幸せな絶望を抱えて
「すまない、迷惑をかけた……」
「いや、迷惑だなんて思っていないから、気にしないでくれ」
膝丸が泣きやんだのは、随分と時間が経ってからのことだった。もしかしたら短い間だったかもしれないが、穢れによって齎される苦痛に耐えながら宥めていた椿には、酷く長い時間、彼を抱きしめていたように感じられた。
けれど、それに想うところはない。自分がそうしたいと思ったから、心のままに行動したのだ。だから謝る必要なんてない、そう伝えるように、椿は優しく笑った。
「それに、少しだが綺麗になった」
「え?」
泣いたことですっきりしたのか、膝丸の穢れはわずかだが祓われていた。
涙には感情の浄化作用があるという説がある。それは自身の感情だけではなく、彼に纏わりつく怨嗟にも有効であったのだろう。
わずかだが改善された膝丸の様子に、頑張った甲斐があったと、椿は柔らかく微笑んだ。
しかし、自分の様子に気づいた膝丸は、複雑な表情を浮かべている。
喜ばしいことではないのか、と椿が首をかしげると、膝丸はそろりと窺うように椿を見つめた。
「すまない。俺に触れるのは、苦痛でしかなかっただろう」
「私が好きでしたことだ。気に病まないでほしい」
彼は穢れに触れたことで起こる心身の不調を正しく理解しているのだろう。
心配そうに眉を寄せ、不安げに瞳を揺らす膝丸に、椿はことさら優しげな笑みを向ける。
「あまり謝られると、私の方が余計なことをした気分になるな」
「そんなこと……っ」
ぶんぶんと首を振り、一生懸命に否定する膝丸に笑みがこぼれる。
その笑みに力が抜けたらしい膝丸は、少し迷うような素振りを見せたが、意を決して真っ直ぐに椿を見つめた。
「寄り添ってくれて、ありがとう。とても心強かった」
「どういたしまして」
彼は素直で真面目な刀なのだろう。そのまっすぐな眼差しが、それを物語っている。
混じりけのない純粋な瞳は、穢れに犯された刀剣男士のものとは思えないほどに美しい。
きっと彼の兄は、この眼差しを守りたかったのだろう。この力強い瞳には、それだけの価値がある。
「さて、私はそろそろ帰らなければ」
膝丸の瞳から目をそらすのをもったいなく思いつつ、椿は立ち上がって門を見上げた。
どれだけの時間この本丸にいたのか定かではない。自分で思っているよりも時間が経過しているのかしていないのか。端末もいつの間にか落としてしまっており、時間の確認のしようがない。
早く帰らなければ。きっと刀剣達は心配しているだろうし、見習いの少女も突然の事態に混乱していることだろう。
(それに、膝丸もどうにかしなければ)
ここにいては、彼はいつまでも苦しみ続けることになる。それはきっと、彼にとっても苦痛であるし、彼を知ってしまった椿にとっても苦しいことだ。早く帰りたいけれど、放って置くことは出来ない。
けれど、はたして彼はここから離れたいというだろうか。
良い思い出なんてないだろう。けれど、兄や縁のある刀の最期を見届けた場所だ。少なからず、思うところはあるかもしれない。
「帰るのか?」
「ああ。私には私の帰りを待ってくれている者たちがいる」
「……どうしたら、俺もここから出られる?」
「え?」
何と言ったものか、と思案していたところに、思わぬ声がかかる。
自分が提案しようとしていたことを相手から尋ねられ、椿が目を瞬かせた。
「ここにいては、俺はまた自我を失うだろう」
「……おそらくは、そうだろうな」
穢れは穢れを呼ぶのか、この本丸に沁みついた穢れは、膝丸を蝕まんとして、彼に纏わりつこうと渦巻いている。
それを忌々しげに睨みつけながら、膝丸は続けた。
「自我を失ってしまえば、記憶を失い、次に自我が戻るのはいつになるか分からない。折角思い出せたのに、また忘れたくはない」
忘れたくないのだ。
唇を噛み締め、膝丸が繰り返す。
「兄者は、俺にとって、大切な人だから」
強く拳を握りしめ、声を振るわせる膝丸が口にした、美しく尊いその感情。
―――やはり、この刀は美しい。穢れと怨嗟に包まれてなお、その高潔な魂は濁り一つない。
「なら、私と共に来るといい」
「え?」
膝丸は驚きの声を上げたが、笑みを湛えた椿がその言葉を言ったのは、当然のことであった。
