拾いものをする姐さん 2






「椿ちゃん、俺に遠慮しとー?」


 珍しく不機嫌そうな顔で、啓悟が椿に尋ねてきた。ぎゅっと腰にしがみつき、つん、と唇を尖らせている。
 はて、何のことだろう。椿が首を傾げると、彼はますます頬を膨らませて「面白くないです!」と顔一杯に不満を現わす。かわいいなぁ、と胸にあたたかいものが宿る。けれど、それを顔に出せば、彼はきっと、もっと面白くないという顔をするだろう。出来るだけ不思議そうな顔を保っていると、啓悟はぐりぐりと胸の辺りに額を押し付けた。


「…………椿ちゃん、いっつも俺んことば優先しとー……」


 はて、そうだっただろうか。胸元に押し付けられた頭を撫でながら、椿はもう一度首を傾げた。


「俺、椿ちゃんがわがまま言いよーと、見たことなか」


 ―――――俺がいるから? その言葉が彼の口から零れることはなかったけれど、椿ははっきりと耳にしたように感じた。
 椿は自分がわがままであることを自覚している。ただ、わがままを通したいことの範囲が狭く、他に対する許容が大きいため、そう見えないことが多いのだ。淡白とも、薄情とも、何に対しても無関心とも取れるし、そのように見えてしまうこともある。そのため八方美人と嫌われることもあるが、そんなことはない。自分の好きと嫌いと、許容の範囲を理解しているだけなのである。
 けれど、小さな手で精一杯抱きついてくる啓悟には、椿がわがままな人間には見えなかった。自分の存在がそうさせているのではないかと、気に病むほどに。


「自分のわがままを通したいと思えることに出会っていないだけだよ。譲れないものが目の前にあったとき、私は驚くほど頑固になる」
「それはみんなそうなんやなか……?」


 顔を上げた啓悟が、こてん、と首を横に倒した。そのあまりのかわいらしさに、椿が声を立てて笑う。そのことにむっとした啓悟が、頬を膨らませた。


「ばってん! もっと普段からわがままば言うてよかよ!」
「例えばどんなときだろうか?」
「え……? えっと……お、おやつば貰うたとき、とか……?」
「おやつ」
「だって、おやつば貰うたとき、いっつも俺に選ばしぇるし……」


 食べるん好きやろ? と、啓悟が困ったように眉を下げる。
 咄嗟にわがままの内容を思い付かなかったのか、どうにかひねり出したような内容。それが微笑ましくて、ぎゅっと啓悟を抱きしめた。


「ありがとう、啓悟。でも、そんなこと気にしなくて良いんだ」
「でも……」
「私はおいしいものが好きなんだ。君に選んで貰っているのは、どっちも好きだから選べなくて、困ってしまうからなんだよ」
「…………ほんなこつ?」
「ああ。でも、君がそれを気にするなら、順番でえらびっこしようか」
「……うん。次は椿ちゃん番やけんね」


 椿の提案に、啓悟は嬉しそうに笑う。けれど、椿としては、本当に気にしなくて良いことなのだ。だって、彼女は小さな弟がかわいくて仕方ないのだから。一度愛しいという感情が生まれてしまったら、愛さずにはいられないのが、椿という人間の性。そして彼は、椿のその感情を芽生えさせてしまった。故に、彼の笑顔こそが、椿にとっては何よりの報酬なのだ。
 ―――――いつか彼が、そのことに気付くまで。椿は自分が与えられるものは出来る限り与えよう、と心に決めた。



***



「啓悟はエンデヴァーさんが好きなのか?」


 お風呂上がり、赤い翼をタオルで乾かすのを手伝っていると、ふと視界に小さなぬいぐるみが目に入る。子供の腕に抱えられる大きさにデフォルメされたNo.2ヒーローのぬいぐるみ。お腹を押すと、ボォォォと炎が燃え盛るような音が鳴る。
 No.2ヒーロー―――――エンデヴァーのぬいぐるみは、彼の唯一の持ち物だった。彼にとっての宝物のようで、それはいつも啓悟の傍にあった。彼の傍に置かれているのが当たり前で、それが当然のような認識になっていて、そのぬいぐるみについて尋ねたことすらなかったほどだ。今更のような質問であったが、聞いてみたいと思った。エンデヴァーも、椿の憧れるヒーローの一人であるから。
 椿と反対の翼を拭いていた啓悟が椿を振り返る。ちら、と隣に置かれたぬいぐるみを一瞥し、その頭をそっと撫でた。


