拾いものをする姐さん






 鷹見啓悟は、最近名字を変えることとなった。新しい名字は清庭。それは福岡を中心に、九州地方で活動しているヒーローの名字だった。
 そうなるに至った経緯は、犯罪者の父が一人で逃亡し、母と二人で路頭に迷っていたところを保護されたことから始まる。行く当てもなく彷徨っていたところを、啓悟より少し年上の少女が声を掛けてきたのだ。―――――折角の綺麗な翼が汚れているよ、と。それが鷹見親子を保護したヒーローの一人娘、清庭椿であった。
 自分と一緒に来て欲しい、と少女に請われ、親子は少女に促されるまま、彼女の後を付いていった。怪しいと疑う気持ちもあったけれど、ずっと歩き通しで、空腹状態も極限を迎えたところであったから、頭が働かなかったのだ。脳が勝手に、楽な方向へ向かおうとする。
 また、啓悟の手を引く少女の笑顔は屈託なく、嘘をついているようには見えなかったのも理由の一つだった。彼女は二人の様子を気にしていて、ずっと気遣う様子を見せていた。どう見たってまともではない自分たちを相手に、笑みを絶やすことなく。そんな風に自分たちに心を配る少女を疑いたくなかったのだ。
 少女に導かれるままに歩き、連れて来られたのは立派なヒーロー事務所だった。
 警察から逃げる父親は、よく新聞やテレビを見ていた。自分の居場所が追っ手にバレていやしないかと、常に情報を集めていたのだ。そんな父親と共に過ごしていたから、啓悟も自然と世の中の情勢に詳しくなっていた。だから知っていた。少女に連れられてこられた場所が、ヒーロービルボードチャートJPで上位に入る大手ヒーロー事務所であることを。


「ただいま」


 少女は、勝手知ったると言った風情で事務所に入っていく。白を基調とした事務所内は清潔感があり、大きな窓から入ってくる光で明るい空間となっていた。
 少女の声に、事務所で働く人々が笑顔で「おかえりなさい」と返事を返す。振り返った職員達が椿の後ろに啓悟と、その母の遠見絵がいることに気付くと、彼等は少し目を丸くした。それから肩を竦めて、お互いに顔を見合わせて小さく笑った。


「また困っている人見つけて連れて帰ってきちゃったの?」
「うん。母さん達はパトロール?」
「そうです。所長には連絡しておきますね」
「お願いします。私は二人をお風呂に入れて、ご飯を食べさせてきます。お話とかはその後で」
「分かっていますよ。もう何度目ですか、このやり取り」
「覚えてないです」


 職員達との気さくなやり取りに、椿がこの事務所の面々と親しいことが窺えた。啓悟が困惑気味に少女の顔を窺うと、それに気付いた椿が殊更柔らかい笑みを浮かべた。その笑みは春の日差しを思わせるもので、不思議と身体の強張りが溶けていく。あたたかい笑みに安心感を覚えた啓悟は、繋がれた手をぎゅっと握り返した。


「大丈夫だよ。怖いことは何もないから。お話は聞かせて貰うことになると思うけど、まずはお風呂で身体を温めて、お腹いっぱいご飯を食べよう」


 事務所の奥へと続く廊下を歩く。事務所の裏手に職員寮があって、そこに向かうのだと説明される。
 中庭のようになっている渡り廊下を抜けて、その奥に続く建物に入る。そこは事務所とは少しだけ違った雰囲気だった。クリーム色の室内は事務所とは違ったぬくもりのある色をしており、あたたかみのある空間となっている。住む人が快適に暮らせるようにと考えられているのが分かって、初めて訪れた啓悟達にも安心感を与えた。


「ここには“お客さん”を泊める部屋も用意してあるんです。まずはそこでお風呂と着替えをしましょう」


 そう言って通された部屋は中々に広く、大きめのベッドとクローゼットが備え付けられていた。
 椿がクローゼットを開き、いくつかの服を取り出す。遠見絵と啓悟の着替えだ。畳まれていた服を広げ、そっと啓悟の身体に合わせる。


