地獄の鷹見さん家 3
本日は珍しいことに、ホークスは午後から半休を取っていた。否、事務員から“取らされた”という表現が正しい。ワーカホリックを体現するホークスは、最低限の休みしか取らない。そのことに堪忍袋の緒が切れた事務員が、半ば無理矢理に追い出したのだ。たまには身体を休めろ、と。最近、仕事もさることながら、
そんなわけで、ぽっかりと空いた半日分の時間。幸いにも本日は土曜日。椿も学校は休みのはずだ。家に居場所のない椿は、休日は一日の大半を図書館で過ごしているという。家から徒歩で通える距離にある図書館に通っているという話から、場所の検討も付いている。きっと今日も図書館に居るのだろう、と当たりを付けて、ホークスは空へと舞い上がった。
(うーん……。やっぱり連絡手段がないのは不便だな……)
椿は連絡手段の類いを持っていない。家に固定電話が置いてあることは確認してあるが、椿がそれを使うことは出来ない。遠見絵が良しとしないのだ。そのため、二人を繋ぐには、どちらかが自分の意志で会いに行かなければならない。けれど、公共の場で個性使用を原則として禁止されている一般市民である椿は、翼があるにも関わらず、自由に空を飛ぶことが出来ない。そうなると公共交通機関を利用することになるのだが、これも難しい。椿に、自由に使えるお金など無いのだ。
(もうちょっと、顔を合わせる時間が取れればいいんだけどな……)
スマホを買い与えようとしたこともあるけれど、それは流石に行きすぎた干渉だろう、と自重した。彼女にとって自分は、警戒心の抜けきれない他人でしかない。ようやく並んでおやつを食べられるようになってきたのだ。また距離を取られかねないようなことは避けたい。
(連絡手段はまた追々考えるとして、もうちょっと警戒心を解いて貰わないと……)
そう言えば、椿は昼食を食べただろうか。もしまだなら、一緒に食事を摂ることから始めよう。そう思い至ったホークスは、速度を上げて空を駆けた。
果たして椿はホークスの予想通り、自宅から徒歩圏内の図書館に居た。学校の教科書と図書館の参考書を広げ、チラシの裏を使って数式を解いている。随分と集中しているようで、ホークスの登場に色めきだつ声も聞こえていないようだった。その様子を見て、ノートの一冊もまともに買わせて貰えていないのか、とホークスが顔をしかめる。けれど、ファンの前でしかめっ面を晒すわけには行かず、口角を上げる。口元に指を宛て、唇の動きだけで「静かに」と伝えると、雛鳥ちゃん達は顔を真っ赤にさせてコクコクと深く頷いた。聞き分けのいいファンで助かった、とホークスがおまけで手を振った。
利用客を装って、書架の間を歩く。適当な本を抜き取り、内容を確認する振りをしては棚に戻すのを幾度か繰り返す。そうやって三つ目の棚に移ったとき、一人の男性スタッフが書架の整理を行っているのが目に入る。スタッフの周囲に利用客が居ないことを確認し、そっと近寄る。
「今、お時間いいです?」
「はいはい、何の御用で………へっ?」
初老の男性は、自分に声を掛けた相手がホークスだと分かると、目をまん丸にして裏返った声を上げた。ホークスが愛想のいい笑みを浮かべると、スタッフは困惑したように眉を下げる。ホークスの管轄から外れた地域に彼がいることに戸惑っているのか、彼が図書館に居るという事実がイメージとズレてしまうのか。目の前の現実を上手く受け止め切れていないようだった。
「え、えぇと……ホークスさん、でしょうか……? 本物……?」
「本物ですよ~。俺みたいな男前、他にいないでしょ?」
「はは、確かに。それで、えぇと、何か?」
「ええ、はい。あの子、よくここに来てるんです?」
単刀直入に、ホークスが椿の後ろ姿を示す。ホークスの示す先を追った男性が、ギクリと身体を強ばらせた。
「…………どうして、あの子が気になるんです?」
「大きさの合っていない服、細すぎる腕、古い教科書……。あとは背中を痛めてるんですかね、動きがぎこちない。見たとこ、家庭環境に問題ありってところですかね」