「…………好きかどうかは、考えたことなか。でも、こんぬいぐるみに支えられてきたけん」
「そうか」


 母から与えられた唯一のもの。安かったからという理由で選ばれたぬいぐるみ。けれど、それがあったからここまで耐え抜くことが出来たのだ。
 そして、ずっと画面の向こうにしか存在しないと思っていた存在が、父を捕まえてくれた。それが幼い啓悟にとって、どれほどの希望となったか。それを理由に、自分の未来を思い描いたのだ。この人のようになりたい、と。
 両手でぬいぐるみを抱える啓悟の瞳は、キラキラと輝いていた。琥珀のような、陽だまりのような、美しい色の瞳。ずっとずっと、そう在って欲しいと願わずにはいられないものだった。


「私も、そういうものがあるんだ」
「椿ちゃんも?」
「ああ」


 かつての椿は、奪うばかり、奪われるばかりだった。使命を全うしたいだけなのに。明るい方へ向かいたいだけなのに。暗闇の方へと引きずり込もうとする手に阻まれて、それすらもままならないことが多かった。それに何度も心を疲弊させた。足下をすくわれて、何度も倒れ込んだ。無様にも、みっともなく泣き喚いたことだってある。
 あんな情けない真似は、もう二度としたくない。あんな苦痛は、もう二度と味わいたくない。だから、今度こそは―――――。


「私は、光ある方へ歩いて行きたいと考えているんだ」
「光ある方……」
「世界には、苦しいことや悲しいことが溢れている。どうしようもないことだっていくらでも転がっている。けれど、そこで挫けて、諦めることだけはしたくない」


 かつての情けない椿を、どこまでも愛し抜いてくれたもの達がいた。どんなに無様を晒しても、決して見捨てない存在がいた。彼等は椿にとっての光で、希望で、愛の形だった。
 今世に刀剣男士かれらは存在しない。仮に存在していたとしても、今世の椿がそれを知覚できる人間ではなくなっていた。けれど、刀剣男士かれらの存在は、椿の心に深く刻みついている。輪廻を巡り、新しい生を受けて尚、椿の支えとなって、照らし続けてくれている。そんな、自分の中にある、大切な光に誇れるような自分で在りたい。そして、自分を照らす光のように、自分も誰かを照らし、笑顔に出来るような人間になりたい。


「―――――ヒーローになりたいんだ」


 それが、新しい世に産まれた、椿の目標ゆめだった。


「……………おんなじやね」


 そう言って、啓悟が笑った。大輪の花を思わせる、満面の笑み。


「俺、こん人みたくなりたい。こん人みたく、悪か奴ばやっつけられるーごとなりたか。誰かば明るう照らしぇるような人に」
「……そっか」


 ―――――ああ、それは、なんて素敵なことなのだろう。
 キラキラと輝く瞳は、椿が望んだものだ。彼を見掛けたあの日、美しい翼が薄汚れているのが見ていられなくて。日の光を集めたような黄金の瞳が曇っているのが口惜しくて。俯いた顔を、どうにか空うえに向けたくて。そんな願いから、椿は鷹見親子に声を掛けたのだ。
 その瞳が、椿の願い通りに輝いて、その輝きを持って、誰かを照らしたいと願っている。なんて、素晴らしいことなのだろう。


「……啓悟ならきっと、素敵なヒーローになれるよ」
「椿ちゃんも、きっとすごかヒーローになるばい!」


 確信を込めて告げられた言葉に、椿が目を瞬かせる。ヒーローらしいことなんて何もしていないのだけれど、と首を傾げる。けれど、彼がそう言うならば、そのように在りたいと椿も啓悟に笑みを返した。
 啓悟は椿がよく分かっていないことに気付きつつも、ただにこにこと笑った。今言葉にしたところで、彼女の理解は得られない。よく分からないまま、いつものように「ありがとう」と微笑むだけだろう。けれど、いつかきっと、彼女はこの言葉の意味を理解する。何せ椿は、すでに啓悟にとってのヒーローなのだから。大人になったら、もっと凄いヒーローになるに決まっているのだ。