「大丈夫そうだな。翼の位置に切れ込みを入れるから、背中を向けて貰っても?」
「えっ!? だ、大丈夫やけん、そんまま着るばい! やけん穴ば開けんでもよか!」
「服の中に押し込めていては窮屈だろう? それに、折角綺麗なんだから、隠すなんて勿体ないじゃないか」


 服だって私のお古だよ、と椿が笑う。背中に服をあてがい、翼の位置を確認する。部屋に置いてあったはさみで切れ込みを入れ、啓悟の分の着替えの準備は整った。遠見絵も自分に合うサイズの服を見つけたのか、ワンピースを手にしていた。


「お風呂はあっちです。タオルやシャンプーは戸棚に入れてあります。使い終わったタオルは籠に入れておいてくだされば良いので。ドライヤーも用意してありますから、しっかり髪を乾かしてくださいね」
「ええ、ありがとう。えっと……」
「そう言えば、自己紹介がまだでしたね。私は清庭椿と申します」
「……鷹見遠見絵よ」
「…………啓悟」
「よろしくお願いします、遠見絵さん、啓悟くん」


 挨拶できてえらいな、と椿が啓悟の頬を撫でた。ゆっくりとした動作で伸ばされた手は、怖いと思わなかった。いつもなら、何をされるか分からなくて怖いのに。
 椿の手のひらは、子供特有の柔らかさとあたたかさがあった。柔らかい手のひらで頬を撫でられるのが気持ちよくて、啓悟は目を細める。そんな彼の様子に笑みを深めた椿が、両手で頬を包む。むにむにと頬の感触を楽しんでから手を離した。
 ちょっと残念そうな啓悟の頬をもう一度撫でて、二人に向かって笑みを向ける。


「じゃあ、ご飯の準備が出来たら迎えに来ますね」


 食べられないものとアレルギーの有無を聞かれて、どちらもないと答えると、椿が明るい笑みを浮かべた。
 ちゃんとあたたまってくださいねと、椿が手を振って部屋を出て行く。残された親子は顔を見合わせて、言われた通りに風呂場に向かった。



***



 お風呂から上がって、髪を乾かして、一息ついた頃。丁度よいタイミングで部屋の扉がノックされた。遠見絵が「はい」と返事をすると、椿の声で迎えに来たという言葉が聞こえてきた。ベッドに腰掛けていた啓悟が、唯一の持ち物であるぬいぐるみを抱え、ぴょんと飛び降りる。そっとドアを開けると、椿が淡く微笑んでいた。


「あったまっただろうか?」
「うん。ありがとー」
「それなら良かった。髪も羽根もふわふわになったな」


 綺麗になった髪や翼を見て、椿が嬉しそうに笑う。それが何だかくすぐったくて、啓悟はぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。ほんのちょっぴり、ほっぺたが熱い。


「さぁ、ご飯を食べよう。食堂に案内するので、ついてきてください」
「うん」
「ええ、ありがとう……」


 椿の手があたたかいことを知った啓悟は、そっと椿の手を握った。ほんの少し指先が跳ねた気がするけれど、椿は何も言わずにそっと握り返してくれる。それが嬉しくて、口元がむずむずした。
 案内された食堂には、幾人かの職員達が食事に舌鼓を打ちながら、会話を楽しんでいた。椿達に気が付くと、彼等は皆一様に笑みを浮かべて歓迎の意を示した。今まで奇異の目で見られることが多かった啓悟は、その視線に不慣れで、こっそり椿の背中に隠れた。それに気付いた椿が、観葉植物で視界が遮られる席に二人を連れて行く。それに合わせて、調理スタッフ達がテーブルに料理を運んできた。彼等は配膳を終えると、啓悟達に食事を楽しんで欲しい旨を伝え、それぞれの仕事に戻っていく。その背中に椿がお礼の言葉を投げかけて、鷹見母子に席に着くように促した。


「本当は好きなものを選んで欲しかったんですけど、消化に良いものが良いかなと思って」


 そう言って椿がテーブルに置かれた土鍋の蓋を取る。白い湯気が立ち上り、ふわりと出汁の香りが漂う。おたまで取り皿に盛り付け、器を差し出される。思わず受け取って凝視する。具沢山の雑炊に、ゴクリと喉が鳴った。