こんなところで埋没させるのは惜しいと、椿の想わせたのだから。
「私に仕えろとは言わない。君が守りたいと思える主に出会えるまで、うちに居候すればいい」
彼女の言っていることが、まるで理解できない。
否、理解は出来ているが、これ以上聞いてはいけないと、心が警告するのだ。
だって彼女の言葉は、今の自分にはあまりにも魅力的なものだから。
「うちにいる間なら、私が何度でも思い出させてあげられる。君に、君を大切に想う兄がいたことを」
膝丸は、呆然とその言葉を聞いていた。
「どうする?」
―――ああ、なんて残酷な問いかけだろう。
彼女や、ここから出ることで自分に関わるであろう相手のことを思えば、自分はここから出ることすらしてはいけないのに。
「……俺は君にとって害だろう」
椿が自分に触れて苦しんでいた光景が頭に浮かぶ。それは酷い有様であった。膝丸に、自分は独りで居るべきだと、改めて強く思わせるほどに。
穢れは健やかな心と体を犯し、怨嗟は精神を傷付ける。長時間接し続ければ気が触れて、やがて闇に呑まれてしまうだろう。椿がそうならなかったのは、彼女の想いの強さと、穢れに対する耐性があったからだ。
「君は私に仇なすつもりでもあるのか?」
「無い、が、しかし……」
「なら、問題ないだろう」
「なっ……!?」
あっけらかんと告げられた言葉に、目を見開く。
「君が纏う穢れは私にとって有害だが、君自身は無害だ。ほら、何も問題ないじゃないか」
むしろ何の問題がある?
本気で疑問に思っている声音を聞いて、膝丸は言葉を失う。
何を言っているのだ、この人間は。
穢れを纏っている自分を相手に。自我すらまともに保てない不安定な自分に、無害だなんて。
「自分で言っているだろう! この穢れは有害だと! なら、それを纏う俺も害と変わらない!」
「しかし、それが動くのは君の意志だろう?」
「確かにある程度の自由は効く。しかし、これが俺の意志を顧みずに暴走することだってあるかもしれない! そうなったら、俺はまた……」
―――失ってしまう。
膝丸の口から洩れた声は、風に晒された花弁の様に儚かった。
意識して聞いていなければ、聞き逃してしまいそうなほどに小さな声。けれど、その声をしっかりと聞き届けた椿は、力強く宣言した。
「その時は私が止める」
「……っ!」
「それでも不安か?」
表情は柔く、優しい。けれどその言葉は、その眼差しは、あまりに強い。
根拠なんてないのに、力強い言葉が不安を取り除こうとする。その目はどこまでも真っ直ぐで、思わず追従したくなるような力がある。
この不安は常に抱えていなければならないものなのに。失わないためには、必要なものなのに。誰も傷つけないためには、何よりも大切な想いなのに。
「行きたい……!」
気付けば、口からは想いとは真逆の言葉が溢れていた。
本来なら、自分はここで終わるべきなのだ。それが最善で、最良なのだ。誰も傷つけないためには。
けれど、大切な人がいたことを思い出してしまって、ここで終わりたくないと思ってしまったのだ。だから膝丸はここから出て、独り、思い出と共に生きていくことを決意したのだ。
しかし、穢れに苦しみながらも自分を抱きしめ続けてくれた椿の言葉はあまりにも強く、信頼性があって、とても魅力的だった。
「俺も、連れて行ってくれ……!」
涙で滲む視界の中で、思わず手を伸ばす。
それが彼女にとってどれほど苦痛で、どれほど残酷なことであるか分かっているけれど、手を伸ばさずにはいられなかった。
この短い時間の中で、分かってしまったのだ。彼女は伸ばした手を必ず握ってくれる、と。
「ああ。一緒に行こう」
そう言って力強く握った右手が、膝丸を立ち上がらせる。
苦痛を感じているはずなのに、その手は苦しみを感じさせない。
その手のゆるぎなさにどうしようもない安心感を覚えてしまって、膝丸は絶望する。
(何て、残酷な人なのだろう)
この人のそばならば、自分は誰も傷つけずにいられるのではないかと、そう錯覚しそうになる。今もって、自分の手を握る彼女を苦しめているというのに。
そんな幸せな絶望を抱きながら、膝丸は椿の隣に並び立つのだった。