手を繋げる幸せ






 障子戸の隙間から差し込む光で目が覚めた。入った覚えのない布団に寝かされている。
 自分は今、どういう状況なのだろう。状況を確認しようとして身を起こすと、首筋に鈍い痛みを覚える。
 そうだ、自分は―――。


(折られるもんやと、思ってたんになぁ……)


 自分―――明石国行は昨夜、負傷したまま顕現が解けた自分を助けた審神者に、刀を向けたのだ。戦場へ出るための門を開かせるために。


(気絶させられただけやったんやな……)


 ブラック本丸と称される劣悪な環境から救い出し、なおかつ手入れまでしてくれた審神者に、だ。
 恩を仇で返すような行為。行かれる刀剣達に折られても仕方ないと、意識を失い直前まで思っていたのだ。
 それがまさか、もう一度目を覚ますことになろうとは。

 自分の身に危険が迫っているにもかかわらず、少しでも傷が治るように、少しでも憂いが晴れるようにと、情を掛けられ、念を込められた。返せないことをもどかしく思ってしまうくらい、大切に、優しく。
 そんな風に自分を案じてくれた相手を、傷つけようとは少しも思わなかった。
 けれど、刃を向けたのは確かで、脅しをかけようとしたのもまた事実。
 もう目を覚ますことなどできないと、そう思っていたのに。


(何やの、これ……)


 柔らかい布団に丁寧に寝かされて、寝間着らしい浴衣に着替えさせられている。自分の着ていた服は枕元に綺麗に畳まれた状態で置かれている。
 これがこの本丸の主に刀を向けた自分への待遇かと、いっそ戦慄を覚えるくらい、丁重な扱いだった。
 しかも、本体も装束の隣にきちんと添えられている。いよいよもって、恐怖しか感じない。


(とりあえず、着替えだけでも済ませておかな……)


 処分が下されるのは今からかもしれない。
 けれど、自分は死ぬわけにはいかないのだ。
 着替えて、そのままにしておくのは忍びなくて、浴衣と布団はたたんでおく。
 辺りに気配がないのを確かめて、するりと縁側に出た。
 障子戸の向こう側は、美しい庭が広がっていた。
 日はすでに高くなっており、そこでようやく自分が思いのほか、深く寝入っていたことに気づく。そして、あまりにもこの本丸に人の気配がないことにも。


(自分、こない偵察下手やっけ……?)


 ほとんどの刀が自分より気配を消すのに長けた者たちであったが、ここまで完璧に気配を悟らせないことなどできるのだろうか。まるでこの本丸に誰もいないのではないかと錯覚させるほど、完璧に。


(顕現が解けてる間に、鈍ってもたんやろか……)


 こら、あかん、とうなだれた時、一つの気配がこちらに近づいてくるのに気付いた。刀剣男士のものではない。人間の、審神者のものだ。


(昨日の今日でよう近づいて来れるわ……)


 自分が起きていることに気付いていないのか、刀剣を連れているから安心しているのか。どちらにせよ、自分と接触する気があるならば好都合。隙を見て、人質にでも取ってしまえばこちらのものだ。
 気配がすぐそばまで迫っている。足音が聞こえるほど近くに来たのを見計らって、ゆっくりと振り向く。
 審神者は手の届く距離まで歩み寄ってきた。


「おはよう、明石国行」


 もう昼前だけどね。
 審神者は朗らかに笑っていた。刀剣男士の一人もつけず、昨日のことなど何もなかったかのように、平然と。
 隙を窺っていたはずなのに、その無防備さに物騒な考えが飛散する。―――自分、刀向けたと思うんやけど?


「昨日はお腹がすいていないようだったけど、今日はどうだ? 天ぷらでも揚げようかと思っているんだが」


 昨日の出来事は白昼夢やったんやろか。
 思わず遠くを見つめる。
 刀剣男士もついておらず、脅しを掛けるならば絶好の機会であるのに毒気が抜かれた。
 返事もせずに宙を見ている自分を不思議に思ったのか、審神者が首をかしげる。堂々とした立ち振る舞いをしている印象があったが、ふとした仕草は何だか幼い。相当若い審神者なのだろう。だったらもっと自分を恐れてもいいだろうに。