「鶏ささみとブロッコリーのたまご雑炊です。出来たてで熱いので、気を付けて食べてくださいね」
「……おいしそうね」
「……ほんなこつ、食べてよかと?」
「そのために作ったのだから、食べて貰わないと困るなぁ」


 召し上がれ、と優しい笑みを向けられる。手元に置かれた匙を手に、そっと雑炊を掬い上げる。出汁を纏ったお米がつやつやと輝いていて、食欲をそそった。たまらなくなって、一生懸命息を吹きかける。もう大丈夫かな、と口に含んだ雑炊はまだ少し熱かったけれど、火傷をするほどではない。それよりも、そのおいしさに夢中になった。
 口の中に広がるかつおだしの香ばしい香り。出汁を含んだふわふわのたまご。柔らかく煮られた鶏肉とブロッコリー。まろやかで、優しくて、あたたかい味だった。しっかり味わってから飲み下すと、お腹の中からぽかぽかとあたたかくなるような感覚を覚える。何かが満たされたような気がした。
 さみしいとか虚しいとか、そう言った寒々しい感覚がなくなっていくような気がして、食べることに夢中になる。湯気のせいか、視界がぼやける。それでも、食べることを止めなかった。少し少なめに盛られていた一杯がなくなる頃、椿がまろい声で啓悟に声を掛ける。


「おいしい?」
「ぐすっ……おいひい……」
「まだあるよ。もっと食べる?」
「う゛ん゛……」
「ふふ、いっぱいお食べ」


 彼は“慈しみ”というものを知らなかったけれど、目の前の少女が自分たちに対して、己の心を配っていることは分かった。新しく盛り付けられた雑炊を受け取り、涙で歪む視界の中、次の一杯に口を付ける。二杯目も変わらずあたたかくて、おいしくて、優しかった。
 啓悟に続いて、遠見絵もおかわりをして、二人で土鍋を綺麗に空にした。お腹を満たした二人はほぅ、と満足げな息を漏らす。そんな二人に椿は嬉しそうに「いっぱい食べてえらかね」と笑った。
 この人はたくさん褒めてくれるなぁ、と啓悟がまじまじと椿を見つめる。天使の輪を描く艶やかな黒髪。栄養が行き渡っていると分かる滑らかな肌。綺麗な服は汚れ一つ無い。きっと、たくさん愛されて育ってきたのだろう。それを、少し年下の少年に分け与えられるくらいに。
 あたたかいお風呂に入って、やさしいご飯を食べて、たっぷりの慈愛を浴びる。そうして胸とお腹がいっぱいになった啓悟に、微睡みがそっと近づいてきた。瞼が重くなり、こく、と顎が落ちる。


「眠くなってしまった? なら、さっきのお部屋に戻ろうか」
「ん……」
「遠見絵さんもお休みになります? お話はそれからでも構いませんよ?」
「……いいえ。私は平気だから」
「そうですか? なら、大人の人を呼んできますね。私は啓悟くんを寝かせてきますから、ここで待っていてください」
「ええ、お願いします……」


 椅子から降りて、啓悟を支えながら椅子から降ろす。抱きかかえられるような形になって、その心地よさに肩口に額を押し付ける。そのまま眠ってしまいたいな、と目を閉じかけると、少し上から小さな笑い声。耳触りの良い声が子守歌のようで、一層眠気を誘う。


「すまない、もう少しだけ我慢して起きていてくれ」
「んぅ……」
「うん、いい子」


 椿に手を引かれて、先程の部屋へと向かう。啓悟に合わせて緩められた歩調は、いつも少し先を歩く母のものとは違っていて、これもまた胸をくすぐったくさせる。眠い目をこすりながらついていくと、いつの間にか“お客さん“用の部屋についていた。
 ドアをくぐり、部屋に備え付けられたベッドによじ登る。その際に脱いだ靴を見て、椿が小さく唸った。


「ああ……靴も新しいのを用意すれば良かったな……」
「まだ履けるけん、別によか……」
「物を大事にするのはいいことだよ。でも、この靴では怪我をしかねない」


 べろり、と靴底が剥がれかけているシューズを見て、椿が眉を下げる。彼女の靴は同じ子供用のシューズであったが、汚れは殆ど無い。新しい物なのか、よく手入れがされているものなのだろう。
 柔らかいベッドに横になり、落ちてくる瞼に抗いながら椿を見つめる。椿は部屋に置かれた子機から、どこかへ電話を掛けているようだった。5分にも満たない通話を終え、椿が啓悟を振り返る。啓悟がまだ起きていると分かると、彼女もベッドによじ登り、隅の方に座ってそっと啓悟の髪を撫でた。