椿はいつも、サイズの合っていない服を着ている。私服も制服も、全てお下がりであるという。背丈に合わせた服を着ているものだから、オーバーサイズのものばかりだ。肌が見えないように重ね着をしているけれど、それもサイズが合っていないように見えた。ぶかぶかの袖口から覗く腕は、女の子らしい丸みがない。筋張っていて、二次成長を前にした少年のようだった。
また、椿は背中を庇う素振りを見せることがある。そういうときは決まって、羽根の枚数が減っていた。それも、不自然な形で。きっと、暴力を振るわれているのだ。背中を殴られ、羽根を毟られている。そんな妹を見る度に、血が沸騰するような怒りを覚えた。助けられないことが、もどかしい。
ホークスが拳を握りしめて、いっそ睨み付けるような眼差しで小さな背中を見つめる様子を見て、男性スタッフがそっと息を吐いた。
「…………前に何度か、児童相談所に連絡したんですがね、どこの家の子か分からないと、どうすることも出来ないって言われたんですよ。それで、さりげなく本人に聞いてみたんですけど、困ったように笑うだけで……」
「…………そうですか」
「ヒーローなら、どうにか出来ますか?」
「どうにかしてみせるのがヒーローですよ」
「頼もしいですね」
男性が小さく笑い、会釈をしてその場を離れる。その背中を見送って、再度椿の背中に目を向けると、彼女は眠気を覚えているのか、うつらうつらと船を漕いでいた。
彼女の座る席は窓に近く、あたたかな日差しが差し込んできて、身体がほどよく温められているようだった。眠くなるのも頷ける。
そのうちに、眠気に抗えなくなった椿が、机に突っ伏した。なんて無防備な、とホークスが心配と呆れを滲ませて肩を竦める。適当な本を手に取って、椿の隣の席に腰を下ろす。周囲の利用客がチラチラと視線を送ってくるのを感じたが、本に集中している振りをした。
本を読む振りをしながら、そっと椿を伺う。僅かに見える横顔は年相応にあどけなく、普段の大人びた印象とのギャップで、酷く幼く見えた。実際、彼女は子供だ。親の庇護無しには生きられない。けれど、彼女はその親に護って貰えていないのだ。
(まさか、あの人が、ね……)
ホークスの父親は、どうしようもない男だった。人を殺し、心の壊れた女に自身を匿わせ、その女との間に生まれた子供に手を上げるような人間だった。
反面、ホークスにとって母親は、自分と同じ被害者側だった。子供に殆ど関心が無く、ネグレクトを受けていた自覚がある。けれど、父親に比べればマシだった。いい親だったとは口が裂けても言えないが、何も与えられなかった訳ではないのだ。彼女には、
大きな袖口から覗く椿の腕には、思わず目を逸らしたくなるような青痣があった。その暴力の痕跡を見て、やるせない気持ちが生まれる。全身から力が抜けるような脱力感に襲われて、ホークスは本を閉じてため息をついた。
自分に向けられていた視線が落ち着いたのを確かめて、そっと椿に手を伸ばす。伸びた前髪を払うと、隠れていた目元が顕わになる。力強い光を湛えた瞳は閉じられ、長い睫毛が頬に影を落としている。髪も睫毛も、同じ濡れ羽色だった。誰に似た色なのだろう、と指先で髪を梳く。記憶にある父親も母親も、こんなに美しい黒ではなかった。
(でも、背中の翼と、瞳の色は俺と同じだ)
そんな些細な繫がりが、嬉しいような悲しいような。自分と似ていていい事なんてないだろう。似ているところが少なくて良かったと、安堵した。その奥に、ほんの少しだけさみしい気持ちを抱えながら。
「う、ん………?」
髪に触れたことで、椿の意識が浮上する。ゆっくりと持ち上げられた瞼から、濡れ羽色に縁取られた瞳が顔を出す。ホークスとお揃いの、日の光を集めたような金色。寝起きでとろけた金色は、幼い顔をさらにあどけなく見せていた。
「おはよう、椿ちゃん。目覚めた?」
「ん、うん……?」
「駄目だよー、女の子が外で眠っちゃ。危険なのは“敵”だけじゃないんだからね?」
