんですか?」
「たいしたものは置いてないから大丈夫だよ。その隣の給湯室も好きに使ってくれて良いから」


 それなら、と頷くと、事務員が朗らかな笑みを見せる。一緒に行こうか、と手招かれ、素直に後ろを付いていく。部屋を出る際に会釈をすると、サイドキックや他の事務員達が柔らかな笑みで見送ってくれた。
 廊下に出て、事務員の背中を追い掛ける。ゆったりとした足取りは、椿に合わせたものだろう。誰かを助けたいという想いで集まった人達の職場は、どこもかしこも人情味に溢れていた。


「そう言えば、まだ学校には通っていないんだっけ?」
「はい。環境の変化による心身の影響を考慮して、しばらく様子を見てからということに」
「そっか。確かに環境が変わると体調を崩したりするもんね。………答えにくいと思うんだけど、病院とかは行ってるの?」
「来週からです。その結果を見て、学校に通い始める時期を考えていこう、と」
「……椿ちゃんは学校行きたい?」
「そうですね。行きたい学校があるので……」
「そっか。早く通えるようになると良いね」


 行きたいとはいうものの、その理由は健全なものではない。よろしくない家庭環境に対する色眼鏡を少しでも軽減させるために、その威光を借り受けたいのだ。家が荒れていても、自分自身には問題ないのだと、そう示すために。


「はい。なりたいものになるために」


 ―――――在りたい自分で在るために。



***



 ホークスは悩んでいた。それはもう、物凄く。


「な、なして……?」


 椿の腕をにぎにぎと柔く揉み込むように握りながら、ホークスは顔から血の気を引かせていた。椿を引き取ってから数週間。鶏ガラのような身体をしている椿が、いつまでも肥えないからである。
 椿はよく食べる方である。成長期というのもあるが、剛翼を動かすためにエネルギーを使うため、その分カロリーを消費するからだ。それを差し引いても、一般的な女子中学生の中でも食べる方に分類されるだろう。その上、今まで食べられなかった分を取り戻すかのように、様々なものを口にしている。年頃の少女が気にするようなカロリーなんて、一切考慮していない。ホークスがお土産にとおやつを買って帰れば、それだって喜んで食べた。なのに、細いのだ。いつまで経っても。母親と暮らしていたときとは比べものにならないくらい食べているはずなのに。
 吐き戻している様子は見られない。吐き戻していたら察知できないわけがないし、何より以前にはなかった翼の艶や、血色の良さがあるのだ。まともに栄養も摂れずにいた頃との違いは、確かに表面に現れている。だと言うのに、何故か身体の細さだけが変わらないのだ。


「もしかして、遠慮しとう……?」
「いえ、お腹いっぱい食べさせていただいています」


 事実、椿は食に関しては遠慮が見受けられない。否、焼き加減がうまく行っただとか、形が綺麗なものは必ずホークスの皿に乗せられている。食べたいものを口にすれば、必ずホークスのリクエストしたものが食卓に並ぶ。優先順位はあくまでホークスが上だった。
 けれど、食事を抜いたりだとか、量を減らしたりだとか、そういったことをしている様子は見受けられないのだ。ホークスがしっかり食べるように言い聞かせているのもあるだろう。そして椿は、椿がきちんと食事を摂ることで、ホークスに安心と喜びを与えられるのだと言うことを理解している。食事を疎かにする方が拙いことなのだと認識しているのだ。だから、椿は自分の中で食べることに対しては遠慮しないと決めているようだった。単純に彼女が食べることが好きなのだというのもあるだろうが、ホークスとしても、その選択が正解なので、お腹いっぱい食べて欲しいと思っている。
 けれど、だからこそ疑問だった。しっかり食べているはずなのに。何故、椿は依然として細いままなのか。