「お姉しゃん……」
「うん? なぁに?」
「…………俺ら、これからどうなると?」
「それを今から大人達が話し合うんだよ。でも、絶対に見捨てたりしないから、心配しないでくれ」


 今はおやすみ、と優しく囁きかける。その声があんまりにもあたたかくて、淡い笑みがあんまりにも優しかったから、啓悟は胸に蟠っていた不安を取り払うことが出来た。何の根拠もないけれど、この人が自分の手を離すことはないのだろうと、不思議と信じることが出来たのだ。



***



 子供である椿と啓悟を蚊帳の外に、大人達で話し合いが行われ、最終的に啓悟は“特別養子縁組”で清庭家の子供になることが決定した。初めのうちは壊れかけた心の治療が完了してから子供のことを考えるべきだという意見が上がったようであったが、遠見絵自身が「自分では無理だ」と言ったのだ。今までも父からの虐待を放置し、自身も育児を放棄している状態であったことを己の口から語ったという。そして自分から、子供を手放す選択を取ったのだ。そのときの口ぶりから、啓悟に対する情が無かった訳ではないようであったが、愛しきれない事情があることが窺えた。
 啓悟もまた、薄々それを察していたようだった。話し合いの結果を聞かされたときも、非常に凪いだ表情をしており、その後に続く言葉を考えて、そちらにばかり怯えを見せていた。自分はどこに行くのか。この先どうなるのか。エンデヴァーのぬいぐるみを抱きしめて、それをヒーローに見立てて縋っているようだった。そんな少年を見かねた椿が彼に寄り添えば、彼は片時も椿から離れようとしなかった。そんな状態の子供を心のよりどころから引き離せば、今度は子供の心までも壊しかねない。そう判断した大人達の計らいにより、啓悟少年は施設ではなく、清庭家で一時保護という形を取ることになったのだ。
 けれど、そんな状態が一ヶ月二ヶ月と続き、気が付けば手放すのを惜しむほどの情が生まれていて……。そして三ヶ月を迎えるころ、啓悟は正式に清庭家の一員となったのだ。その頃には啓悟も年相応の笑顔を見せるようになっており、特に椿に対しては信頼を寄せるまでになっていた。


「椿ちゃん、今日のごはんなぁに?」
「今日は親子丼を作ろうと思うんだ。付け合わせはさっぱりしたものがいいかな……。白和えか、大根と水菜のサラダにしようかな。お味噌汁とお吸い物ならどっちがいい?」
「お、お味噌汁……!」
「分かった。なら、キャベツと油揚げのお味噌汁にしようか。お野菜切るの、手伝ってくれるか?」
「うん!」


 ヒーロー業を営む姉弟の両親は多忙である。ヴィランは昼夜関係なく街中で騒ぎを起こし、無辜の民を傷付ける。そのためヒーローに休みらしい休みはなく、親が家にいる時間は一般家庭と比べて少なかった。それでも、忙しい仕事の合間を縫って父母は子供達に愛を注いだし、そのことに対して不満は無い。家のことはお手伝いさんを雇って手伝って貰っていたので、家庭は規則正しく回っていた。
 けれど、料理に関しては父母か椿が作ることが多かった。清庭家は揃って食べることが好きで、食事を疎かにすることは避けたいと考える類いの人間だった。また、お手伝いさんの味を家庭の味として認識されたくないという親の意地があったのだ。そのため、食事だけは清庭家の面々で作っており、今日は夜勤で朝まで帰らない父母に代わって、椿が腕を振るう番だった。特に啓悟が来てからは、今まで以上に食事にこだわるようになっていた。彼はずっと、家庭の味という物を知らずに生きてきて、そのあたたかみを知ったのは、椿が鷹見親子を事務所に連れ帰ったときである。そのときに初めて、彼は優しい味に触れたのだ。
 心が壊れかけていた遠見絵は、料理をするのも億劫なほど病んでいた。いつも冷たいコンビニ弁当ばかり。そもそも何も食べられない日もあったという話で、それならば清庭家の味を覚えて貰おうと意見が一致したのだ。