「………………ホークス……?」
「そう、ホークスですよ~」
無防備なのかそうでないのか。警戒心はあるのに、心を許すと柔らかい顔を見せる少女。きっと、彼女は人を疑うことが苦手で、人を信じたいと考えてしまうタイプなのだ。だから、つい
いつもよりも随分と幼い椿の様子に口元を緩ませる。乱れた髪を手櫛で直し、親指の腹で目尻を撫でる。年の割に丸みの少ない頬は、それでも僅かに柔らかい。そのことに微かにほっとして、頬に手を添える。
頬を撫でられてくすぐったかったのか、椿がきゅっと眉間に皺を寄せて目を閉じた。むずがるように、あるいは甘えたようにぐりぐりと額が手のひらに押し付けられ、ホークスの胸に形容しがたい感情が湧き上がる。くすぐったいけれど、嫌な想いではない。むしろあたたかくて、満たされるような感覚。これは何なのだろうな、と不思議に思いながら笑みを深めた。
「ほぉら、起きて。椿ちゃん、お昼まだでしょ? 一緒にご飯食べない?」
「…………ごはん?」
「そう、ご飯。食べるでしょ?」
「…………食べる……」
きゅるる、と控えめな音が彼女のお腹から漏れる。音が鳴っていることに気付いたのか、椿がそっとお腹に手を当てた。弛んでいた服が、椿の腹に押し付けられる。思った以上にへこんだ様を見て、随分と着太りしていたことを知る。呼吸に失敗した喉から、ヒュッと奇妙な音が漏れた。
ホークスとて、満足に食べられない日々を送っていた過去がある。けれど、それも6歳までの話だ。それ以降は公安で十分に面倒を見て貰っていたため、空腹に喘ぐようなことはなかった。
空腹の辛さは知っている。腹に何も入っていないと言うだけで、凍えるような寒さと寂しさを覚えると言うことも。
―――――食べさせなければ。血の気が引くような思いで、ホークスが決意を固める。まずは寝起きがあまりよろしくない椿を起こさなければ。
こくん、と首が落ちかける。咄嗟に頬を支え、ぽんぽんと軽く肩を叩いた。「起きて」と囁いた声は自分でもびっくりするほどに柔らかくて、年の離れた妹を甘やかすものだった。
とろとろにとろけた金色が、再度ホークスを映す。
「…………………ホークスは、私の兄なのか……?」
何の脈絡もなく、あまりにも突然落とされた言葉だった。
ポツリと落とされた言葉は、誰かに聞かせるものではなかったのだろう。本人も口に出している自覚がないのか、その瞳はホークスを捉えているものの、夢うつつでぼんやりとしていた。そのままにしておけば、もう一度夢の世界へ旅立ってしまいそうな様子で、ホークスが大きく目を見開いているのにも気付かない。
「…………どうして、そう思ったの?」
「あなたを見たときの、母さんの様子がおかしくて……。それに、兄がいるって……」
「そう……」
そっと手を取り、椿を立たせる。捲れた袖口から覗いた手首に、紫色に変色した痣がいくつもあった。
椿のものと思われる教科書と筆記用具。図書館から借りた本を剛翼で持ち上げ、椿の手を引いて歩き出す。その段階になって、ようやく現実を認識し始めたのか、ホークスを見上げて不思議そうに首を傾げた。それでもまだ、脳がきちんと働いていない様子だ。今なら何でも話してくれそうだな、と思いながら、本の返却のために受け付けに向かう。受け付けカウンターに居たのは、先程の男性スタッフだった。
「すいません、この子、連れて帰りますね」
「ええ、はい。………助けてあげてください」
「もちろんです」
芯の通ったホークスの言葉に、男性スタッフが安堵の息を漏らす。隣のカウンターで作業をしていた女性も、ホークスに連れられた椿の姿にほっとしている様子だった。
明らかに普通の子供とは異なる出で立ちをした椿は、随分と職員達の気を揉ませていたらしい。けれど、どう手を出していいのか分からず、手をこまねいていたようだった。けれど、
