幸せな絶望を抱えて






 椿の本丸は、主の行方が分からないことに騒然としていた。
 特に、つい先ほどまで一緒にいたと主張する見習いの動揺は酷く大きかった。


「何で? どうして? さっきまで、つい今までここにいたのに!」


 見習いは突然の出来事に混乱しているようだった。視線が定まっておらず、取り乱しているのがよく分かる。
 主がいないことに気づいた刀剣達の動揺が収まるくらいに。


「落ち着け、見習い。今冷静で居られなくてどうする。非常時こそ冷静であれ。お前、審神者になるんだろう」


 刀剣男士を率いる主となるんだろう。
 山姥切が見習いの肩を掴み、自身の方を向かせる。そして視線を合わせ、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
 彼の言葉にはっと我に返った見習いが、深く呼吸を繰り返す。そうすることで落ち着いたのか、見習いがしっかりと山姥切を見つめ返した。


「すいません。取り乱してしまいました」
「落ち着いたなら、良い。それより、ついさっきまで、姐さんはあそこにいたんだな?」
「はい、今の今まで」


 見習いの言葉に、刀剣達が眉を寄せる。そして椿がいた形跡を探ろうと門前に視線を向け、厚が目を見開き、門前へと駆け寄る。
 門前に駆け寄った厚は膝をつき、何かを拾い上げ、呆然としたまま見習いらの方を振り返った。


「これ、姐御の端末だ……」


 そう言って掲げたのは政府から支給された、審神者用の端末であった。
 つまりは、椿がそこにいたという証拠に他ならない。
 小夜達他の短刀も駆け寄り、端末を確認する。端末には通話記録が残されており、ほんの数分前まで使用していたことが判明した。
 そして、その相手が誰であるかも。


「役人を呼べ」


 端末を見た山姥切が、低い声でこんのすけに命じた。
 唐突に言われた内容に、こんのすけは間抜け面を晒す。


「は?」
「この書類について説明させろ。こんなものをいきなり突き付けられて、納得できるわけがない」


 低い声で言い捨てた山姥切は怒りを押し殺したような無表情だった。
 そしてこんのすけに端末を見せ、驚くこんのすけを冷たい目で見降ろした。


「それに、姐さんの行方も気になる。役人が一枚噛んでいる可能性もゼロではない」


 審神者を陥れる役人も少なくはないのだろう?
 山姥切の眼差しは、軽蔑の色を含んでいた。
 その言葉に、こんのすけが気づく。山姥切たちは前任の審神者だけでなく、その担当役人やこんのすけにも苦しめられてきたのだ。政府そのものを信用できずにいるのも無理からぬこと。
 その上、この本丸の新たな担当役人は何かと理由をつけてはこの本丸を避けている。信用しろという方が無理な話だ。


「分かりました。必ずや連れてまいります」


 強い意志を宿した瞳で山姥切を見上げるこんのすけに、山姥切は任せた、というように深く頷いた。
 かくして、こんのすけの努力により担当役人は本丸に現れた。
 門前にて刀剣男士らに出迎えられた役人は、その瞳に酷い怯えを滲ませていた。


「この書類に書かれていることは本当か?」
「は、はい。間違いありません」


 山姥切たち、以下刀剣男士達は、役人をこれ以上本丸の奥に入れようとはしなかった。それは役人に対する信用度の低さの証明であり、招き入れる価値のない人間であると判断したからであった。
 役人はそのことにいささか不満げであったが、それ以上に恐怖が上回っているのか、門前で身を縮こめている。


「そう判断した理由は何だ?」
「見習いの報告書を読み、この本丸はブラック本丸であると判断されました」


 ここで突然名を上げられた見習いは大いに驚いた。そして、自分が原因でこの本丸が危機に陥っていることに唇を戦慄かせた。


「そ、そんな……! た、確かにこの本丸の刀剣達と椿さんの関係に疑問を持ったことは素直に報告しましたけど、いささか判断が早急ではありませんか!? 第一、貴方がこの本丸について何も教えてくださらなかったんじゃないですか!」


