交錯と荒廃






 椿は庭先にいた。
 門前に面する庭は、どこまでも丁寧に手入れが施され、見る者の気持ちを和ませる風情がある。
 しかし、今の椿の顔には、美しい庭に不釣り合いな暗い表情が浮かんでいた。


(最近はなりを潜めていると思っていたんだけどな……)


 それは昼寝をしていた薬研が、かつての本丸の闇を夢に見て錯乱状態に陥ったことに起因する。
 しばらく悪夢を見ていなかった。けれど今日、突然また悪夢を見た。
 何かきっかけになるものがあったのかもしれない。否、特にきっかけになるものなどなかったかもしれない。
 けれど突然、思い出してしまうのだ。トラウマとはきっと、そういうものなのだろう。まるで花の様に、枯れても種を蒔いて、また芽吹くのだ。根っこごと引き抜いて、もう種が芽吹かない状態にしなければ、何度でも繰り返してしまう。
 けれどそれは、酷く困難なことだ。その根は太く頑丈で、深く深く根付いているから。


(儘ならないものだな……)


 薬研には一際深い傷があった。目の前で弟である乱藤四郎を刀解されたという傷が。
 前任の日課であった鍛刀の準備のために鍛刀部屋に資材を運びいれていたときのことだという。一緒に資材を運んでいた弟が、突然崩れ去り、玉鋼へと姿を変えたのだ。
 そして他の玉鋼と混じり合い、たった今隣に並んでいた弟がどれか分からなくなってしまったのだ。あまりに突然の喪失に呆然とする薬研を前に、前任は言ったらしい。


『これなら資材を運ぶ手間が省ける』


 と。
 資材を火床にくべる係の刀剣と、資材に変えられる刀剣とを自分の足で鍛刀部屋へと赴かせ、刀解を行う。何と残酷な行いか。
 その絶望と苦しみは、体験した者でなければ理解できない。想像することは出来ても、共有することはかなわない。
 その夢を見た薬研は必ず、鍛刀部屋で資材を漁って、弟の名を泣き叫ぶのだ。その白い手が傷つこうが、喉が潰れようが構わずに。そんなものをものともしないほど、深い深い苦しみなのだ。失うということは。
 そんな悲痛な薬研を止められるのは、主たる椿だけであった。人に傷つけられた薬研が、すべてを捧げてもいいと想わせた、椿だけであった。
 普段からは想像もつかないほど弱く儚く、それでいてどこか苛烈な薬研を抱きしめ、大丈夫だと宥めて落ち着かせるのだ。
 そして泣き疲れて再び眠りに落ちた薬研を一期に任せ、椿はその場を離れてここにいる。
 本当は傍にいたかった。傍にいるのが彼の為だとも思っていた。
 けれど、そうしてやれるだけの余裕が、今の椿には無かった。
 一人になりたかったのだ。また不安が押し寄せてきて、心が負けてしまいそうで。そんな姿を誰にも見せたくなくて。


(でも、一人で抱え込む方が、駄目だよな……)


 そのことが原因で、この本丸に亀裂が入るところであったのだ。ここは隠さずに誰かに打ち明けるべきだろう。そう考えて、ふ、と息をつく。


 ―――ざり、


 土を踏みしめる音がして、椿の肩が跳ねる。
 普段なら気づくはずの人の気配に、まったくと言っていいほど気付けなかった。
 それほど深くまで思考に嵌まっていたのだろう。そのことを内心で苦笑しつつ振り向く。
 振り向けば、そこには見習いがいた。思いつめたような顔をした見習いが。


「あの、椿さん」


 見習いの声は固く強張っていた。恐怖が色濃く乗った、掠れ声であった。
 今までも時折強張りを見せていたが、それらの時の比ではない。


「お話が、あります」
「……何でしょう」
「ここは一体、どのような本丸なのですか?」


 見習いの目は不安で揺れ、恐怖が見え隠れしていた。信じていいものかを迷っている様な、そんな顔。
 けれど椿は、それに構っていられなかった。
 だって見習いは言ったのだ。ここは一体どのような本丸なのかと、何も知らない口ぶりで。政府から、担当の役人から、話が通っているはずなのに。


(―――まさか、)


 本当に、何も?


「担当さんから、何も聞いていないのですか?」


 椿には珍しく、呆けた様な、間抜けな声だった。
 そんな椿の様子に、見習いもぽかんと口を開ける。一瞬にして毒気が抜かれたようだった。


「は、はい、何も……。すごく言葉を濁されて……」
「そうですか……」


 言葉を濁そうとする役人の気持ちも、分からなくはない。それほどまでに椿の刀剣達は人間に酷な目に遭わされてきた。
 けれど、それを理由に説明を怠るのは、許されるべきではない。見習いのためにも、刀剣達のためにも。
 波立っていた心が凪いでいくのが分かる。
 動揺と混乱が混じりあって、混沌を生み出していたはずの心が、今では驚くほどに穏やかだった。
 椿自身は気付いていなかったが、彼女の目は完全に据わっていた。強い意志を持ってこの場に来たはずの見習いが、思わず後ずさるくらいに。
 演練の件も含めて、担当官には言いたいことがありすぎる。