くしくしと目をこすって、眠気を飛ばそうとしている椿に苦笑する。目を痛めてしまうから、と手を止めさせて帰宅を促す。こくん、と幼子のような仕草で頷いた椿が、受付に顔を向けた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ご利用ありがとうございました。……また来てね」
「うん」
ふわふわと笑みを浮かべ、椿が控えめに手を振った。その様子を微笑ましく見つめていたホークスも、受け付けのスタッフ達に会釈した。剛翼で浮かせていた荷物を持ち、椿の手を握ったまま、彼等は図書館を後にした。
その背中を見送った職員達は、顔を寄せ、囁き合う。
「あの二人、ひょっとして兄妹だったりするのかしら?」
「さぁ、どうだろうね……。けど、あの背中を見ると、そうなんじゃないかって思ってしまうね」
二人が背負う赤い羽根。日の光を集めたような金色の瞳。二人が持つ、数少ないお揃いのもの。けれど、スタッフ達が二人を兄妹だと感じたのは、ホークスの少女を見つめる瞳が、そのくらい優しかったというのが大きかった。
きちんとした保護者のもとで、のびのびと暮らせたらいい。そんなことを願いながら、椿を案じていた大人達は返却された本を手に、業務に従事するのだった。
***
図書館から出て、強い日差しに晒される。その頃になって、椿の頭はようやく正常に回り始めたようだった。ホークスに荷物を持たれ、手を繋がれ、二人で歩いている。館内でのやり取りがおぼろげなのか、椿は困惑したようにホークスを見上げていた。
「あの、ホークス……」
「ああ、うん。今からお昼ご飯一緒に食べようって話だよ。寝惚けてて覚えてない?」
「な、何となく……。いや、そうではなく、どうしてここに?」
「午後から休みを貰ったんだけど、することなくてさ。折角だから椿ちゃんとご飯でも食べようかな~って思ってさ」
「そ、うなんですか……」
―――――それだけのために、わざわざ福岡から?
椿の困惑が、手に取るように分かった。けれど、椿の心情を慮るだけの余裕が、今のホークスにはなかった。
否、余裕が無いわけではない。ただ、急速に固まった決意に、心の一部が追いつかないのだ。けれど、それも残像のようなもので、きっとすぐに追いつくけれど。ホークスは『速すぎる男』なので。
だって彼女は、もう殆ど確信してしまっている。自分達が実の兄妹であることを。機能不全を起こした家庭が足枷になると思っているのなら。それを理由に助けを求められないというのなら。そんな程度で飛べなくなるようなヒーローではないのだと、見くびるなと伝えなければならない。
確かに
悲しいことだが、一つの家庭から
鷹見、あるいは羽飼家で言えば。父親の件が露見して、それで最も被害を被るのは椿だ。ろくでなしの父親と、心の壊れた母親の間に生まれ、実の親から虐待を受けて育った子供を、世間はどのように見るのか。同情の視線は多かろうが、それでも少なくない声が“世間に出してはいけない子供”と糾弾する。そんな誹りを、椿だけに背負わせるわけにはいかない。彼女一人に、顔も知らない父の罪に向き合わせるつもりは微塵もない。だから、
「ちゃんとしたご飯を食べさせてあげたいんだけど、近くのパン屋さんでもいい?」
「え、あ……お、お金………」
「いいよ。このあと、俺の用事に付き合って貰うから」
椿の困惑をいいことに、ホークスは手を繋いだまま「美味しい」と評判のベーカリーへと向かう。
ヒーロースーツのまま地上を歩くホークスは大変目立つ。道行く人々がホークスを振り返るけれど、明らかに訳ありの子供と行動を共にしているのを見て、誰もがそっと目を逸らす。ホークスはファンサービスがいいと評判なヒーローではあるけれど、保護した子供を放置してまでファンに愛想を振りまくヒーローではない。仕事の邪魔をすれば、ファンであっても冷たい笑みを向けられる。悪質だと判断されれば、ヒーローとしての権限を行使することを厭わない。彼はそれだけ、善人に優しく、悪人に厳しいのだ。