 見習いの言葉に、役人が顔を顰める。そして余計なことを言うなというように、見習いを強く睨みつけた。
 そんな役人に刀剣達は牽制するような視線を向けるが、三日月だけは思案するような表情で見つめていた。


「三日月さん? どないしたんです?」
「いや……」


 それに気づいた明石の問いかけに、三日月は言葉を濁す。
 三日月自身も何が引っ掛かっているのかよく分かっていないようで、不快気に眉を寄せていた。
 そんな三日月を見て、岩融が探るように役人を見つめる。
 そんなやり取りを行う三振りをよそに、役人と刀剣達の問答は続いている。


「そんな! 研修を受ける見習い様には特殊事項を持つ本丸は、担当役人から事情を説明することが義務付けられているはず! それを放棄したというのですか!?」


 こんのすけが見習いの言葉を受けて、青い顔で役人の顔を見上げる。
 役人はこんのすけの存在に気付いていなかったのか、その存在を確認し、盛大に顔を歪めた。


「見習いやこんのすけの言うことが本当なら、それはそれで問題だが、それは一旦置いておくとしよう。そんなことよりも、姐さんはどこだ」


 鶴丸が低く唸るように尋ねる。
 彼の瞳は、人のものでも獣のものでもない、人外のものとなっていた。彼の怒りが、どうしようもないところまで達している証拠である。
 その瞳を正面から見てしまった役人は、全身を震わせながら告げた。


「か、彼女には改善の余地ありとされ、新たな本丸で初心に帰り、一から本丸を作り上げるよう命が下されたのです」


 役人の言葉に引っかかりを感じるが、今それをいちいち指摘していては話が進まない。眉間に深い皺を刻みつつ、鳴狐が問いかける。


「この本丸で再生を図ることはかなわないの?」
「はい。政府の意向で措置が決定され、彼女はそれを受け入れて新たな本丸に移りました」


 役人の言葉に、カッと目の前が赤くなる。
 椿はとてもではないが、自分の意志でこの本丸を出たようには思えない。物を大切に扱う椿が端末を捨てて本丸を出るようなことはしない。何か、それ相応の事情でもなければ。
 そもそも第一に、命をかけてまで手に入れたかった自分達を置いて行くなど、彼女がするはずもないのだ。
 嘘をつくなと怒鳴りつけてやりたい気持ちが湧き起こったが、この役人が何か手を加えた証拠はない。例え、この役人の言動が明らかに椿にとって良くない物であっても、それだけでは証拠不十分だ。


「どうしても姐様と引き離されるなら、刀解された方がましだ」
「そ、そんなことはさせられません!」


 強く断言した長谷部に、役人が狼狽する。


「あれも駄目、これも駄目。俺たちに自由はないのか」
「これは政府からの命令なのです! 私めにはどうしようも出来ないことなのです!」


 嫌悪を滲ませた表情を向けられ、役人の顔が青ざめる。
 椿のことは格下と決めつけて侮っているが、刀剣男士には怯えを見せる。椿とともに政府に赴いたときに、役人たちが総じて見せる表情であった。
 そんな態度に苛立ちを覚えつつ、怒りを押し殺した大倶利伽羅が役人に詰め寄った。


「なら姐さんの行った本丸の場所を教えろ。引きずってでも連れ帰る」
「そ、それも出来ません! 貴方方は被害者です! 加害者と接触させるわけにはいきません!」
「被害を被った覚えはないんだがな」


