あいのひと






(熱い……)


 世界が赤く染まっている。


(熱い……)


 夕暮れだろうか。世界が赤く揺らめいている。


(燃えているようだ……)


 まるで炎の中にいるようだ。


(これは……、)


 見覚えのある景色に、悲鳴を上げそうになった。
 ―――炎だ。
 夕暮れなどではない。視界が赤く揺らめいているのは炎に包まれているからだ。熱いのは火の熱であぶられているからだ。
 鋼の体をなめるように這う炎に、溶かされてしまいそうなほどの高温でいぶられているからだ。
 ―――熱い。


(熱い、熱い、熱い!)


 溶かされてしまう。炎に炙られて、還ってしまう。


(誰か!)


 誰でもいい。誰でもいい。
 熱くて熱くてたまらない。
 この身を焼く炎が憎くてたまらない。


(誰でもいいから、助けてくれ……!)





 ふわり、とその場にそぐわぬ温かい風が吹く。柔らかいのに、炎をかき消すような力強さを持つ。焼かれたこの身を冷ます、優しい風だった。
 炎には容赦なく吹きつけるのに、私にはどこまでも愛情深い。包まれているような、そんな心地にさせる。


(これは、一体なんだ……?)


 正体を知りたくて手を彷徨わせる。風の吹きつける方へと手を伸ばすと、柔らかくその手を握られた。
 突然の感触に本来ならば驚くはずなのに、警戒心も恐怖心も湧かない。
 握り返す手は思ったより大きいような小さいような。少し荒れていて、少し固い。
 私はこの手を知っている。


(これは……主の手……?)


 その感触に誘われるように意識が持ち上がる。重い瞼を何とか開き、辺りを見回す。世界は黒かった。今日は月が出ているようで、漆黒とまではいかなかったけれど。


「ああ、起きたか」


 すぐそばから降ってきた声に、ぎくりと体が固まる。こんなに近くにいたのにその気配に気づけず、ぞっとした。
 慌てて声の方に顔を向ける。
 ―――主だ。
 月明かりに照らされて、主の白い頬が浮かび上がっている。
 太刀などの大きな刀種は夜目が利かないと聞いたが、月明かりがあれば、多少は違うらしい。昨夜は見えなかった主の姿が、それなりにはっきりと見える。
 月明かりを頼りに見た主は、私の本体を膝に乗せ、優しく握り込んでいた。反対の手は私の仮初の手を握っている。
 夢の中で伸ばした手は、現実でも助けを求めていたようだ。


(主が、助けてくださったのか……)


 主の霊力が私に向けて立ち上っている。主は気付いていないようだが、私を包むような霊力を送ってくれている。
 夢の中で巻き起こった突風は、これによるものだろう。無意識でありながら、常に私たちを守ろうとしているのだろうか。
 漂う霊力に向けていた視線を主に向ける。主は微笑を湛えた。


「魘されていたようだから、起こそうと思っていたんだ。大丈夫か?」


 この型は昨夜も遅い時間に置きだして、薬研を落ち着かせるのに一役買っていた。
 朝は誰よりも早い時間に置きだして厨番の手伝いをしているようだった。
 そして今日も、私の異変をいち早く察知して、こうして私の手を握ってくださっている。何故この人は、ここまで刀剣に尽くせるのだろう。


「少し、昔の夢を見ていただけですので」
「昔の夢?」
「ええ。しかし、夢は夢です。私は大丈夫ですので、主はお休みになってください」


 人は休息を必要とする。
 付喪神である自分は眠らずとも生きていけるが、人間はそうではない。それをしなければ生きてはいけない。お休みいただかなければ。
 けれど、主は更に口元を緩ませた。


「少しくらい起きていても平気さ。明日少し多く眠ればいいだけだ」


 そんなことを言って、また魘されているものがいれば、起き出して寄り添うのだろう。
 何がそこんなで主を動かすのだろう。その身を犠牲にするほどの献身は、一体何なのだろう。


「主は……何故そこまで……」
「ん?」
「何故そこまで、出来るのですか……?」


 主の目がゆっくりと見開かれる。
 失言だったかもしれない。けれど聞きたかったのだ。彼女の献身の意味を。その身を犠牲にできるだけの理由を。


「理由が必要か?」
「え……?」
「大切にしたいと思う心に、理由が必要か?」


 そう言って主が私の本体を撫でる。その顔は酷く優しくて、幸せそうで。
 親が子を愛でるような、夫婦が相手を慈しむ様な。形容しがたく、けれど酷く美しい笑みを浮かべていた。
 その笑みに、主の献身の答えが見えた気がした。
 この人はきっと、刀剣に魅せられたのだ。どうしようもなく愛してしまったのだ。それが当然であるのだと、心から信じてしまうくらいに。愛しいのだと、魂で叫ぶくらいに。


(この人はきっと、刀剣のために生き、刀剣のために死ぬだろう)


 きっと長くは生きられない人だ。その身を削って息をする人だ。
 切ないほど鮮烈な生き様が、何故だかひどく愛おしい。


「主、」
「何だ?」
「姐様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」


 心よりあなたを慕いたいのです。今までも敬愛しておりましたけれど、この本丸の習わしであなたに敬愛を示したいのです。
 貴方に寄り添い、貴方のために生きたいのです。
 握られた手を強く握りしめ、一字一句に心を乗せて主に送る。
 言葉の意味を理解した主は、愛しくてたまらないというように、その瞳をとろけさせた。


「ああ、もちろんだ。これからよろしく頼むよ、一期」


 ―――私の刀よ。
 しみわたる霊力に、この人のためならば、火に炙られるのも恐ろしくはないと、心から思った。




5/7ページ
スキ