「なぁ、審神者さん」
「うん?」
「昨日、刀向けたと思うんですけど、何でそんな普通なん?」
「君に私を殺す気がなかったからだが?」


 あっけらかんと言い放った審神者に、思わず口を開けて呆けてしまったのは仕方がないことだろう。
 確かに殺す気なんてなかった。もともと自分は、前の本丸でも人間を憎んでなどいなかった。まったくないと言ったら嘘になるが、審神者を憎んでいる暇があったら、為したいことがあった。
 出陣して、彼らを見つけてやりたかったのだ。同じ来派の刀剣達を。


「とりあえず、顔を洗ってくるといい。すっきりすると思うよ」
「……そうさせてもらいますわ」
「場所は分かるか?」
「昨日教えてもらいましたんで、平気ですよ」


 なら安心だ。私は離れにいるから。
 そう言って、審神者は離れに向かう。それを見届けて、自分も洗面所へと足を向ける。
 本丸の見取り図は昨日案内してもらったので、大体は覚えている。
 洗面所で顔を洗って、離れへと向かう。
 ここまで誰ひとりとしてすれ違うことがなく、この本丸には自分と審神者しかいないような錯覚を受ける。そんなことあるはずもないのに。


(さすがにそれはあり得へんやろ)


 足を止めて、ゆるく頭を振る。
 ―――誰もいないなんて、そんなまさか。
 けれど、嫌な考えは払えない。


(やって、自分、刀向けたんやで?)


 そんな自分と大切な主を、二人きりにするなんて、そんなこと。
 けれど、ありえない、と言いきれないのだ。そのくらい、刀剣達の気配を感じない。本当に、これっぽっちも。


「嘘やろ……?」


 思わずもれた呟きがむなしく響く。
 まさか、本当に?


「おーい、」


 いつ斬りかかるか分からない危険な刀と、二人きりに?
 まさか、そんな愚行を、怠慢を、彼らが許容したのだろうか。


「明石国行、」


 怒りを通り越して、もはや呆然とするほかない。

 刀剣男士にとって、主とは守るべきものだ。彼女の様な、手入れ一つで返せないことが嫌になるくらい、めまいがしそうなほどの喜びを感じさせることのできる人を、守りたいと思わないわけがない。
 なのに、何故―――。


「明石国行!」
「うおおおおっ!!?」


 すぐそばで聞こえた鋭い声に、口から情けない悲鳴が漏れる。大袈裟に跳ねた体は体勢を崩し、盛大に尻もちをつく。漠々とうるさい心臓を押さえつつ声のした方を向けば、そこにはぽかんと呆けたように口を開けた審神者がいた。


「ずいぶん時間がかかっているようだったから迷ったのかと思って見に来たんだ。驚かせてすまなかった」


 審神者が苦笑する。
 少し立ち止まっていただけだと思っていたが、思ったよりも深く考え込んでいたらしい。


(こんな近くに来てたんに、気付かんかったとか……)


 やはり鈍るっているのだろう。顕現が解け、負傷したまま、朦朧とする意識の中をたゆたっていたから。
 早く勘を取り戻さなければ。一刻も早く彼らを迎えるために。


「立てるか?」


 審神者が手を差し出す。
 その光景を見て、息がとまった。










『来るの遅いよ、国行』
『俺たちの保護者を自称するなら、もっと早く来いよな!』


 パキパキ、パキン、
 刀身から洩れる悲鳴は、今でも耳に残っている。
 差し出された手を握ろうとして伸ばした手は空を切った。


『会いたかった、国行』


 空を切った虚しさも、床に落ちた軽い音を聞いた絶望も、全部全部覚えている。










 手を伸ばしてはいけない。きっとこの人も、音を立てて崩れてしまう。


「おい?」


 審神者が首をかしげる。
 自分の様子が先ほどと違うことに気付いて、審神者が膝をつく。


「どうした?」


 声音は酷く優しい。悪いことではないのだと、いい聞かせるような。
 声も態度も、落ち着いたものだった。慣れを感じさせるほどに。
 上手く呼吸が出来ない自分を気遣って、背中を撫でようとしたのだろう。
 けれど、手を伸ばしてから自分の様子がおかしくなったことに気づいたのか、その手が自分に触れることはなかった。


「触れられるのが怖い?」


 違う。自分は触れたかったのだ。差し出された手を握りたかった。


「触れられないのが怖い?」


 だから今度は、自分が手を伸ばして、その手を握ってほしかった。空を切った虚しさも、床に落ちた軽い音を聞いた絶望も、もう二度と味わいたくないから。その悲しみを彼らに知ってほしくなかったから。