 侮蔑を滲ませた言葉を吐き捨て、話にならないと大倶利伽羅は踵を返す。これ以上役人の顔を見ていたら、斬り殺してしまうそうだった。


「なぁ、知っているか? 俺たちは人間を斬ったくらいでは堕ちないんだ。斬るために作られたものだからな」


 山姥切が刀に手を掛け、うっそりと笑う。けれどその目は一切の温度を感じさせず、どこまでも凍てついていた。
 その目に殺意が滲んでいるのを本能で感じ取ってか、役人ががくがくと足を震わせながら後ずさる。


「私を脅す気ですか……!」
「俺たちがどうしてお前達の高慢に素直に従ってきたか分かるか? 姐さんがいたからだ」


 政府の役人たちはどこまでも椿に高圧的で、何度斬り捨ててしまおうと考えたか分からない。
 しかし椿はそれを望まず、役人たちの態度に辟易しながらも、逆にそれを糧に奮起してもいた。
 そんな椿の強い姿を見てきたからこそ、役人を殺してしまおうという考えを捨てることが出来ていたのだ。
 しかし、ここに椿はいない。彼らが、奪ったから。


「姐さんがいなくなったら、俺たちを制御できる人間がいなくなるな」


 山姥切の頭には、その美貌を隠す布はされておらず、その美しい顔を惜しげもなくさらしていた。
 普段ならば見惚れて呆けてしまう様な、どこまでも美しい微笑みを湛え、弧を描いた唇が言葉を紡ぐ。


「さぁ、姐さんの居場所を教えろ」


 さもなくば殺す。
 そんな声が今にも聞こえてきそうな、美しくも冷え冷えとした笑みだった。
 その笑みを向けられた役人は、その笑みの意味を正しく受け取っていた。
 しかし、役人は口を割らない。


「あ、あの審神者はもう、新たな本丸に移ったのです! 受け入れてくださいませ、刀剣男士様!」


 懇願するような表情で、縋るような素振りで役人が上目で刀剣達を見つめる。
 涙すら浮かんできそうな、悲壮な表情だった。
 けれど刀剣達の心を動かすことは出来ない。
 彼らの心を動かすことが出来るのは主の、椿の言動だけだ。椿がそう言ったならばいざ知らず、本人のいない状況で、他人のいう言葉を信じるつもりはない。
 そんな刀剣達に業を煮やしたのか、役人が吐き捨てるように言い放った。


「あの審神者は貴方方を捨てたのです! 刀剣男士様方が主と敬い、信頼するに値しない下賤な存在だったのです! 所詮その程度の、価値のない人間だったのですよ、あの端女は!」


 役人がその言葉を放った時、それを聞いていた見習いは、彼は刀剣男士に聞かせてはいけない言葉を言ったのだと理解した。
 もちろん見習いも怒りが湧いた。あまりの言い草に、殴ってやりたいとさえ思うほどに。
 しかし、侮辱された審神者の刀剣男士達の怒りは、その比ではない。
 それは肌を刺す、刃の様な威圧感を放っていた。
 それは意識が遠のいてしまいそうなほどに重く、反抗の意志を削ぎ落とすほどに鋭利なもの。
 頭では理解できなかったが、本能はそれを正しく理解していた。それは殺意と呼ばれるものだ、と。
 山姥切たちが、その衝動に任せて本体を抜き放つ。
 日の光にきらめく刀身は美しいが、それぞれが殺意に濡れ、戦場で見せる畏怖を抱かせる輝きを放っていた。


「殺す」


 その言葉を放ったのが誰かは分からない。しかし、明確な殺意を持って放たれた言葉であった。
 役人に一番近かった山姥切が、役人に向かって突進する。
 そして、役人の首に向かって、一線。役人の首を刎ねんとしていた、その時。


「ただいま」


 穏やかな声が聞こえ、役人を切り捨てようとしていた山姥切の動きが止まる。首の薄皮一枚を捕らえたところで止まった刃に、役人は腰を抜かして座り込んだ。


「姐さん……?」


 誰も彼もが驚いていた。行方知れずの主が、突然戻ってきたのだから、それも当然ではあるが。
 門を振り返り、その姿を視界に収め、刀剣達はようやく安堵の笑みを浮かべた。無事でよかった、と。


