尊いものたち






 美しい草花が咲き乱れる門前に、ぼく達はいた。
 門は、この本丸に顕現しているどの刀剣男士でも見上げなければならないほど大きくて立派だ。短刀のぼく――今剣では首をそらさなければ、その全貌を見ることはできない。
 久しく開かれていなかったその門が今日、ようやく開かれる。手違いでブラック本丸に飛ばされてしまったあねさまが、ようやっとここに帰還することになったのだ。ブラック本丸で出会ったという、新しい仲間を連れて。
 新しく仲間になる刀は、三日月宗近に岩融、明石国行の三振りだ。
 身内の刀がいて嬉しいことには嬉しいけれど、会うのは少しだけ怖い。
 嬉しいという感情が表面だけの薄っぺらい物なんじゃないないか。あの本丸で育ってしまった黒い感情が吹き出してしまうんじゃないか。仮にぼくが受け入れられたとしても、国広や国永が受け入れられないんじゃないか。


(どうして、いつまでもつきまとうのだろう)


 この言い知れぬ不安は、きっとあの男の残した負の遺産だ。
 本来ならば喜ばしいことのはずなのだ。旧知の刀や、初めて間見える刀と出会うのは。なのにあの男の影がいつまでたっても付きまとうから。嬉しいことなのに、どうしようもなく拒絶してしまいそうな自分が怖い。


(なんてものをのこしてくれたんだ……!)


 あの男の影は、いつまで追ってくるのだろう。僕らはもうあの男から解放されて、あねさまの刀となったのに。


(ぼくがきょぜつしてしまって、かれらをきずつけてしまったらどうしよう……)


 嬉しいことを素直に喜べないなんて。本当は会いたくてたまらないのに、それを表せないだなんて。むしろ心とは真逆のことをしてしまいそうな自分がいるだなんて。
 ただでさえ傷ついているだろう彼らを、これ以上傷つけたくなんてないのに。拒絶なんてしたくないのに。


(そんなのいやだ……!)


 じわりと視界が滲む。歯をくいしばって耐えようとしなければ今にもこぼれてしまいそうなほど、目に水がたまる。
 笑顔で迎えよう、と仲間たちと約束したのだ。”信じて待て”という主命にこたえるために。それすらも破ってしまいそうな自分が、情けなくてたまらない。


「今剣」


 耳触りのいい声が降り注ぎ、柔らかく肩に手を置かれる。
 衣擦れの音がして、ぼくの隣に立つ影が見えた。
 少年とも青年ともつかない幼さを多分に残した顔立ち男―――山姥切国広だ。


「大丈夫、」


 優しくて、だけど力強い声だった。
 思わず顔を上げると、彼は風にあおられてめくれた布をそのままに、その美貌を惜しげもなくさらしてぼくに笑いかけていた。


「大丈夫だから、そんな顔をするな」


 その柔らかい言い方は、あねさまを思わせるものがあった。温かくて、包む込むような優しさをにじませた声は、そこで眠ってしまいたくなるような安心感がある。
 きっと、ぼくが俯いているのを見て、何かを悟ったのだろう。彼の方が辛いであろうに、こうしてぼくを気に掛けてくれる国広に、涙が溢れそうになる。
 彼は、ずっと比較され続けていた。写しに刀としての価値はないと。本科山姥切や天下五剣の様な由緒正しき刀こそが、心の刀であるのだと。
 そんな風にさげすまれてきたのだ、彼は。彼が最も疎んでいる、比較という行為を持ってして。
 そして今日、その比較に用いられてきたうちの一振りが、目の前に現れる。こんなに辛いことはない。
 なのにどうして、彼は笑みを浮かべられているのだろう。


「どうして……わらっていられるのですか……?」


 肩に置かれた手は、いつの間にか背中を撫でている。その手つきはやっぱり優しくて、あまりにも柔らかいから、じわりじわりと滲む涙が止められない。


「つらくは、ないのですか……?」


 希少価値の高い刀のために溶かされた刀を一番多く見てきたのは彼で、そんな刀達を手に入れるために戦場に送られ、数の減った部隊をより多く見てきたのも彼だ。
 三日月達が悪いわけでは、決してない。まして、そうなりたくてなったわけでも。
 人が勝手にぼくたちを評価して、刀剣男士に価値をつけたから、人がそれに目がくらんだのだ。ただ一振りの刀剣としてぼくらを見てくれなくなったのだ。
 けれど、そうと分かっていても、彼らの存在を憎んでもおかしくはないほど、彼は苦しめられてきた。せめて彼だけでも助けたいと、あの本丸にいた誰もが願うほどに。
 なのに。
 なのにどうして、彼はこんなにも優しく、強く在れるのだろう。


