鐘が鳴る
それに気づいたのは、僕――小夜左文字だけだった。
今日の僕は、遠征部隊の隊長を任されていて、その片づけの途中のこと。微かな声が聞こえた。
話し声ではない。意味をなさない言葉の羅列。聞こえてきたのは離れの裏手の方だった。
訝しげに眉を寄せて、離れの裏手に回る。
仕事を途中で放り出すのはいけないことだけれど、これが侵入者だったらと思うと、胃に冷たいものを押しつけられたような感覚に陥る。
短刀の力を使って、声のする方を探る。探ってみて、ふと目を瞬かせた。
自分はこの気配を知っている。
(いまの、つるぎ……?)
今日の今剣は姐様の近侍のはずだ。
今は来客中だから離れていてもおかしくはない。お上が僕らに聞かせたくないことは山ほどあるから、今日もおそらくはその手の類の話で、退出を促されたのだろう。
けれど、姐様に何かしらがあった時にすぐに対応できるよう、隣室で待機しているのが常だ。こんな離れたところにいるのはおかしい。
気配を殺したまま、そっと裏手を覗き込む。
今剣はうずくまって小さくなっていた。
一瞬、具合でも悪いのかと肝が冷えたけど、どうやらそれは違う。押し殺したような声が、かすかに聞こえた。
――前の本丸では絶えなかった、嗚咽だ。
「今剣……?」
そっと、声をかける。今剣は僕の気配に気づいていなかったのか、びくりと肩を震わせた。
彼は恐る恐るといったふうに後ろを振り向く。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、僕の方が驚いた。
こんな顔を、この本丸で見ることになるとは思わなかった。それくらいにここは暖かい場所だから。
だから、あふれる涙を抑えきれない今剣には、驚愕した。
「さ、小夜くん……」
かすれた声で僕の名を呼び、しゃくりあげる。
慌てて駆け寄りそばにしゃがみ込む。一体いつから泣いていたのか、着物が濡れて変色していた。
「一体、何があったの……?」
尋ねると、今剣は更に大粒の涙を流した。
「きょうのあねさまは、どこかおかしかったんです」
そう言った今剣に、僕は首をかしげた。
姐様はとても不器用な人だ。不器用な刀達のそろうこの本丸の中で、一等不器用だ。本当に隠したいこと以外、包み隠さず明かしてしまう。
だから、いつもと様子が違ったら、すぐに分かるはずだ。今朝見かけたときにはそんな風に思わなかったから、僕が遠征に行っている間に何かあったのかもしれない。
「ぼくにはなにもきこえなかったんですけど、へんなおとがきこえるといったりして」
今剣が俯き、涙が地面に染み込む。
確かに変だ、と思う。
僕らの五感は、人間のそれより優れている。(太刀なんかは夜目が効かなかったりするけれど、その分力が強かったりする)姐様だけに聞こえて、僕らに聞こえないはずがない。
「すぐにもとにもどったんですけど、そのあとにおかみのつかいがきて、またおかしくなったんです」
お上の使い。政府から寄越された役人のことだ。
僕はお上やその使いに好感が持てない。前の本丸のことや姐様の扱いの悪さもあって、この本丸の刀剣達は総じて好いてはいないだろうけれど。
今の担当役人は嫌いではない。姐様を苦しませることもあるけれど、喜ばせもしてくれるから。
けれど今回の役人の訪問は、姐様を傷付ける結果となったのだろう。僕らに聞かせたくない話を聞かされた後の姐様は、憤りと深い悲しみを抱くから。
「あねさまは、つかいがきてからひどくこころをゆさぶられていました。きょうがくからかなしみへ。そしてつかのまのよろこびをえて、しついのどんぞこにつきおとされたのです」
懐に抱かれている今剣は、姐様が心に灯した感情のすべてを、直に感じ取ってしまったのだ。姐様は常に僕らの心と深い接触を求めるから、お互いの心情の揺れに敏感になっているのだろう。
「すさまじいそうしつかんでした。あしもとからくずれさってしまうような……」
真っ青な顔で、今剣が震える。
それほどの感情だったのだろう。それほどの痛みだったのだろう。
そしてそれを、姐様は心に受けた。
(何て、酷い)
姐様はただ、僕らを助けてくれただけなのに、どうしてこんなに辛い目にばかり遭うのだろう。
助けられない自分に、腹が立つ。
「”たすけて”って、あねさまのこころが、ひめいをあげていました」
今剣の言葉にハッとして顔を上げる。
けれど今剣は、更に苦しそうに顔を歪めていた。
「ぼく、すぐにたすけにいこうとしました。けれど、わからなくなったんです」
「わからなく、なった……?」
「ぼくをふところにいれていたはずなのに。ぼくがまもるっていったのに」
今剣が言わんとすることが分かった。
分かって、喉が引き攣れて、うまく息が吸えなくなった。
「ぼくは……ぼくはてばなされたんです……! ぼくではだめだったんです! ぼくでは、ちからになれなかったんです……!」
僕らは刀だ。
けれど付喪神と成って、”刀剣男士”という存在に成った。
それに付随する力の一つとして、本体に触れている者の魂に触れることが出来るようになった。
けれどそれは、触れていれば、の話。離されてしまえば、さすがの僕らでも分からない。
今剣が僕の袈裟を掴み、乱暴に揺さぶった。
「やみをかかえるぼくでは、まもれないとはんじられてしまったのでしょうか? ぼくではたすけにならないとおもわれたのでしょうか? なにかりゆうがあるならば、おしえてください……! ぼくはあねさまがだいすきなんです……!」
できることならまもりたかった。よりそってささえになりたかった。
今剣の体から力が抜け、膝をつく。今剣は、うつむいて、より一層涙を流した。
「よわみをみせられないのは、ぼくらがうらぎったとうけんだからですか……?」
姐様がどうして彼を手放したのか、僕には分からない。そうしなければならなかった何かがあったのだろうか。今までに一度もそんなことがなかっただけに、恐ろしい。
彼女は僕らを信頼してくれている。いつも懐に抱いてくれるから、よく分かる。知られて困ることなんてないとでもいうように、彼女は僕たちに心を開いてくれる。
それなのにどうして、この時ばかりは手放されたのだろう。
(怖いよ、姐様……)
あんなに近くに感じられた心が、酷く遠くに行った気がした。
―――その鐘の名は、警鐘