愚かな椿と小さい鱗
「はっ……、はぁっ……!」
息を荒げ、廊下を走る者がいた。少年と言って良い年頃の男だ。
その少し後ろを、彼の連れと見られる刀剣男士―――大倶利伽羅と燭台切光忠が少年の後を追っていた。
(あの人たちはどこにいるんだろう? まだ帰っていないよな?)
演練場に設けられた控え室は多い。限られた中で目的の人物がいる控え室を見つけるのは至難の業だ。
しかし少年には目的の人物を見つけなければならない理由があった。後ろから掛かる制止の声を無視してでも、会わなければならない理由が。
(謝りたいんだ)
例えそれがエゴだとしても。謝ったところで許してもらえるわけがないにしても。相手を傷付けてしまったのは事実なのだから。
(いた……!)
目的の人物は、たった今控え室から出てきたところだった。そのことに安堵して、ようやく足を止める。
目的の人物こと、椿が少年に気づき、少年を見つめた。
「君は……」
「鱗、と言います」
椿は少年―――鱗を覚えていたらしい。驚いたように目を見張った。
大倶利伽羅―――廣光に酷いことを言ったとき、彼と同じ部隊にいた鶴丸国永が、さっと椿の前に出る。
「何をしに来た」
低い低い声だった。仲間を傷付けた相手への容赦ない敵意。それを直にぶつけられた鱗は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
追いついた鱗の刀剣男士たちが咄嗟に刀に手を掛けるが、廣光との一件は彼らも承知している。彼の対応は正当なもので、気まずげな苦い表情で、それでも主を守ろうとしていた。
国永の行動と燭台切たちの表情で、鱗を知らない刀剣男士たちも、鱗が自分たちの害になる存在であると判断したらしい。刀に手が掛けられ、怒気を滲ませた目で、きつく鱗を睨み付けた。
それはたまらなく恐ろしいことだった。普段の彼らはとても優しくて、自分に敵意を見せるようなことはない。
そんな彼らがここまで怒っている。それはつまり、それほどまでに深く、廣光を傷付けてしまったと言うことだ。
謝らないと。どんなに恐ろしくても、例え許されなくても。目の前で無感情に自分を見つめる審神者の刀を傷付けて、とどめを刺したのは自分なのだから。
「あ、謝りに、来ました……」
震える声で、どうにかして言葉を絞り出す。恐怖で息が荒くなるけれど、膝が笑って立っているのもやっとだけれど。それでも謝らないと。
「ひ、酷いこと言って……、ご、ごめんなさい……」
うわずった声で、喘ぐようにして言葉を吐き出す。深く頭を下げて述べた言葉だから、酷く聞き取りずらかっただろう。けれど、これが精一杯だった。
たった一言を発するのが、こんなにも難しいと思ったのは今日が初めてのことだった。
「俺たちからも、主の非礼を詫びさせてほしい」
「主が、本当に申し訳ないことをした」
大倶利伽羅たちが鱗に習う。
頭を下げられた廣光は、困っているような、何とも形容しがたい表情で鱗の旋毛を見つめた。それから、助けを求めるように椿へと視線を流す。椿はそんな廣光を見て、きっぱりと告げた。
「許すか許さないかを決めるのは君だ、廣光。私が決めるのは違うと思うんだ。傷付いたのは、君なのだから」
決定権を委ねられた廣光は、やはり困ったような表情を浮かべていた。けれど、決めろと言われたからには、決めなければならない。
「……正直、そんなこともあったな、という程度の認識だ。今思えば、小さなことだったんだろう。傷付いたとか、傷付かないとか、そんな感情はもう置き去りにされてしまっていて、あの時どう思ったのかさえもあやふやだ」
おそらく、傷付いたのは事実だ。そうでなければ、こんな事態にはならなかった。けれど、その事実は廣光の中では遠い過去のこととなっていた。
傷付いた事実より、その後に得たものが大きすぎて、些末なことだとしか思えなくなっているのだろう。それほどまでに、椿の刀で在れることは廣光にとって幸せなことなのだから。
「だから、俺から言うことは何もない。強いて言うなら、己の心の弱さが招いた結果であって、あんたが気に病むことじゃない」
「でも……っ!」
「……謝罪は受け取る。俺からは以上だ」
これ以上言うことはないと言わんばかりに、鱗から視線を外し、そのまま椿へと目を向ける。視線を向けられた椿は、何とも複雑そうな表情をしていた。
「……許すのか」
「ああ」
「……そうか」
深いため息をついて、椿が額を抑える。廣光に呆れているようにも、湧き上がる激情を抑えているようにも見えた。
もう一度息を吐き出して、椿が鱗に向き直る。険しい表情だった。
「……私の刀は、もう少しで堕ちるところでした」
「っ!」
告げられた言葉に思わず顔を上げた。言われた言葉の内容に息を呑む。鱗の後ろに控えた刀剣男士たちも驚愕の表情を浮かべていた。
だってそうは見えない。椿の廣光は、椿を慕っていることは明白だ。うらやましいほどに、良好な関係を築いているのがうかがえる。そんな本丸で、刀剣男士が堕ちかけるなんて想像も出来なかった。
「私の刀でない何かになって、私の刀でなくなるところだったんです」
渦巻く激情を押し殺して告げられる言葉は、酷く重たい。ずしりとのしかかる重みが、自分のしたことの罪の重さを表しているようだった。
「貴方に分かりますか。自分の刀が、自分のものでなくなる恐怖が」