用事、と椿が首を傾げる。はて、ホークスに自分が付き合わなければならないような要件があるのだろうか。けれど、道端でその用件を話す気はないのか、他愛ない話を交わしながら道を進んでいく。その間もずっと手を繋いだままで、荷物も彼が持ったままである。手を繋ぐのはまだしも、荷物を持たせたままなのは忍びない。何度か視線をやるものの、彼は気付かないふりをして椿に笑みを向ける。言外に「自分で持つと言われても渡す気はない」と言われている気がして、結局椿は彼に荷物を任せることにした。そんなことをしなくても、逃げたりなどしないのに、と思いながら。
図書館から10分ほど歩いた場所に、ホークスの言っていたベーカリーは建っていた。白とモスグリーンと焦げ茶色で統一されたこじんまりとしたお店で、かわいらしい雰囲気だった。硝子張りの扉を開けると、来客を告げるベルが鳴る。「いらっしゃいませ」と言いかけた若い女性店員が、ホークスの顔を見て固まった。
「ここのパン屋さん、クロワッサンとパイがおいしいんだって」
「そうなんですね。でも、惣菜パンもおいしそうですよ」
「確かに。チキンドッグおいしそう」
「チキンサンドもありますよ」
「どっちも買お~」
店に入ったところで、ようやく繋いでいた手が離される。あたたかくて大きな手に包まれていたからか、離された瞬間に感じた風が、何だか酷く寒くてさみしい気持ちにさせた。
ホークスがトレイとトングを持ち、商品を見て回る。その後ろをちょこちょことついて歩きながら、椿はホークスの背中と陳列されたパンを見比べた。
「椿ちゃんはどれがいい? 好きなの選びな」
「え、えっと、どれもおいしそう、で……」
「ゆっくりでいいよ。俺もまだ迷ってるんだよね。チョコクロワッサンとシナモンロールで迷っててさぁ」
「確かに、それは迷いますね」
「ねー」
店内を一周して、椿はベーコンエピ、ロースハムとチーズのクロワッサンサンド、オレンジパイを。ホークスはチキンドッグ、アボカドとブロッコリーのチキンサンド、チョコクロワッサン、りんごとカスタードのパイを選んだ。飲み物は椿がミルクティー、ホークスがカフェオレである。
二人が商品を選んでいる間、硬直が解けなかった店員は、二人がレジに来たことでようやく息を吹き返した。ホークスのファンらしい彼女は、震える手で商品を詰め、お会計を済ませる。色紙もスマホも手元にないと握手をせがまれ、笑顔で手を握って店を後にした。
パンの入った袋は椿が持った。たかがパンが数個入った程度のものである。これくらいは持たせて欲しいと言うと、ホークスが優しげな笑みで了承した。その顔が何だか、小さい子がお手伝いをしたいと駄々をこねるのを見つめる親のようで、何だかいたたまれない気分になる。彼の中で、自分は一体いくつに見えているのだろう。思わず眉を下げると、ホークスは小さく声を立てて笑った。
店を出ると、もう一度手を繋がれる。少し進んだ先にある公園で食べよう、と提案され、天気もいいことだし、と椿も頷く。
それにしても、と椿が隣を歩くホークスを見上げる。この人はどうしてこんなにこの地について詳しいのだろう、と首を傾げる。見られていることに気付いたホークスが、同じように首を傾げた。
「ホークスは、この辺に詳しいんですか?」
「何度か来てるから、自然と覚えただけだよ。空から街全体を見下ろす形になるから、把握しやすいってのもあるけど」
「なるほど。確かに俯瞰して見た方が把握しやすそうですからね」
現在の椿は、個性によって飛行能力を得た。彼と同じように、街全体を空から見下ろすことが可能である。この能力を、かつて審神者だった時代に手に入れたかったものだ、と内心でため息をつく。
地の利というのは、それだけ自分たち側が有利になるのだ。新しい戦場が開かれた際にまず行うのは、地形の把握である。地形を利用して敵を追い詰めたり、投石を振らせるなどの小細工も度々行ってきた。その経験があるからか、椿は現在でも地形把握能力が高く、空間認識も得意であった。そのため、新しい場所に来ても一度歩いた道は忘れないし、方角を誤ることもなかった。けれど、その段階に至るまでは長い時間が掛かった。何せ、刀剣男士達が駆け回る戦場は、現代のように目印となるものが極端に少なかったので。
