【ゲートの】ブラック本丸に迷い込んでしまったんだが【故障?】 4
襖の向こう。刀剣達が一同に会していたであろう大きな広間は、見るも無残に荒れ果てていた。
手入れを諦めてしまった室内は、まだ真新しい埃と煤で汚れ、破れた障子戸からは濁った空気が入り込んでくる。
広間は昼間であるはずなのに薄暗い。日光でもあればまだよかったであろうに。
(そんなことより、)
椿は襖を閉め、広間の奥へと目を向けた。その奥には、こちらに背を向けて座る人―――否、刀がいた。
「三日月宗近、だったかな?」
青い着物に瞳の三日月が美しいと評される刀剣男士。その刀身は斬って傷つけるのを惜しむほどだという。そのため不殺の刀という謂れもある。
その刀身を写した人の身は、美しい刀剣の中でも一等美しく”月狂い”と呼ばれるほど、彼に溺れた審神者もいるのだとか。
それを教えてくれた刀剣達は、彼らの前任がその手の類であったから、酷く顔を歪ませていたことを覚えている。特に国永は酷い顔をしていたな、と過去の出来事に想いを馳せる。
(確かに美しい刀だ。でも、それだけなんだよな)
刀剣達の言う通り、彼は美しかった。
けれど、それ以上の言葉が出てこない。美し過ぎて言葉にできないのではなく、関心が湧かない類の美しさだからだ。
彼を見て、かつて演練場で対峙した三日月を思い出した。彼も美しかったけれど、やはり心揺さぶられる美しさではなかったな、と。
(アレを知ってしまったから、というのもあるかもしれないが)
生きたいと叫んだ魂の強さを、純然たる鋼の美しさを知ってしまったから。心を揺さぶられ、魂にその尊い美を刻みつけられてしまったから。それに勝るとも劣らぬものでないと、美しいとは思えないのかもしれない。
演練場で出会った、諦めて下を向く刀剣達は、本来の彼らの持つ美しさとは程遠くて、理不尽にも怒りを覚えたものだ。本当は強いのだから、美しいのだから、前を向け、と。それを口にしてくれたのは、国広であったけれど。
(この本丸の刀剣は、演練場の彼らとは少し違う)
この本丸の刀剣達は、かつての小夜達に似ているのだ。人を恐れ、人のために在りたいと思えないことに絶望して、死にたいとすら願った、彼らに。
目の前の彼もまた、人を恐れる自分に嫌気がさしているように見える。
(彼はまだ、人が好きだから)
うっすらと微笑みを浮かべた時、三日月が畳に拳を突き、ぐるりと向きを変えた。こちらと面と向かった三日月は、冷ややかな色を乗せた瞳を椿に向けた。
「まさか一人で来るとはな」
「公平でないからな。それに、一対一の方が話しやすいだろう?」
「話?」
「ああ。君に聞きたいことがあるんだ」
広間に入って、数歩進んで腰を下ろす。
身長が似通っているからか、視線はほぼ変わらない。椿の方がほんの少し低い程度だ。少し距離は離れているが、相手の顔がよく見える。
三日月は訝しげに眉を寄せていた。
「君たちは本当に、私を斬る気があったのか?」
三日月がわずかに瞳を揺らす。青い色と相まって、水面の月のようだった。それがこの環境のせいで汚されていなければ、思わずため息をつく美しさだったろうに。
どうして審神者は、刀の持てる美しさを汚すような真似をするのだろう。それがどんなに愚かなことか、どうしてだれも気づかないのだろう。美しさを損なわせることに、何の意味があるのだろう。
そんな風に感傷に浸りながら月を眺めていると、水面がわずかに細められ、月の形が変わったように見えた。
「当り前だろう? 俺たちは斬る気のないものに刀を向けるほど、野蛮であるつもりはない」
「では何故、本気で斬りかかってこなかった?」
間髪いれずに問いかけると、三日月は眼を見開いた。
「私は自分の刀剣男士と組み手や剣術の鍛錬に励んでいるんだ。その時に彼らは、時折殺気を向けてくる。殺気とはこういうものだと教えてくれるんだ」
三日月の向けてくる気配は、それとよく似ている。
殺気は確かに怖いけれど、逃げ出したくなるけれど、自分のためを思って向けられたそれは、どこか温かくもある。
自分に傷ついてほしくないから、危険な目に遭って欲しくないから、わざと向けてくる。
そんな風にして、不器用にも自分を守ろうとする存在が、愛しくないわけがないのだ。
「君は私の刀によく似ている」
椿の顔に、笑みが浮かぶ。愛しいのだと、愛しているのだと、その目が、その心が言っている。
その瞳が、その気持ちが、わずかながらも自分に向けられて、三日月は酷く動揺した。
「君は私を怖がっているように見える。人に傷つけられるのを恐れ、人を傷付けることに怯えている。私にはそう感じられた」
だから驚きはしたけれど、怖いとは一度も思わなかったんだ。
椿は、優しげな色をにじませて、さらに笑みを深くした。
そしてその顔のまま、椿はゆったりとした動作で距離を詰めた。今から君に触れると、そう言外に伝える様な動きで。
これは知っている者の動きだ、と三日月は瞠目した。
大切な者から付けられた傷は、自分が思っているよりも深くて、ただ誰かに触れられるだけなのに、酷く恐ろしいことをされる様な気がする。敵意なんて微塵もない相手なのに、それでも恐ろしいのだ。その手が突然、自分を傷付けるのではないかと、そう思ってしまって。
けれどこの人間の手は違うと、そう思わせる何かがある。