***



 ふとした瞬間、自分は恵まれすぎているのではないかと不安になるときがある。ヒーローになりたいと姉に告げた日から、新しく両親となった二人は啓悟にたくさんのものを与えた。
 否、それまでもたくさんのものを貰ってきたけれど、ヒーローとして必要なものを教えてくれるようになったのだ。例えば、啓悟の個性と似た個性のヒーローに繋ぎを取り、個性の扱い方を学ぶ機会を与えてくれた。遠目からではあったものの、ヒーロー活動をしている場面を見せて貰ったり、体力作りに付き合ってくれた。武器の扱いはもう少し成長してからと言うことになったものの、体術などの訓練も付けてくれて、一般の家庭よりも、よほどヒーローを目指すのに適した環境をもたらしてくれたのだ。
 ほんの少し前までは、片手で抱えられるほどのぬいぐるみしか、自分にはなかったのに。今では両手では足りなくて。剛翼を持ってしても持ちきれるかどうか分からないくらいの、たくさんのものが啓悟の中にある。
 ―――――こんなに貰ってしまってもいいのだろうか。自分には何が返せるだろうか。
 いっそ戸惑いすら覚えてしまうほどの、大きすぎる愛情。目頭が熱くなるような、深い慈しみ。自分は一生得られないと思っていた尊い家庭。
 痛むことのない身体でいられるだけでもありがたいことなのに。あたたかいご飯が食べられるだけでも素晴らしいことなのに。それ以上のものを与えられて、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。見返りなんて期待できないのに、それでも構わないのだと、まるで当然のように差し出されて、どうやって受け取ればいいのかも分からない。
 不安になって、ぬいぐるみに縋り付く。ボォォォという聞き慣れた音が、ざわめく心を僅かに落ち着かせてくれた。


「啓悟?」


 耳に心地いいバリトンボイス。低くてずっしりとした声なのに、微塵も恐怖を感じないのは誠実な響きを持っているからだろうか。


「お、おじしゃん……」


 啓悟が「おじしゃん」と呼んだのは、正確に言えば義理の父に当たる。とても背が高く、小柄な啓悟では首をまっすぐにしなければ顔が見えないほど。けれど、不思議と威圧感はなく、ちっとも怖いとは思えない男性だった。春風を思わせるような柔らかい眼差しをした、とてもあたたかい人だ。
 口数はあまり多くないけれど、いつだって見守ってくれているという安心感を与えてくれる人。無骨な手は信じられないほど繊細な優しさを持っていて、綿毛のような柔らかさで頬を撫でるのだ。
 父親という存在に思うところのある啓悟は、優しい彼を『父』と呼ぶことに抵抗があった。きっと彼は、それを待っている。けれど、啓悟がそう出来ない理由があることを知っているから、何も言わないでいてくれている。


「そんなところで蹲ってどうしたんだ? 具合が悪いのだろうか?」


 踏み荒らされた新雪のような心に、すっと染み込むあたたかな声。そっと膝をつき、硝子細工にでも触れるかのような手つきで、そっと啓悟の頬に手を添えた。額に当てられた手のひらは血の繋がった男よりよほど大きくて、ずっと固くてゴツゴツしているのに、絶対に自分を傷付けないという確信を持たせてくれる。愛という不確かなものを、確かに感じさせてくれる手のひらに、目の奥がじんと熱を持った。


「具合は、悪くなか……」
「そうか……。それならいいんだ。でも、苦しいことや悲しいことがあったなら、教えて欲しいな」


 柔らかく弧を描く口元が、椿を想起させた。椿は母親似だと思っていたけれど、もしかしたら自分が思っているより父親似なのかもしれない。穏やかな気性やちょっとした仕草は、彼と重なる部分が多かった。
 だからだろうか。いつだって柔らかく自分を抱きしめてくれた椿を思い出してしまって、目頭が熱くなる。泣くまいと必死になりながら、喘ぐように言葉を紡いだ。


「おじしゃん達は、どうしてそんなに優しくしてくれると……?」
「誰かを大切にしたいという心に、理由なんて必要なのだろうか?」
「………理由も無く、人を大事に出来ると?」
「全ての人に対して、そう在るのは難しいだろうな。けれど、そうだな。私が君に対して、そういう人間でありたいと思うから、君に心を砕くんだろう」