分からない。分かりたくもない。苦労して手に入れて、長い時間を掛けて育んできたものを失うだなんて。
けれど椿は、それを体験したのだ。そしてそれを、自分の力で取り戻したのだ。全身全霊を持って。形を変えてもいいと思わせるほどのものを懸けて。
「……そも、私と貴方は違う。決して同じにはなれない。信頼の形も当然違う。一緒になって頭を下げてくれるくらい、しっかりとした関係を結べているのに、他人の刀を羨む理由がどこにある」
何故嫉妬だと分かったのだろう。理由なんて、一切語っていないのに。
恥ずかしくなって、鱗は視線を床に落とした。
鱗は刀剣男士たちとの絆を疑ったことはない。大倶利伽羅とも良好な関係を築けているだろう。けれど大倶利伽羅とのそれは、目に見えるものではない。だから羨ましかったのだ。目に見える形で、信頼を寄せられる椿のことが。
「不満があるなら伝えればいい。目に見える信頼がほしいなら、そう言えばいい。そんな当たり前の努力もしないで、自分の刀との違いを勝手に羨んで、傷付けて。大切なものを失うところだった、こっちの身にもなってみろ!!!」
抑えていた激情の一部が溢れたのだろう。冷静であることに努めていた仮面が、一気に剥がれた。
けれどすぐに我に返って、改めて仮面を被り直す。
「……貴方が本当に申し訳ないと思っているのなら、今後彼に何かあったとき、私たちの味方になってください」
「……えっ?」
思いがけない提案に、鱗が瞠目する。燭台切たちも驚いているのが気配で分かった。
「正直に言えば、許したくなんてない。許されただなんて思わないでほしい。けれど、廣光が許してしまっているから、当事者でない私が、私の都合でいつまでも怒りを燻らせるのは良くない。だから、これは妥協です」
苦いものを噛み潰したような顔で。けれど刀剣男士の意思を尊重して、椿は重々しく告げる。
「私の刀を私から奪おうとした罪は重い。だから、謹んで利用されてください」
「は、はい! 謹んで利用されます!」
「けれど、次はありません。次に私の刀を傷付けるようなことがあれば、私は一切の容赦をしません。それこそ、地獄の底まで追いかけてやる所存です」
ああ、この人は本当に、地獄の底まで降りていくのだろうなと、そう思わせるだけの気迫があった。それほどまでに大切なものなのだ。彼女にとって、刀剣男士という存在は。
きっとこれは破格の対応だ。本来ならば、決して許されないところを「味方になる」という条件で、怒りを呑もうと言うのだから。
強い人なのだろう。自分の感情よりも優先すべきことを知っている。そしてその優先すべきことを、きちんと優先できている。本当なら、怒りに任せて怒鳴り散らしたいだろうに。
連絡先を交換し、再度頭を下げて、別れを告げる。
遠ざかる椿たちの背中を、鱗は静かに見つめる。そんな鱗の横顔に、大倶利伽羅の物言いたげな視線が向けられていた。燭台切も、気まずげな表情を浮かべている。
「……俺は、みんなとの絆を疑ったことはないよ」
それは紛れもない事実だった。けれど、だからこそ羨ましかったのかもしれない。信頼されているという自信があったから、自分とは別の形の信頼が認められなかったのだ。
「ただ、ああやってまっすぐに向けられる信頼が、羨ましかったんだ」
大倶利伽羅は正面から信頼を向けてくる刀ではない。自分の内で、確固たる物として抱えていてくれる刀だ。それを表に出してくれる機会はほとんどない。
彼の心にだって育まれた物があると知っている。それが自分への信頼であり、忠誠であり、敬愛であることも。
それ以上を望むのは贅沢なことだとは分かっている。分かっているけれど、それでもなお欲してしまうのが人間だ。どこまでも欲張りなのが人間だ。ほしいと思ってしまったら、止められないのが人の性。
「俺は慣れ合うつもりはない」
「……うん」
分かっているのだ、多くを望みすぎているのだと。
念願だった大倶利伽羅を手に入れて、主として慕ってもらえて、これからもきっと、そうであってくれるだろう。それ以上はきっと、過ぎた願いだ。
「……が、お前のためなら、考えてやらんこともない」
「…………えっ!?」
耳に届いた言葉が信じられず、慌てて大倶利伽羅を見る。けれど大倶利伽羅は、すでに踵を返して帰路への道を歩き出していて、どんな顔でその言葉を言ったのかは分からず仕舞い。
「良かったね、主。ずっと伽羅ちゃんと仲良くなりたいって言ってたもんね」
「……っ、うん……」
燭台切に優しく声を掛けられ、思わず涙が溢れる。
―――もっと早く言えば良かった。勝手に思い込んで、決めつけて、その挙げ句に余所様の刀を傷付けた。
彼女はきっと、自分が出来ていなかった努力をしてきたのだろう。想いを伝えることを惜しまなかったのだろう。だからこそ彼女の刀剣たちは、あらゆる手段を持ってして、その信頼に応えてきたのだろう。それこそ、自らの形を変えることも厭わずに。
あんな風になりたい。椿になりたいのではなく、自分らしいままで。
あんな風に信頼関係を築きたい。椿と同じではなく、自分たちらしい形で。
彼女たちの姿は、一つの可能性であり希望だ。刀剣男士との絆は、どこまでも深められるということの証左である。
(謝りに行ったはずなのに、何だか救われたような気分だ)
たくさんの物を呑み込んで、それでも許してくれた、泣きたくなるほどに優しい主従の背中を見つめ、鱗はもう一度、深く深く頭を下げた。