「確認不足ですいません。担当から話が通っているものとばかり……」
「い、いえ……」
「改めてこの本丸の事情の説明をさせていただきます。しかし、その前に―――」


 ヴヴヴ、と端末が震える。
 とっさに手にとって相手を確認すると、そこに表示されていたのは、担当役人の名であった。
 担当役人から直接連絡が来たのは初めてのことであった。
 ちらりと見習いに視線を向ける。その意図を正しく受け取った見習いは「どうぞ」と通話に出ることを促した。
 その言葉に甘え、椿が見習いから少し距離を取る。
 門の前まで来た椿は、すぐに通話に出た。


「至急、政府に来るように」


 通話に出たことを伝えるよりも先に、担当官の言葉が耳に入る。そのことに面食らいつつ、椿は気持ちを切り替えて頷く。


「分かりました。準備が整い次第向かいます」
「そんな時間はない! 今すぐにだ!」


 は? と椿が呆けた声を上げそうになって、何とか口の中だけで押さえる。
 政府に赴くときは、最低限のマナーとして、審神者の制服を着ていくことが決められている。本丸内ではどのような服装でも構わないため、私服で過ごすものも少なくはないからだ。
 そこまでのことが起きているのかと、椿の眉間に自然と皺が寄る。


「では、護衛の刀剣を連れて、すぐに向かいます」
「刀剣男士に聞かれるのは拙い内容だ。いいから早く!」


 そこで椿は先ほどとは別の理由で、眉間に皺を寄せた。
 ―――何か、可笑しい。
 椿がそのことを指摘しようとした、その時。


「姐様―――!」


 切羽詰まったような叫び声が聞こえた。
 こんのすけだ。
 いつも冷静でいることを心がけているこんのすけがこうも声を荒げている。
 一体何があったのか。何故こうも問題が起こるのか。
 そちらに気を取られ、椿は気がつかなかった。椿の背後に、影が迫っていたことに。







「姐様―――!」


 突然の大声に、見習いはびくりと肩を跳ねさせ、椿から目を離す。声の方を振り返ると、辺りを見回しながら叫ぶ管狐―――こんのすけがいた。
 何やら口に封筒を咥えては移動し、封筒を地面に置いては大声を上げるを繰り返している。
 その様子は落ち着きがなく、緊迫した空気を漂わせていた。不安を掻きたてられた見習いは、こんのすけのもとへと駆け寄った。


「どうしました!? 何かあったんですか!?」
「ああ、見習い様! 姐様をお見かけしませんでしたか!?」
「え? 椿さんなら……」


 門を振り返り、見習いは目を見開いた。
 こんのすけは見習いが硬直したのにも気づかず、辺りを見回して落ち着きがない。
 そこに、こんのすけとは対照的な落ち着いた声がかかる。


「何かあったのか?」


 近くにいたらしい長曽祢が顔を覗かせたのだ。それに続いて、五匹の虎たちと共に五虎退も。
 こんのすけが大声をあげて本丸を駆け回っていたためか、刀剣達はすぐに門前へと集合した。


「何を慌てている?」


 三日月が宥めるように殊更ゆったりとした口調で尋ねた。それで落ち着いたのか、こんのすけが地面に置いた封筒を咥えなおし、傍に立っていた山姥切に封筒を渡す。
 屈んで封筒を受け取った山姥切が中を検める。中には、数枚の書類が封入されていた。


「これは俺たちが見ても良いものなのか?」
「ええ、是非確認していただきたく」


 いつになく切羽詰まった様子のこんのすけに、山姥切とその隣に立っていた鶴丸が顔を見合わせる。
 そしてざっと流し読んだ内容に、二人はそろって息を飲んだ。
 そこには椿の本丸をブラック本丸と判定し、本丸と所属する刀剣を見習いに譲り渡すよう命じる旨が書かれていた。


「何だ、これは……」


 書類を手にする山姥切の瞳が大きく見開かれ、言葉を発した鶴丸の声は動揺により掠れていた。
 状況の読めない宗三が山姥切から書類を受け取り、他の刀剣達と共に書類に目を通す。そして鶴丸達と同じように驚愕を露わにした。そんなまさか、と言わんばかりの表情で。
 本丸に来たばかりの長曽祢も眉を寄せ、訝しげに書類を睨んでいる。偽の文書ではないかと疑っているようだった。
 そんな様子を見たこんのすけは尻尾を垂れさせ、困ったように俯いた。


「私めにも何が何だか……。おそらくは何かの間違いであると思いますが、姐様が何か聞いていらっしゃらないかと思い探しているのですが……」


 そこではっと気づく。見習いに椿の所在を尋ね、その答えを聞いていないことに。


「そう言えば見習い様、先程何か言いかけて……」
「椿さんがいない!」


 こんのすけの言葉を遮るように、見習いが振り返って叫ぶ。
 その顔は蒼白しており、唇は戦慄いている。


「さっきまであそこにいたのに!」


 見習いの示す門の前に椿の姿は無く、椿の使用していた端末のみが残されていた。




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