そっとそっと、まるで今にも割れてしまい様なガラスにでも触れるように優しく。どこまでも優しく、慈しむように手を伸ばされた。
怖くないから、傷つけたりしないから、怯えなくていい。言外にそう伝えるような繊細な動作で、椿は三日月の頬を両手で包んだ。
(この人間は、今までの人間とは違う)
実はこの本丸は、何度か主だった審神者以外の人間が入ってきたことがある。加州が霊力の残留だけで、新しい審神者だと判断できたのも、そのためである。小夜を連れていたことに驚いたのも、同様の理由だ。新しくこの本丸に据え置かれることとなった審神者が、刀剣を連れてきたことなどなかったから。
今まで新しい審神者だと政府に連れてこられた人間は、確かにいい人間も大勢いた。
けれど、自分達のことを考えてくれる人間はあまりいなかった。
ブラック本丸の刀剣は、世間では攻撃的で、人間に害をなす存在として見られることが多い。そのため自分達を恐れ、引きこもってしまった審神者もいれば、自分達を悪と決め付けて、説教を垂れる審神者もいた。
ブラック本丸の刀剣を改心させる自分、というものに酔ってしまった審神者もいた。
手入れをしよう、と自分達の恐れに気づかず、無遠慮に触れてきたものもいた。
それらが恐ろしくて、悲しくて、人を嫌いになってしまいそうで、結局は刀を向ける形となってしまった。これ以上傷つけられたら、もう二度と人を愛せなくなってしまいそうで、怖かったから。
「私はそんなに怖い人間に見えるかな」
眉を下げ、困ったように笑う椿に、三日月は眼を伏せた。
彼女は刀剣に理解の深い人間なのだろう。人のために在りたいと思うのは刀の性だ。人を斬るための道具であるけれど、それは敵と呼ばれるたぐいの人間であって、害をなそうと考えていない人間を傷付けるのは怖い。付喪神となって、心を得てしまったから。
彼女はそれを、正しく理解している。
敵意を向けられたら斬らねばならないから。だから彼女は一人で来たのだ。主を守ろうとする刀剣の意志は、今の三日月には敵意でしかないから。
(何故俺は、こんなにも丁寧に、大切に扱われているのだろう)
刀を、敵意を向けたはずなのに。身を守るための存在を置いて、その身一つで対峙して。
恐れるべきなのは、彼女の方なのに。
(これだから、人は嫌いになれないのだ)
刀は人によって作られたもので、付喪神は人の想いによって生まれたものだ。人なくして刀は在らず。想いなくして心は生まれず。人と刀は、決して切り離せないものなのだ。
物言わぬ刀であった頃はただ眺めるだけだった人の営みも、心を持った今なら分かる。大切にされていたのだと、愛されていたのだと。だからどうしたって、人を嫌うことなど出来ないのだ。憎めたら、嫌えたら楽なのに。
(それでも俺は、人が好きだ。人を愛せなくなるのを、恐れるくらいに)
目の奥が熱い。視界がぼやけて、呼吸が早くなって、うまく息が吸えない。止めようとするのに、優しく目尻を撫でられて、込み上げる物が止まらない。
「人の心を持った、今の君なら分かるはずだ」
人はとても脆い。何気ない言葉で、さりげない仕草で簡単に傷がつく。自分が傷つきたくないから、相手を傷付けるときもある。
人はどう頑張ったって、間違えてしまう生き物なのだ。正しい答えなんて、誰も分からないから。だから人は、人を傷付けてしまうのだろう。
けれど傷というのは手当てをすれば痛みを和らげることも、塞ぐことも出来る。
傷つき、癒して、また傷を負う。それを繰り返して生きていくのが人の営みというもので、辛くても苦しくても悲しくても、それでも立ち上がれるのが人なのだ。弱くて愚かで無様で、けれどそれ以上に強く美しいのが人なのだ。
そんなことは、人間よりもずっと長く人を見続けてきた刀剣達の方が、よく分かっているのではないだろうか。
「絶対なんてないんだ。嫌いになっても、また愛せる。永遠なんてないんだ。また好きになれる。それを、諦めさえしなければ」
人と同じ心を持った刀剣男士なら、同じく立ち上がることが出来るはずなのだ。諦めさえしなければ。愛することを、やめさえしなければ。
負った傷は深い。時間はかかるかもしれない。
けれど彼らは諦めていないのだ。人を愛することを。人のために在ることを。
だったら、這いあがれるはずなのだ。今の彼らは、物言わぬ鋼ではないのだから。刀剣男士なのだから。
「諦めるな。人を好きでいたいなら、人が好きでよかったと、心から思えるような人間に出会うまで」
椿の言葉に、三日月が椿の手に自分の手を重ねる。存外大きくて温かい手だ。ぬくもりを分けてくれる、”人”の手だ。
「出会えるだろうか、そんな人間に」
「出会えるさ。私も、出会えてよかったと思える奴らに出会えたから。だから君にも、君の想いに答えてくれる人間が必ず現れる。だって君は、こんなにも人を愛しているのだから」
椿の満面の笑みに、三日月もつられて笑った。
良い顔だ、と椿は更に口角を上げた。
「まずは手入れをしよう。そして少しずつ、心も癒していこう」
「ああ、頼む……」
ふわりと桜が舞う。審神者の霊力が切れたのか、三日月は刀に戻っていた。
かしゃり、と微かな音を立てながら、三日月が椿の膝の上に倒れてくる。
その全幅の信頼を寄せるような仕草に、椿は三日月を抱きしめた。