遠い記憶に思いを馳せているうちに、公園に着く。幸いなことに人気は無く、藤棚の下に設置されたベンチが空いていた。二人並んでベンチに座り、それぞれのパンを取り出す。
「「いただきます」」
一口かじると、香ばしい小麦の香りが口の中に広がる。ハードな食感のベーコンエビは肉厚なベーコンが詰め込まれている。素朴な味わいのパン生地と、塩気の強いベーコンがマッチしていておいしかった。評判がいいだけあって、ホークスも思わずといった様子で「うまっ」と呟いていた。しばらく無言で食べ進め、ホークスはあっという間に二つ目のパンへと取り掛かる。少し遅れて、椿も二つ目のパンを手に取った。
バターがたっぷりと練り込まれたクロワッサン。ほんのり甘めの味わいで、ハムとチーズのしょっぱさと相性が良い。こちらもおいしい、と椿が口元を緩める。
「椿ちゃんって何でもおいしそうに食べるよね」
「実際においしいので」
「美味しくないものを食べたときはどんな顔をするの?」
「さぁ……。おいしくない顔じゃないでしょうか」
自分では分からない、と頬に触れる。確かに口角が上がっているような感覚はあったと思うけれど、それはホークスが笑み崩れる程の顔だったのだろうか。首を傾げていると、ホークスが小さく笑った。
「椿ちゃんのおいしくない顔、想像付かないや」
「付かない方が良いですよ。それだけ美味しくないものを食べていると言うことなので」
「ああ、確かに。どうせなら美味しいものを食べたいし、おいしい顔の方が幸せだもんね」
「はい」
最後のパンを手に取り、歯を立てる。さくり、と音を立てたパイの中から、カスタードクリームとマーマレード、オレンジの果肉が溢れ出す。カスタードクリームのまろやかな甘みと、甘酸っぱいマーマレード、みずみずしいオレンジ。あ、これ好きだな、と椿の笑みがとろけた。その顔を隣で見ていたホークスは、「次は二つ買って、二人で食べよう」と心に決める。オレンジパイが気に入ったなら、その隣に並んでいたイチジクのパイも好きそうだな、とパンを選んでいる光景を思い出す。実際、少し迷う素振りを見せて、オレンジパイを手に取ったようであったから。
最後のひとかけらを食べきって、椿が満足げに手を合わせる。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「それなら良かった。いい食べっぷりで、見てるこっちまで嬉しくなったよ」
「お腹が空いていたので。……それで、用事って?」
居住まいを正して、椿がホークスを見上げる。ホークスは変わらず笑みを浮かべていたけれど、僅かに眉を下げていた。
「…………病院行こっか」
「…………え?」
「それ、ちゃんと診て貰わないとね」
袖口から覗く手首を示すと、椿がさっと顔色を変えた。けれど逃げる気はないのか、戸惑いは見せつつも反抗の意志は見せない。
背面の打撲、及び剛翼の損傷。栄養失調、低体重、それに伴う
「そう言えば、保険証とかって持ってる?」
「た、多分家に……。でも、病院に掛かったことがないので、どこにあるかは……」
「……そう。まぁ、再発行でも何でもすればいいか」
どうせ、家に帰す気なんてないのだ。いっそのこと戸籍ごと引っこ抜いてしまおうか。そんな不穏なことを考えながら、困ったように眉を下げる椿の頭をそっと撫でた。
***
没ネタ
椿「パンを威嚇したら駄目ですよ」
ホークス「威嚇?」
椿「トングをカチカチ鳴らすのは、パンを威嚇する行為なんだそうです。パンが固くなってしまうと聞きました」
ホークス「ええ、何それ……。中学生ってそんなかわいい話してるの……?」
椿「あと、純粋にトングが傷んでしまいそうなので、やめておいた方が無難かと」
ホークス「ああ、確かに……」
「刀剣男士とこんなやり取りしたなぁ」って思いを馳せる描写を入れたかったんですが、めちゃくちゃ長くなりそうだったのでカットしました。