「差し出された手を握れなかった?」


 ぎゅう、と喉を絞めつけられた気がした。より一層、呼吸が可笑しくなる。
 そうだ。自分は握れなかったのだ。自分が彼らのもとに行くのが遅かったから。彼らはずっと自分を探して、ずっと自分を待っていたのに。
 だから一刻も早く彼らを見つけ出さなければならないのだ。少しでも早くその手を握ってあげるために。
 刀を引き抜いて、ぴたりと首筋に当てる。少しでも動かせば、首がすっぱりと切れるだろう。それでも彼女は動じなかった。


「門を、開けぇ……!」


 息も絶え絶えに声を吐き出す。
 審神者は首に当てられた刃には目もくれず、じっとこちらを見つめていた。


「はよ、迎えに行ったらなあかんのや……っ!」


 パキパキ、パキン、
 刀身から洩れる悲鳴は、今でも耳に残っている。
 差し出された手を握ろうとして伸ばした手は空を切った。
 空を切った虚しさも、床に落ちた軽い音を聞いた絶望も、全部全部覚えている。
 もっと早く自分が彼らのもとに行けれいたなら、彼らの手を取ることが出来たのに。彼らが折れることはなかったろうに。


『最期に国行に会いたかったんだ』


 満面の笑みで、あんなに悲しいことを言わせずに済んだのに。


「とびっきりの笑顔で、今度こそ……!」


 だから、だから、だから―――!


「その顔で?」


 不思議そうに、審神者が目を瞬かせる。


「伸ばされた手も握れないのに?」


 残酷なまでに幼い表情で、審神者が問う。こちらが息を詰めるのにもお構いなしで。


「君は昨日から、一度もきちんと笑えていないよ?」


 全身から力が抜けたのが分かった。自分では笑えていたつもりだったのに。笑えていなかったなんて。


「……そんなに、酷かったです……?」
「そんな顔で来られたら、心配でどうにかなりそうだ」


 そんなに酷いんか。容赦ないなぁ。
 かしゃり、と刀が床に落ちる。
 そんなに酷い顔をしていたのか。一刻も早く迎えに行きたかったのに。


「人が真っ先に捨ててしまう物って、何だと思う?」
「え……?」
「笑顔だよ」


 審神者が落ちた刀を拾い上げ、自分の手から鞘を引き抜く。酷く慣れた手つきで刀を収め、自分に返してくる。何となくそれを素直に受け取って、審神者の顔を見た。


「笑うって、すごく力がいるんだ。だから人は疲れてしまったり、深い悲しみにくれた時、真っ先に捨ててしまうんだ。君は今、まさに笑顔を捨ててしまった状態にある。だから笑えない」
「どうやったら、笑えるん……?」


 あの二人を迎えるとき、必ず笑顔で、と決めているのだ。あのときに二人に負けないような、百点満点の笑顔で、と。


「人はどういったときに笑うと思う?」
「……嬉しい時、やろか……」
「そうだ。嬉しい時、楽しい時、―――幸せだと感じるときに笑うんだ。だから君は、笑うために幸せにならなくちゃいけない」


 背筋に冷たいものが走る。
 自分が幸せになっていいわけがない。
 だって自分は間に合わなかったのだ。保護者を自称する身で、守ることも出来なくて、”最期に会えてよかった”だなんて悲しいことを言わせてしまって。
 そんな自分に幸せになる資格などあるわけがない。自分が幸せにしなければならないのだ。


「幸せになる資格がないだなんて思っているなら、それは筋違いだ。君が迎えに行きたい相手が、君の不幸を望んでいるなら別だけどな」
「っ!! そんなわけ……っ!」
「ないんだろう?」


 断言されて、口ごもる。
 審神者はこちらの状態などお構いなしに続けた。


「前にある刀に言われたんだ。自分を愛せない者に、他人を愛せるわけがない、と。それと同じで、自分が幸せでない者に、他人に幸せを教えることなんてできない。今の君では、笑顔で出迎えることも、相手を笑顔にすることも出来ないよ」


 どこまでも強い瞳で言われて、呆然とした。
 自分は笑いということを知らない。笑うことを覚える前に捨ててしまったから。
 自分は幸せを知らない。何をしていても、いつだって焦燥と絶望が付きまとっていたから。
 だから、審神者の言葉は、自分の胸に深く突き刺さった。


「まずはご飯を食べよう。満たされていると感じたら、自然と余裕も出てくるものさ。そうしたら見落としているかもしれない幸せを、見つけられるかもしれないよ」


 そう言って笑った審神者の顔は優しくて、自分もこんな笑顔で彼らを迎えたいと、強く思った。




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