「椿ちゃん、何でも作るーんやね。難しゅうなかと?」
「初めのうちは何度も失敗したさ。でも、繰り返し挑戦するうちに失敗の理由が分かるようになるんだ。そして、それを直していくと、おいしいものが作れるようになるんだよ」
「椿ちゃんはすごかねぇ……」
「ふふ。啓悟は器用だから、すぐにおんなじくらい上手に作れるようになるよ」
「んん、なるーかな……」
「なれるとも。そのための練習だよ。明日、仕事明けで帰ってくる父さん達のごはんも一緒に作ろう」
「うん!」


 母親が経営するヒーロー事務所の夜勤は、夕方から早朝までである。けれど退勤時に近隣のパトロールを行ってから帰宅するため、帰ってくるのは10時を回る事が多かった。
 明日は休日。学校が休みであるため、料理に不慣れな啓悟と共に準備を始めても、十分な時間がある。いつもよりたくさんお手伝いをして貰おう、と心に決めて、二人で連れたってキッチンへと足を向けた。



***



啓悟「そう言えば、あんとき食べた雑炊、椿ちゃん家の味やね?」
椿「ああ、鶏ささみとブロッコリーのたまご雑炊か。あれは私が作ったんだよ」
啓悟「あれも!? 椿ちゃん、ほんなこつすごかね……」
椿「ふふ、ありがとう。今度は別の雑炊も作ろうな」
啓悟「うん!」



***



 『試し行動』というものがある。環境の変化に対する不安や緊張を現わしたり、愛情を確認したいという心理から、“自分がどこまで許されるのか“という限界を知りたいがための行為である。あるいは信頼しても良い相手であるかの確認をしているのだ。
 試し行動は多岐に渡る。その中でも特に目立つのは、周囲に対して暴力的になったり、反抗的な態度を取ることである。
 しかし、代表としてあげられる例から比べると、啓悟の試し行動は随分と控えめだった。
 啓悟は6歳になるが、小学校には通っていなかった。そのため最低限の読み書きと計算しか出来ず、すぐに小学校に通わせるわけにはいかなかった。精神的にも、大勢の子供達の中に入れるほど回復していないというのもある。そのため、小学校に通うのは1年生の三学期からということになっていた。
 それまでの間、啓悟は家でお手伝いさんと過ごすか、事務所で勉強をして過ごすことが多かった。けれど、彼はお手伝いさんには心を開いておらず、顔を合わせる事務員達にも完全には警戒心が解けていなかった。彼が心を許しているのは清庭家の面々だけで、その中でも特に懐いているのが椿であった。それ故か、試し行動の矛先は椿に向かうこととなったのだ。
 初めに感じた違和感は、ランドセルが定位置から移動していることだった。例えば、勉強机の横に掛けてあったはずのランドセルが、本棚の陰に隠されるように置かれていた。例えば、ランドセルの上に毛布が掛けられていて、荷物がどこに置いてあるか分からない状態にされていたのだ。
 そのうちに靴が隠され、それは少しばかり巧妙に隠されていたが、たいした苦労もなく見つけることが出来る場所に隠されていた。
 隠されているとは言え、すぐに見つかるような場所だ。汚されているわけでもなく、中身を放り出しているわけでもない。学校に遅れるような事態にはならなかった。
 また、両親の仕事道具や大切なものに手を出さないだけの分別が既についており、何ともまぁかわいらしい悪戯の範疇で収まってしまったのだ。ここまで控えめだと自己肯定感の低さが心配で、両親と椿の三人がかりで甘やかすことを決めたほどだ。