「た、体重は、増えていますよ……?」
「嘘でしょ? どこに肉が付いたの」
「い、一キロくらいですが……」
「誤差じゃん!!!」


 しっかりと相手の目を見て話す椿が、今日ばかりは目を泳がせていた。何かを隠していることは明白だ。問いただせば話すだろうが、出来ればそれは避けたい。自分の口から話さないことには、彼女の負担になってしまう。
 視線を落とした椿が、唇を戦慄かせる。けれど言葉を発する前に、口が引き結ばれてしまう。それが何度か繰り返されて、けれど言葉に出来ない。いよいよ瞳が潤み始め、ホークスがそっと頬を撫でた。


「責めたいわけじゃないんだ。ただ、心配なだけなんだよ。でも、それ以上に無理はして欲しくないかな」


 栄養失調でカサカサだった肌は、今は随分と触り心地が良くなった。これで子供らしい丸みがあれば良かったのだが、そうなるのは当分先だろう。


「ご、ごめんなさい……。あんまり激しい運動をしてはいけないって言われているのに、空を飛ぶ練習をしていたんです」
「空を飛ぶ練習? 椿はもう、十分飛べていると思うけど……」
「ま、また、落とされたとき、ちゃんと飛べるか分からないから、毎日飛べるかどうか確認しないと、不安で……」


 椿はいじめの一環で、小学校の屋上から突き落とされたことがある。必死になって羽ばたいて勢いを殺し、滑空する形で地面に転がり落ちたという。その話をしたとき、彼女は過去のことだと言った。前を向いて進みたいのだ、と。
 けれど、心の傷は、簡単に癒えるものではない。また一つ、椿のトラウマが顕わになった。だが、考えてみれば当然である。まだ幼い子供が数十メートルもの高さから無理矢理落とされて、死の恐怖を間近に感じたのだ。心に恐怖が巣くうのは必然だった。
 ―――――これは俺の落ち度だ。そんな当然のことを、見落としてしまっていた。


「………そっか、そうだよね。ごめん、気が付かなくて。屋上から落とされるなんて、あってはならない目に遭って、それが傷にならないはずがないのに」
「ホークスは悪くないです。私が、隠していたから……」
「話したくないことがあって当然だよ。それに、椿はずっと一人で戦ってきたんだ。人に弱みを見せられないのも無理はない」


 椿にはきっと、そんなことがたくさんある。自分とは異なる理由で、話したくないことや話せないことが、それこそ山のように。それを全て話せるようになるまで、どれほどの時間が掛かるだろう。もしかしたら、一生口に出来ないまま終わるかもしれない。それはきっと想像を絶する苦痛だろうけれど、無理に吐き出させて、余計に傷を負わせるのは避けたいのだ。
 ―――――ああ、情けなか。
 らしくない自分の考えに、ホークスが内心で苦笑する。これは逃げだ。傷付けるのが怖くて、問題から目を背けている。椿に嫌われるのが嫌で、向き合わなければならない問題を先延ばしにしている。そうしたって、何も始まらないのに。解決なんて出来るわけがないのに。
 椿の身体を抱き寄せて、膝に座らせる。その身体は大柄とは言えないホークスでも簡単に包み込んでしまえるくらいに小さくて、びっくりするほど重さを感じない。少しでも力を込めたら折れてしまいそうな身体は、酷く泣きたい気持ちにさせた。この身体に、これ以上の苦しみを背負わせたくない。この背中に今以上に重荷になるようなものを乗せてしまうと、簡単にポキリと折れて、ぐしゃりと潰れてしまいそうで、背筋が凍るほど恐ろしかった。


「…………それは、ホークスもでしょう?」


 ―――――お互い様です。
 椿の小さな手が、ホークスの頬に触れる。親指の腹が、目の下から目尻をなぞった。
 この子は本当に、何をどこまで見透かしているのだろう。光を集めたような瞳は、まるでお天道様のよう。白日の下にさらされるように、彼女の目には真実が映っているのかもしれない。全てが明るみに出てしまいそうで、ホークスは椿の頭を抱えるように抱きしめた。卑怯者め、と己を叱責しながら。




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