 誰にだって、好きなものと嫌いなものがある。人に対してだって、好悪の感情がある。自分が大切に想っている人と、そうでない人とでは、どうしたって対応に差が出てしまうものだ。全ての人に公平でありたいと願っても、あらゆる人類に平等でありたいと願っても、人はそのように出来ていない。聖人と崇められるような人にでも、特別なものが出来てしまうのだ。
 啓悟は、今にも泣きそうな顔で義父―――――清庭桜さにわさくらを見上げる。そんな彼を、桜は大きな身体で包むように抱きしめた。


「人間というのは、思っているよりもずっと純粋で、けれど打算的で醜い。私は君に“良い人間”だと思われたいから、そのように振る舞っていると言うだけの話だ。まぁ要は、私のエゴだよ」
「…………難しか……」
「ふふ、君に好かれたい、君に嫌われたくない、という想いからの行動だという話だ」
「…………おじしゃんのこと、嫌いになるとこ、想像出来ん……」
「ありがとう。でも実は、私達は君に隠し事をしているんだ」
「…………え?」


 僅かに眉を下げて、桜がさみしそうな笑みを向ける。どこか傷めているのかと不安になるような、傷を抱えているような顔にも見えた。思わず小さな手を伸ばし、頬に触れる。椿や、両親がいつもしてくれるように。そっとそっと、柔らかく頬を撫でる。桜はその手を嬉しそうに受け止めて、同じように啓悟の頬に触れた。


「ヒーロー公安委員会が、君を引き取りたいと言ってきている」
「こう……?」
「世の中を善くしようと頑張っている組織のことだよ。そんな組織が、君をヒーローとして育てたいと申し出ているんだ。何でも、君が事故の現場からたくさんの人を救うところを目撃した人がいたらしくてな」


 そのことに、啓悟は覚えがあった。それを見て、自分にヒーローとして価値を見出してくれる人がいることに、驚愕と歓喜が生まれる。
 桜もそのことを誇らしく思ってくれている。雄弁な瞳が、喜びを讃えている。けれど、その奥に、隠しきれない苦しみが見て取れた。


「君がヒーローになりたいと願うなら、公安に引き取られた方が、それは早く叶うだろう」


 桜の大きな手が、赤い翼を撫でる。くすぐったいくらいの柔らかさで撫でられて、いつだったか「そんなに脆くないよ」と伝えたことがあった。けれど、清庭家の人々は変わらず優しく触れてくる。傷付けたくないのだと言わんばかりに。
 啓悟はこの背中の翼があまり好きではなかった。実の父には背中を見せれば蹴り飛ばされてきた。そして、そんな男と同じものを背負っているという事実に、どうしても拒否感があったのだ。けれどその翼を、清庭家の人達は慈しんでくれる。啓悟まるごと、大切に包み込んで、愛してくれる。そのあたたかさが心地良くて、啓悟は自分の翼を少しずつ好きになり始めていた。
 羽根を撫でる手が気持ちよくて、うっとりと目を細める。啓悟の気がそぞろになっていることに気付いた桜が、むに、と両手で頬を挟んだ。


「君の子供時代と引き換えに、その分だけ救われる人がいるのかもしれない。けれど、誰かの犠牲を糧に救われるような世界では、きっと真の平和は訪れないと思うんだ」


 頬を撫でながら、桜が悲しそうな笑みを浮かべる。
 ヒーローになりたいならば、それ相応の犠牲を払わなければならないのは必定だろう。一般市民に比べれば、過酷な人生を歩むことになる。
 公安に所属してヒーロー活動を行うと言うことは、自由を捧げることに等しい。おそらく、学校に通うことすら出来ないだろう。清廉潔白を謳えなくなるだろう。
 もうすでに普通とはかけ離れた人生を歩んできた子供に、そんな後ろ暗い道を歩んで欲しくない。自分の息子として迎え入れた子供に、普通の子供と同じような経験を積んで欲しい。それが、桜の切なる願いだった。


