大切なもの






「笑って、――」










「……?」


 ゆっくりと意識が浮上する感覚に合わせ、椿が瞼を持ち上げる。起きる直前、何かを口走ったように感じたが、椿はそれが何なのか分からなかった。
 椿は、夢うつつの状態で、ゆっくりと辺りを見回した。
 周囲の状況は意識を失う前と変わらず、鬱々とした雰囲気を纏った本丸のまま。意識を失う原因となった靄は、突然気を失った椿を心配そうに見つめ、おろおろとうろたえている。そんな様子を微笑ましく見つめ、椿はゆっくりと身を起こした。
 体の不調はほとんど残っていなかった。わずかに残ったのは頭の痛みだけ。吐き気や眩暈などの症状は無かった。


「”膝丸”」


 椿は、自分で口走った名前に驚いた。何故その名を呼んだのか、と。
 けれど、すぐ分かった。
 椿は夢を見ていた。
 正確には、記憶を見ていた。抱きしめた靄の中に残る記憶の一部を。
 その中で、椿は彼の名を呼んだのだ。


「そうか……。君は”膝丸”というのか……」


 靄は、自分の名前が分からないようだった。名前を呼んでも、彼は不思議そうに首をかしげるばかりだ。
 そんな様子に椿は苦笑した。


「君は無垢だなぁ」


 こんなにもおぞましい穢れを纏っているというのに。


「君は、兄に愛されているんだな……」


 ずっと不思議だった。こんなにも人への恨みつらみを纏っているのに、その心にその感情が到達していないことが。
 彼はずっと守られていたのだ。堕ちないように、穢れないように。彼の、兄によって。


「君は、髭切に大切に想われているんだな」


 だから彼は、見た目こそ恐ろしくとも、心は無垢なままだったのだ。


『ひげ、ぎ、り゛……?』
「!」


 黒い靄―――膝丸が、首をかしげる。兄のことも、分からない様子であった。


「ああ。君を大切に想っている、君の兄だ」


 君にとっても、大切な人だよ。
 君はその人を「兄者」と呼んで慕っていたようだ。
 記憶で見たことを伝えても、膝丸には覚えがないようだった。
 けれど、まったく覚えがないわけではない様子でもあった。


『あに゛、じゃ……?』


 うっすらと穢れが飛散し、わずかながら、刀剣男士としての様相が見て取れる。
 そしてのぞいた顔には、涙が伝っていた。


『……? ……っ?』


 ボロボロと溢れる涙に、膝丸は驚いているようだった。
 ぐしぐしと掌と甲を使って涙を拭う。それでも涙は止まることを知らず、次々に溢れてくる。
 これでは目を痛めてしまう、と代わりにぬぐってやろうとして、椿は手を止めた。
 手を止めた椿を不思議そうに見つめる膝丸に、椿は努めて優しい声を掛ける。


「すまない、膝丸。私が君の涙を拭ってやるわけにはいかないんだ」


 止まらない涙に不安を募らせる膝丸の顔に、椿は困ったように眉を下げた。


「それは、髭切の役目だ。必ず会いに行くと、必ず涙を拭ってやると、強く決意していたんだ」


 だから、今私が拭ってやるわけにはいかない。
 そう言って、椿は膝丸を強く強く抱きしめた。


『あ゛に、じゃ……』


 愕然とした様子だった。
 彼は、すべてを失っていたわけではない。それが何なのかは覚えておらずとも、大切な物を失ったという事実だけは、しっかりとその胸に刻まれていた。


『あ、にじゃ……!』


 ただ繰り返すだけだった言葉に、絶望の色が乗る。
 少しずつ、思い出している。自我さえ奪った、忌まわしい記憶を。


『兄者ぁぁぁ……っ!』


 穢れに齎される痛みに苦しみながらも、椿は膝丸を抱きしめ続けた。
 髭切の代わりになれない椿が出来る、唯一のことだったから。




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