「ああ、お帰りなさいませ、姐様!」
「一体何処へ行っていたのですか? 心配したのですよ?」
「すまない」


 長谷部と宗三が椿のそばに駆け寄る。
 その顔には心労からか、疲労の色が見えた。
 そんな刀剣達に笑みを向けつつ、椿は努めて穏やかに告げた。


「実は、ブラック本丸に行っていたんだ」


 何でもないことの様に放たれた言葉に、刀剣達は息を飲む。見習いに至っては、顔から血の気を引かせていた。
 帰ってきた椿は驚くほど穏やかで、とてもブラック本丸に行っていたようには見えない。
 しかし、その微笑みにはうっすらと倦怠感が見え、確かにブラック本丸にいたことが窺えた。
 ブラック本丸は、健やかな人間の心と体を蝕む毒が蔓延っている。その倦怠は、毒に晒された影響だろう。


「馬鹿なっ! あの本丸に行って何故生きて……っ!」
「っ! 貴方が椿さんを!!」


 役人の言葉に、見習いの瞳に剣呑な光が宿る。
 そして続いて向けられた刀剣達の殺意に濡れた目に、役人はようやく自分の失言に気付き、顔を青ざめさせた。


「お前は怯えるばかりで、何も見ようとしない。知ろうとしない。だから分からなかったんだろう」


 椿が門を振り返る。それに釣られるようにその場の全員が門を見つめた。
 じっと見つめていると、門の中心に、何やら靄の様なものが現れる。それが何なのか見習いやこんのすけたちには分からなかったが、ブラック本丸にいた刀剣達には分かった。あれは穢れだ、と。
 ずるり、と地面を這うような音とともに、それは現れる。それを見て、その存在を知っていた役人は引きつった悲鳴を上げた。
 現れたのは椿について行くことを決めた刀剣男士―――膝丸であった。役人に恐怖を与えるためか、穢れと怨嗟で出来た靄を纏い、その姿はブラック本丸で最初に対峙した時のものだった。
 そんなものが椿のそばに立ち、咄嗟に刀剣達が刀を構える。椿がそれを制し、黒い靄の塊に向かって苦笑した。


「気持ちは分からなくはないが、靄を解け。見習いたちまで無駄に怯えさせるな」


 椿の言葉に不服そうにしながらも、膝丸がゆっくりと靄を解く。靄は完全に晴れることはないが、その容貌が見て取れる程度には靄が飛散する。
 そして現れた姿に、今剣や岩融が息を飲んだ。


「お前は彼に私を殺させようとしたようだが、彼は見た目ばかりが恐ろしいだけで、敵ではなかったんだ」


 お前のことならば殺したいかもしれないがな。
 役人を見つめ、椿が口角を上げる。その口の端には軽蔑の色が乗っていた。
 膝丸はあの本丸に顕現した時、穢れに苦しむ刀剣達を見ていられなくて、その穢れを一手に引き受けた。けれど時すでに遅く、刀剣達は次々に折れていった。馴染みの深い今剣や岩融、兄である髭切も。
 その絶望に、彼は穢れに呑まれ、形を見失ってしまったのだ。
 しかし彼は、人を憎んでいるわけではない。その感情が全くないとは言わないが、その心は穢れによる影響は受けていない。髭切によって守られていたから。
 しかし膝丸には、目の前の男を憎む理由があった。
 膝丸の様な哀れな存在を生み出したのはブラック本丸を作り上げた審神者と、それを良しとしていたこの男。つまりこの男は、大切な者たちを失う原因の一端なのである。
 それを彼女は、膝丸を掻き抱いたときに全て見たのだ。靄に乗る、刀剣男士の負の記憶から。


「さて、話を聞こうか」


 椿はにっこりと、優しげに微笑んだ。




3/4ページ
スキ