「綺麗事だと人は言うだろう。だが、ヒーローとは、綺麗事を命懸けで全うするのが仕事なんだ」


 たくさんの人が救われるなら、そうするべきだという人間は、決して少なくないだろう。ヴィランによる被害は、それだけ多いのだ。
 ―――――ヒーローに人並みの幸せは必要か否か。そんな議題で、よく議論されることがある。女性ヒーローが妊娠を理由に休業するとなれば、批判の声を上げる者がいる。実際に、椿を授かったとき、そのような声が上がったのだ。この世界は、そんな世界だ。
 けれど、“大切なものが何もない人間に、誰かの宝物を護ることなんて出来ない”というのが、清庭家の総意だった。自分のことすら愛せない人間に、誰かを慈しむことなんて出来ない。愛を知っているからこそ、人は誰かを心から想えるのだ。


「だから、君は知るべきだ。当たり前の幸福。ありふれた日常。自分がヒーローになったとき、自分が護るものの全てを」


 例えば、家族揃って食卓を囲むこと。例えば、明かりのついた家に帰れること。例えば、大切な人が心から笑っていること。それらはきっと当たり前ではなくて、酷く尊いものであるのだ。それを当たり前のものとして、ありふれた光景としてこの世界に溢れるように、それらを護るのがヒーローの仕事なのだ。


「…………なんて、格好付けたようなことを言ったが、私達の元から君に巣立って欲しいんだ。私達が、君と離れたくないだけなんだよ」
「おじしゃん……」


 きっと、どちらも彼の本心だ。子供が子供らしく在れる世の中を望む心も、新しく家族になった自分と離れたくないという想いも。彼はヒーローを志した人で、一つの家庭を守る人でもあるのだ。まともな生活を送れていなかった啓悟を助けたい。自分の子供になった幼子を大事にしたい。そう言った優しい想いだけで、啓悟を包み込もうとしている。その想いを少しでも多く啓悟に伝えたくて、彼はいつになく言葉を重ねているのだ。
 ―――――ああ、彼等は、こんな自分でも引き留めようとしてくれるのか。渡された愛情の受け止め方も分からない子供を、その愛に対して何も返せない人間を。それでも必死になって、繋ぎ止めようとしてくれるのか。


「…………俺、ここに居りたか」
「ああ、」
「……俺も、離れたくなか」
「ああ、」
「お父しゃん、俺、清庭啓悟がよか……!」
「ああ……!」


 目頭が熱くなって、視界が滲む。頬に熱いものが伝い、ぼやける視界の中で啓悟は懸命に手を伸ばした。桜の首元に縋り付き、離れまいと必死になって腕を回した。そんな啓悟の小さな身体を、桜が大きな身体で包み込んだ。
 そんな親子の抱擁は啓悟の涙が止まるまで続けられ、涙が止まった後は、二人揃って幸せそうに微笑み合ったのだった。


「ああ、目が赤くなっているな……。目元を冷やさないと、腫れてしまいそうだ……」
「…………お父しゃん、だっこ」
「ん、おいで」


 この後、桜の膝の上で目元を冷やす啓悟が見つかり、母―――――清庭牡丹さにわぼたんと椿が桜に詰め寄るという一幕が見られることとなる。
 ちなみに、啓悟に一番に「お姉ちゃん」と呼んで貰えなかったことに拗ねた椿が、しばらく啓悟を抱えて離さなくなるのだが、それは完全な余談である。



***



椿「…………ずるい。私が一番好かれていると思っていたのに」
桜「すまない、椿。少し踏み入った話をしていたから、その流れでのことだ。椿が一番啓悟に懐かれているのは事実だ」
牡丹「私も椿が一番初めなら納得でしたのに……。まさかお父さんに先を越されるとは思いませんでしたね……」
桜「母さんまで……」
啓悟「あ、あの、俺……」
牡丹「ああ、啓悟。あなたは気にしなくてよいのですよ。私達が少し狭量なだけなのですから」
椿「すまない、啓悟。前にも言ったように、私は結構わがままなんだ。それに、かなり嫉妬深い」
啓悟「い、嫌やなか……? お、お姉ちゃんって、呼んでよか……?」
椿「もちろん。嬉しいよ、啓悟」
啓悟「お、お母しゃんも……?」
牡丹「ええ、ええ……! ありがとう、啓悟……!」
啓悟「お姉ちゃん、お父しゃん、お母しゃん……。俺もありがとう……」




2/2ページ
スキ