「辛くない、何も感じないと言ったら、それは嘘になる。けれど、彼らを怨むのは、筋違いだと思うんだ」


 だって彼らは、何も悪くない。
 真っ直ぐにぼくの目を見つめる翡翠の瞳は、どこまでも澄んでいた。負の感情が一滴でも混ざったら、こんな色にはならないだろうと、そう思わせるほど、吸い込まれそうな美しい色をしている。


「それに、姐さんがいい刀だと褒めて、小夜が同士だと認めたんだ。彼らを認めるのに、これ以上の理由がいるか?」


 そう言って笑みを浮かべる国広は、酷く眩しかった。
 地獄を見てなお立ちあがり、明るい方へ手を伸ばす。
 正しい方へ、在りたい方へ歩いてく。
 絶望の底を見て、そんなふうに在れる存在が、果してこの世にいくつ在るのだろう。


「国広は、とうといですね」
「とうとい?」
「はい。とうといです」


 絶望の淵で、死を願ったことすらあった。けれど彼はそこから這い上がり、ぼくらの生を乞い、ぼくらをここまで引き上げた。
 そして、そんな彼すらも救ってくれたのがあねさまだ。
 彼には、あねさまと共に、感謝してもし切れない恩がある。
 そんな彼は、仲間が認めたというだけで、受け入れるのだ。長く苛まれてきた事柄すらも。
 こんなにも強く気高い存在を、”尊い”以外のどんな言葉で表せばいいのだろう。その全幅の信頼を向けることのできる純粋で美しい心を、他に、どんな言葉で。


「俺は、全部尊いと思う」


 国広がより一層笑みを深めた。


「こうしてお前たちが生きて傍にいることも、新しい仲間を得られることも。姐さんが無事、この本丸に帰ってくることも」


 全部全部、尊い。


「ほら、」


 ぎいぃ、と重苦しい音を立てて門が開かれる。そこから現れたのはあねさまと小夜くんと、新しい仲間達。
 それぞれの顔を見て、涙が溢れた。
 杞憂だった。何もかも。拒絶なんかできるわけがない。だってずっと会いたかったのだ。ずっとずっと、待っていたのだ。
 彼らが来ても、何の問題もなく迎えられる環境になったのだ。来てほしいという考えが浮かばないはずがなかった。
 そしてようやく、彼らを迎えることが出来たのだ。嬉しくないわけがない。彼らを疎む心なんて、彼らと出会えた喜びに比べればちっぽけで、本当に些細なものだった。
 嬉しい、嬉しい、嬉しい!
 顔は涙でぐちゃぐちゃなのに、笑みをかたどらずにはいられない。


「大丈夫だったろう?」


 長く存在するからか、お前は少し考えすぎるんだ。
 そう言って国広が優しく髪を撫でる。
 そして彼は、あねさまたちに駆け寄る満面の笑みを浮かべた仲間達を見て、眩しいものを見るように目を細めた。
 彼の唇が”とうとい”と動いたのが分かった。それを見て、彼の視線の先を辿った。
 代わる代わるあねさまと小夜を抱きしめる仲間達。
 三日月達に歓迎の言葉を告げる声。
 涙を浮かべながらも笑みをかたどる幸せそうな顔。
 なんて美しい光景なのだろう。
 これもすべて、国広が引きあげて、あねさまが救ってくれたから、得られたものだ。
 ぼくたちのうち、一振りでもかけていたら得られなかったであろう、かけがえのないもの。
 尊い、と改めて思った。失われてはいけないものだと、純粋に。
 これを守るために、ぼくは在る。引いては、それを与えてくれたあねさまに恩を返すために。
 じっと、あねさまを見つめる。彼女はぼくの視線に気づいたのか、笑みを浮かべて、ぼくを手招いた。


「今剣」


 おいで、と唇が動くのが分かって、ぼくは駆けだした。
 両手を広げて待つあねさまの胸に飛び込んで、あねさまの首に縋りついた。


「ただいま、今剣」
「おかえりなさい、あねさま……っ!」


 ぎゅう、と抱きしめると、同じだけ、ぎゅうと力が込められる。
 温かくて優しくて、どうしようもなく幸せで、いっそ泣きたいくらいに満たされる。やっぱりぼくの主はこの人しかいないと、改めて思うくらいに。


「心配を掛けて本当にすまなかった」
「あねさまがぶじなら、それでいいんです。ちゃんとかえってきてくださって、うれしいです……」


 ほんの数日離れていただけなのに、あねさまのぬくもりが酷く懐かしい。
 ずっと心配だった。離れる前に見たあねさまはどこかおかしかったから。
 けれど今のあねさまは、いつもと変わらず、強く凛々しい。ぼくの不安など杞憂だとでも言うような、気高い姿勢でぼくを見ていた。