「啓悟、今日は翼のお手入れをしようか」
「お手入れ……?」
「ああ。折角綺麗な羽根なんだから、もっと綺麗にしよう」


 鳥は羽を整えるために、一日の中でも長い時間を費やす。啓悟は人間であるため、本物の鳥のようにする必要はないだろう。彼の背中の翼は、『剛翼』と呼ばれる個性だ。けれど、翼は翼である。羽繕いは必須のはずだ。だが、啓悟は自分を慈しむことを失念している。自分を大切にすることは、きっと何よりも大切なことであるはずなのに。
 椿は自分を愛することの大切さを、誰よりも理解している。遠い昔に、大切なものたちに教わったのだ。自分を愛せずして、誰を愛せるというのか、と。
 大切にされる経験の少ない啓悟には、自分にそれだけの価値を見出せないのかもしれない。だから自分を蔑ろにしてしまって、他のものばかりを優先しようとするのだ。だからまずは、啓悟を大切に想っている誰かの存在を、明確に自覚させなければならない。そうすることでやっと、彼は自分の価値に気付くのだろう。自分が誰かにとって、愛しい人間であるという事を。


「…………羽根を触られるのは苦手だろうか?」


 困惑した表情で啓悟は椿を見上げる。きょろきょろと視線を彷徨わせて、落ち着かない様子だった。きゅ、と服の裾を掴む手は彼の不安を表しているようで、まだ早かったかな、と椿も眉を下げる。
 椿は彼が鷹見として過ごしていた頃の詳しい話は教えられていない。けれど、どのような扱いを受けていたのかは理解している。彼が背後に立たれることを苦手としているのも、きっとその名残だ。
 気を遣わなくていいんだ、という気持ちを込めて髪を撫でると、啓悟はその手をきゅっと握って首を振った。


「……ううん、椿ちゃんならよか」
「……ありがとう、啓悟」


 握られているのとは反対の手で頬を撫でると、啓悟はくすぐったそうに笑った。
 床にクッションを敷いて、その上に啓悟を座らせる。このとき、啓悟だけにクッションを渡すと眉を下げてしまうため、椿もクッションの上に座る。手にはこの日のために用意した、有翼型個性向けの専用ブラシを携えて。


「一番大きい羽根から梳いていくから、痛かったら言ってくれ」
「うん」


 柔らかいブラシをそっと初列風切にあてがう。嫌がる素振りを見せないことを確認してから、そっと櫛を通した。一瞬だけブワッと綿羽が大きく広がったけれど、痛みから来るものでは無さそうだった。おそらく、未知の感覚に驚いたのだろう。一応確認を取ると、啓悟は肩越しに椿を振り返ってはにかんだ。


「大丈夫やけん、続けてほしか」
「ああ、分かった」


 さりさりと微かな音を立てながら羽根を整えていく。時折加減を尋ねながら、少しずつ小さく柔らかい羽根へと移行していく。さりさり、さりさり。ふわふわの綿羽に櫛を通す頃になると、啓悟も完全に力が抜けた状態になっていた。
 片翼が終わり、左右で見比べてみる。整えた方の翼は綺麗に整っていて、僅かに艶を帯びている。きっと、もっと手間暇を掛ければ、より一層美しくなるだろう。
 反対の翼に取り掛かってしばらく、啓悟の首がカクン、と落ちた。眠たいのかな、と微笑んで、近くにあった大きめのクッションを手に取る。途中で眠ってしまったときの為の安全策だ。もし倒れ込んでしまったとき、翼のある啓悟の身体を咄嗟に背面から受け止めるのは難しい。クッションを抱えているように告げると、彼は素直にクッションを抱えた。小さな彼には丁度良い大きさだった。
 もう片翼に櫛を通す。さりさり、と音を立てながら大きな羽根から小さな羽根へ。ゆっくりと丁寧にブラッシングしていくと、綿羽に取り掛かる頃には啓悟はすっかり寝息を立てていた。クッションに顔を埋めるような形となっていて、呼吸がしやすいようにそっと顎を引く。頬をクッションに預けた啓悟は、安心しきったような顔で眠っていた。


「ふふ。おやすみ、啓悟」


 丁度良く、お昼寝の時間だ。一時間ほど寝かせたら起こしてあげないと、心に決めて、椿は弟になった少年の身体をそっと横たえた。毛布を掛けて、自分もその隣に寝転ぶ。怖いものなど何もないと言うような、柔らかい寝顔を見つめ、椿は心の底から嬉しそうに笑った。
 この日を境に、啓悟の試し行動はなりを潜め、少しずつおねだりが出来るようになるのだが、それはもう少し未来の話である。




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