あいのひと






 その日はものの試しで広間で眠ることにした。
 件の主は広間の一番端。他の布団の間隔より、離れて敷かれていた。
 主は良識はあるが、少し危なっかしくて少しずれているように思う。
 この本丸は常時帯刀が許されている。就寝の時も、本体をそばに置いておくことも許可されている。
 もし主の身に何かあれば、自分が動けばいいのだ、と自分に言い聞かせながら、その日は布団に入った。
 けれども眠るということがあまりよく分からず、私はただ布団で横になっていた。
 今日はあまり体を動かさなかったから、眠気が来るのが遅いだろう、とは言われていた。出陣などをして体が疲れれば、勝手に睡眠を欲するようになると。
 とりあえず今日は眼を閉じて、まぶたが重くなってきたら、それに促されるように、と言われている。それが”眠り”なのだと教えられた。
 言われるがままに目を閉じ、どのくらいの時間が過ぎただろう。長いような短いような、曖昧な時を過ごしていたとき、ふいに自分のそばで、身じろぐ音が聞こえた。そして、唸るような低い声も。
 この声は―――、


「薬研」


 不意に呼ばれた弟の名に、がばりと起き上がる。
 苦しそうに喘ぐ弟のそばには、すでに叔父の鳴狐殿が控えているようだった。


「薬研、起きて。大丈夫。それは夢だよ」
「お……じ、うえ……」


 嗚咽交じりの弱々しい声に、思わず体が硬直する。日中の、弟ながら頼もしい姿からは想像もつかないようなか細い声だった。
 今日は月のない夜で、あたりは漆黒にほど近い。夜目が利かない太刀であることが悔やまれる。弟のそばに、行けない。


「薬研」


 新たな声が落ちる。凛とした、涼しげで落ち着いた声。
 私を呼んだ、かの主だ。


「あ、ねご……」
「ああ、私だ。ほら、目を擦るな。布があるから、これで拭うんだ」
「ああ……」


 極力音を立てぬよう注意を払って、主が薬研のそばにつく。
 カチャ、という音がして、刀に触れたのだと分かった。
 何をしているのか、目を凝らしても分からない。けれど確かに感じたのは、まぎれもなく主の霊力だった。
 主は薬研に霊力を送っているのだろう。温めるように包んでいるのだろう。おそらくは無意識に。ただひたすらに優しく、安心できるように。


「薬研。安心するといい。それは過去の夢だ。これからは起きない。起こさせない。少しでも兆候が現れたら、殴ってでも止めろと主命を与えただろう? 切り捨ててくれたって構わない」
「姐御……」
「確かに主従の契約はあるけれど、それは私たちの繋がりを示すもので、足枷ではないんだ。だから安心してくれ。君達を縛るものは、何もない」


 願うように、乞うように言った主の声は、どこか切実さを孕んでいた。
 おののくような言葉であったが、何よりもその切実さに私は息を飲んだ。
 その身を差し出すような言葉を、さも平然と。けれどもそこに軽薄さなど一切なく。
 献身という言葉があるが、果たして、そんな言葉で片付けてもいいものなのか。


(何なんだ、これは……。何なんだ、この人は!)


 薬研を寝かしつけ、後を鳴狐に頼んだ主は、ゆっくりと私の方を振り返った。
 ぞっとするような心地だった。例えようもない恐怖と得体のしれない物への畏れ。それは紛れもない畏怖の念。
 そんな感情を、こんな年端もいかぬ少女に抱かされるとは。


「少し、話をしようか」


 私は一つうなずくだけの返事を返した。





 主の言葉に促され、主と私は縁側に腰を下ろした。


「顕現して初日だというのに、驚かせてばかりですまないな」
「いえ……」


 月明かりはほぼない。時折雲の隙間から、わずかばかりの月光が差し込む程度だ。
 苦笑する主の顔も、はっきり見えない。今主がどんな顔をしているのか、分からないくらいだ。


「彼らは、とてもつらい経験をしてきた刀剣達なんだ」


 主は回りくどいことをあまり好まないのだろう。単刀直入に本題に入られ、心の臓がひやりと冷える。


「また驚かせたようで悪いな。私はあまり口のまわるほうではないから、勘弁してくれ」


 そう言って苦笑する主は確かに潔くて、気持ちのいい人だ。いっそ清々しいほどにはっきりとした人で、嫌いじゃない。ただ、ほんの少し、心臓に悪く、怖い。


「彼らには私の前に主がいたんだ。平気で刀剣を傷付ける非道なやつだった」


 ひゅっと喉が可笑しな音を立てる。上手く息が吸えない。
 撤回する。この人は体に悪く、恐ろしい。


「ああして夜中に起き出してしまったり、うなされたりするのは、その審神者のもとにいた頃を悪夢として繰り返したり、いまだに現実でもその悪夢が続いているんじゃないかと恐れているからなんだ」


 あるものは辱めを受け、あるものは本質を捻じ曲げられ。あるものは失うことを恐れ、あるものは悪夢に苛まれる。
 皆それぞれ心に深く刻まれた傷があるのだ、と主は言った。


「彼らは本当は刀剣らしく在りたいんだが、その経験がもとで刀剣らしく在れないんだ。失う怖さを刻みつけられてしまっているんだよ」


 なんてことだ、と頭を抱えた。
 気付かなかった。気付けなかった。悪夢に苛まれるような過去を持っているなんて。
 彼らは猛々しさすら感じさせる主に見合う、凛々しい刀剣だった。それこそ、違和感すら持たせぬほどに。
 暗く沈む私に気づいた主が、口元を緩めた。


「気付かなかったろう? それは当然だ。彼らは乗り越えようとしている」
「乗り越える……」
「ああ。刀剣としての己を取り戻そうと必死に生きている。前を向いて歩いてる。過去と決着をつけて、未来に向かって真っすぐに」


 ふわりと主の霊力が立ち上った気がした。風に流されるように、けれどもそれが向かうのはただ一つ。背後で眠る、刀剣達のもと。


「今はまだこの調子だけど、彼らは必ず乗り越える。私はその手助けをしているんだ。乗り越えるための手助けを。その一つとして、まずは実感してもらおうと思っているんだ」
「実感、ですか……」
「彼らを包む霊力は前任のものではなく私のものであると。もう二度と理不尽に仲間を失うことはないのだと」


 全員が一つの部屋で寄り添って眠る理由を、ようやく理解出来た。これも彼女の『実感』を与えようという手助けの一つなのだ。
 前任はもういない。仲間が突然いなくなることもない。そばにいる。それを『実感』させるための行為なのだろう。刀剣に対し、彼女はどこまでも献身的だ。


「君を鍛刀したのも実感してほしかったからなんだ。鍛刀とは仲間を失うものではなく、仲間を増やすものなんだって」


 失われたのか、と漠然と思う。生み出す行為で自分の仲間たちが。
 それを目の当たりにしてきたのか。弟たちやこれからともに戦う戦友たちが。
 拳に力が入る。それに気づいたであろうと主が眉を下げ、ゆっくりと私に手を伸ばしてきた。
 今から自分に触れると、そう伝えるような、酷く緩慢な動きで主の手が頬に伸びる。
 頬に触れた手は見た目よりも大きいような小さい様な。ただ思った以上に荒れていて、皮膚が硬くなっているところがあった。


「来てくれたのが君で良かった。この本丸に来てくれて、本当にありがとう」
「こちらこそ」


 優しくも力強い瞳に、この人に呼ばれた喜びを確かに感じたのだった。




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