「それから、」


 あねさまが真剣な表情でぼくを見つめる。その目はいつもの様に力強く輝いていて、目が離せない。


「君を手放してしまって、すまなかった」


 どくり。心臓が跳ねた。


「私は、弱い私を見せたくなくて、君に助けを求められなかったんだ。それがどれほど君を傷付けるのかも知らずに」


 泣かせてしまってすまない。
 そう言ってあねさまは深く頭を下げた。
 それから、今度はぼくだけでなく、全員を見回して宣言した。


「不甲斐ない主ですまない。私はもう悩まないなんて言えるほど強い人間ではない。私は何度だって悩むし、その結果君達を不安にさせてしまったり、傷付けてしまうこともあると思う。本当に情けない主だ……」


 そう言って目を伏せたあねさまはどこか悲しげで、儚げで、消えてしまいそうに見えた。声を掛けるのもはばかられるほどに。


「全部話して、君たちに助けを求めればよかった物を、一人で抱え込んで、君達を傷付けて、何が主だ。私は馬鹿だ」


 儚さを感じたのは一瞬だった。次の瞬間にはあねさまは凄まじく怒っていた。自分に対して、酷く憤っていた。


「情けなくて不甲斐なくて愚かで、どうしようもない人間だ。誇れるところなど何一つない、恥ずかしいばかりの人間だ。けれど、そんな私をこれからも主と呼んでくれるなら」


 伏せていた目を開く。彼女の目は太陽のごとく輝いていた。燃え盛る炎のような力強さを持って。


「私は君たちの信頼に報いる努力を惜しまない。私がこの生を終えるまで君たちの主でいたから。だからそのために、これからも私に力を貸してくれ」


 ぼくたちに向かって、手が伸ばされる。この手を取れ、というように。


「あねさま……」
「何だ?」
「もう、てばなしたりしませんか?」
「ああ。私がどんなに醜態をさらすことになっても、絶対に。だって君たちは私がどんなに至らない人間でも、君たちは私を見捨てたりしないって、小夜がちゃんと教えてくれたから」


 思わず小夜くんを見る。彼は酷く幸せそうにあねさまを見て微笑んでいた。


「君たちには主らしい姿だけを見せていたかった。けれど隠し事をして嫌われるくらいなら、全部さらして笑われた方がずっといい。格好がつかないけれど、なりふり構っていられないんだ。私は君たちの主で居るためなら何だってするし、何だってしたい。それだけ、君たちが大好きなんだ!」


 大好きなんだ、と叫んだ声は、どこか震えていた。あるいはかすれていた。
 けれど、喉から絞り出すようなそれは震えている分だけ、かすれている分だけ、必死さが伝わってきた。
 彼女は本当に、ぼくたちが大好きなのだ。


(ああ、だからぼくはてばなされたのか)


 彼女はぼくたちが大好きだから、隠したかったのだ。揺らいでいるぼくたちを不安にしたくなくて。


(ほんとうはくるしいのに、ぼくたちをおもって……)


 それは嬉しいけれど、酷く悲しいことだ。傷ついているのに、僕たちに傷ついてほしくないから、隠されているのだ。
 けれどあねさまは、全て晒すと言ってくれた。弱い自分も、情けないところも。今まで必死になって取り繕っていた部分も、全部見せてくれるというのだ。
 それはきっと、あねさまにとってすごく勇気のいることなのでないだろうか。それをしてくれるということは、凄く、酷く信頼を寄せてくれているということなのでは。
 じわじわと頬が熱くなる。気付いたのはぼくだけでなく、本丸の全員だ。誰も彼もが、頬を上気させ、目を輝かせてあねさまを見ていた。


「こんな私の刀でいてくれるなら、この手を取ってくれ!」
『もちろんだ!!!』


 腹の底から吐き出された声は本丸を揺らした。全員が一斉にあねさまの手を取ろうとしたから、あねさまは埋もれてしまったけれど、その中心で、あねさまは嬉しそうに笑っていた。
 温かくて優しくて、尊いこの景色。何よりも大切で、かけがえのないものたち。これがきっと、僕たちの求めた本丸の姿だ。


「今剣」


 いつの間にかそばにいた三日月と岩融が眩しいものを見るように、ぼくらやあねさまを見ていた。


「ここはいいところだな」
「はい。たいせつなあるじとじまんのなかまのいる、ぼくのしあわせそのものです」


 二振りが目を見開く。けれどこの光景を見て、深く納得したらしい。彼らは目を細めてこの本丸を見つめた。


「あなたたちふたふりも、きょうからこのほんまるのいちいんです。ぼくのじまんのなかまになるのですよ」


 どうだ、うれしいでしょう!
 えっへん!と胸を張ると、二振りは細めていた瞳から、美しい涙を流した。
 嬉しい、と震える唇が動く。
 そして二振りはぼくと仲間達ごと強く強くあねさまを抱きしめた。



 温かくて優しくて、尊いこの景色。
 何よりも大切で、かけがえのないものたち。
 守るためにぼくは在る。
 この尊いものたちを守るためにぼくは在るのだ。




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