大切なもの
肌を撫でるたびに背筋が粟立つ不気味な風。
何もかもが荒廃し、生命を感じることの出来ない庭。
建物は今にも崩れてしまいそうなほどに軋み、おぞましい雰囲気を醸し出している。
健やかな心を蝕んでいく様な、薄気味悪い場所であった。
椿は、そんな本丸の門前にて、途方に暮れていた。
護衛の刀剣もおらず、武器もない。端末は落としてしまったらしく、連絡手段もない。
帰ろうにも、ゲートが動くかどうかも分からない。
動くならば良し。動かないならば、連絡方法を探さなければならない。
しかしそれは、少なからず危険を伴う行為だった。常人たる椿には、この本丸に刀剣男士が存在するかどうかも分からないのだから。
(とりあえず、ゲートが動くかどうかだけでも試してみるか……)
迷っている時間は無い。この本丸の刀剣男士がどのような状態であるかによっては、椿の命の危機だ。
既に椿の存在に気付いている可能性もあり、時間の猶予は無い。
今は気付かれていないにしても、気付かれるのも時間の問題であった。
ゲートの開閉システムを展開させる。
建物は酷い有り様だが、ゲート自体に問題はなさそうであった。
「今回はすぐに帰れるかもな……」
ほっと息をつき、口元を緩める。
そして自分の本丸のIDを入力しようとしたとの時、
―――――ズリ……、
砂を混ぜたような音に、椿は慌てて振り返る。そして瞠目した。
(なん、だ、あれは……)
そこにいたのは、否、”いた”と表現して良いものかすら分からない。
黒い霧上の靄に、赤い点が二つ並んだ存在。
赤い点はおそらく目だ。それが生き物であるならば。
得体の知れない存在に、椿は本能的に恐怖した。背に冷や汗が伝い、無意識に後ずさる。
けれどその目は、油断なく不気味な存在を捕らえていた。
(あれは一体何なんだ……?)
黒い靄は、椿より少し大きい程度。椿の目には、人を黒い霧で包んだように見えた。
まさか、と否定する一方で、一度浮かんだ考えはなかなか消えない。
自分の思考に思わず顔をしかめた時、黒い靄が動いた。かくり、と人ならば首のある位置を傾けたのだ。
「ん……?」
その動作には見覚えがあった。それは首をかしげる動作に似ていた。
得体の知れないものが身近な動作を用いたことで、椿の中にわずかだが余裕が生まれる。
改めて靄を見つめて、つくづく思う。まるで人の様だ、と。
「……君は、何だ?」
椿が尋ねると、靄はまた首をかしげた。
言葉が通じているのか否かは分からないが、聴覚はあるようだ。
少し迷って、そっと近づいてみる。
危害を加えようとする敵意は感じない。近寄ったことで攻撃するような素振りも。
動作も幼く、恐ろしいのは見かけだけのようだった。
手を伸ばせば触れられる距離まで来ても、靄は椿を害そうとする動きは見せなかった。それどころか、椿がすぐそばまで近づいてきたことに、戸惑いを覚えているようだった。
「私の言葉が分かるか?」
こくり、と靄が頷く。
「君は自分が何なのか、分かるか?」
ふるり、と靄が首を振る。心なしか、肩を落として落ち込んでいるようにも見えた。
「君に触れても、大丈夫か?」
靄が、少し震えた。戸惑っているのか、恐れているのか。
けれど靄は、躊躇いがちに頷いた。
椿もまた、自分の言い出したことながら、触れるのを少しためらった。
敵意は無くとも、初めて見る未知の存在だ。豪胆な椿といえど、多少なりとも不安は生まれる。
けれど意を決して、椿は靄に手を伸ばした。
そして、靄に触れた瞬間、
「う゛っ、ぐぅ……っ!」
椿は強烈な眩暈と吐き気に襲われた。
どしゃり、と崩れるように膝をつく。
ガンガンと激しい頭痛を訴える頭を抱え、ぐるぐると回る視界に必死に歯を食いしばる。
椿の様子の変化に、靄がうろたえた様に激しく揺れた。
(これは、穢れと怨嗟だ……!)
この本丸に蔓延る穢れの何倍もの濃度を誇る穢れと、この本丸で苦しんできた刀剣達の嘆きと恨みの感情。それがこの靄の正体だった。
ほんの一瞬、指先を掠めただけだというのに、凄まじい量の記憶が流れ込んできた。
苦痛と悲しみと、人への憤り。負の感情の渦。
あまりの量に、脳が受け入れることを拒むほどだった。
そして、それを纏っているのは―――、
(こんなものを、”彼”は纏っているのか……!)
たった一人の、刀剣男士であった。
自我すら失い、記憶すら抜け落ちてしまうほどの感情の渦を、たった一人で。
(どうして……!)
ブラック本丸とは、本当にろくでもない代物だ。こんなにも悲しい存在を、生み出してしまうのだから。
たまらなくなって、椿は叫んだ。
「どうして君が、こんなものを抱えなければならないんだ……!」
穢れを纏った刀剣男士を掻き抱いて、椿は意識を失った。