蓮池の夢
(ここはどこだろう)
椿は不思議な空間にいた。
それはこの世のものとは思えない場所だった。
まずは空。深い深い黒だった。
夜空ではない。ひたすらに深い青ではなく、漆黒と呼ぶべき色をしている。
そこには黄金の雲が掛かっており、細くたなびいている。
地面は無い。辺りは見渡す限りの蓮池だ。
その蓮も普通の蓮ではない。ガラス細工の様な透き通る淡い桃色の蓮もあれば、掌ほどの小さな蓮もある。
明らかに花弁の質感とは異なる蓮もあれば、人が乗ってもあまりあるほどの大きな蓮すらあった。
色も大きさもさまざまであったが、どれもこれもひたすらに天を目指す力強さがあるのは共通していた。
そして椿は、まるで鬼蓮の葉のような大きな蓮の葉の上に座り込んでいた。
(私は確か、廣光を打ち直していたはずだ……)
この場所に来る前のことを思い出す。
堕ちかけて、椿の刀ではない何かになろうとしてる廣光を救うために、椿は今の形に沿うように、廣光を打ち直していたのだ。
それは危険を伴うもので、失敗すれば廣光は失われる。
しかし廣光や仲間たちの了承のもと、それを決行した。
そして打ち直しが完了したと同時に、椿は意識が遠のくような感覚を覚えたのだ。
(そうか、私は意識を失ったのか……)
思い出して、思わず嘆息する。
確かに神経を使う作業ではあったし、体力を大幅に削られたのは事実だ。
しかし、だからと言って、簡単に意識を失うなど、情けなさ過ぎるのではないだろうか、と。
(なら、これは夢か……)
水は水晶の様に透き通っており、その先には別の世界すら続いていそうだ。
こんなに幻想的で美しく、また不可思議な空間は、現実の物とは思えない。
(早く、目覚めなければ)
硬く目を閉じて、口の中で覚めろ、覚めろと繰り返す。
廣光はどうなったのか。
無事であるのか、それとも。
そんな事ばかりが頭を巡る。
けれど世界に変化は無く、夢から覚めた気配はない。
「相変わらず無茶をする」
耳触りの良い低い声が耳を打つ。
聞き覚えのある声に椿が目を開けた。
顔を上げれば、すぐ近くの蓮の上に、大倶利伽羅が胡座をかいて座っていた。
慌てて立ち上がろうとして、椿の体がくらりと傾く。
体に力が入らない。
「無理に立とうとするな。あんたは今、自らの命を削ったことで意識を失っている。夢の中の肉体にすら影響する程に魂が摩耗しているんだ」
座っていろ、と穏やかな声が椿を嗜める。
その声に従い、椿は葉の上に座り直した。
命を削った、と言われても、いまいち実感が湧かない。
けれどこうして精神にまで現れる程に何かが削られているのは確かだ。
そのことに椿はホッとした。
「なら、私のありったけを、私の全てを持って、打ち直す事が出来たんだな」
安堵の笑みを浮かべる椿に、盛大な溜息が落とされた。
「何故そこまで出来る」
「共に生きたいと願う程に大切だからだ」
「危うく死ぬ所だったんだぞ」
「それでも構わないと、そう思える程に大好きなんだ」
一寸の間も置かない返答に、彼は目を見開く。
次いで、くつくつと可笑しそうに笑い始めた。
「呆れた人間だ、あんたは」
つれないことを言いつつも、その口調は柔らかく、表情は酷く穏やかだった。
「まぁ、そういう所に惹かれるのだろうな」
納得がいった、と言うように一つ頷き、スッとある一点を指差した。
その先には黄金の光がある。
「そら、目を覚ませ。あんたの目覚めを待っている奴らが大勢いるだろう?」
「ああ、いるとも」
ふらつかないように、今度はゆっくりと立ち上がる。
蓮が道を開けるようにそっと避けた。
代わりに蓮の葉が並び、緑の道を作る。
その上で一歩を踏み出し、椿は光に向かって歩き出した。
―――あの光の先に、君もいると良いんだけどな。
不確定的な言葉であったが、椿に不安は無かった。
夢から覚めた先がどうなっているのかなんて分からない。
けれどその光があまりにも眩くて希望に満ちていたから、椿は笑顔で現実へと向かって歩を進めることが出来た。
やがて椿の姿は、光の中に溶けていった。
* * *
柔らかくも眩い光を受けて、私は目を覚ました。
鍛冶場ではない。白い天井にも見覚えが無い。
ここはどこだろう。
辺りを見回すと、目に涙を浮かべた宗三がこちらを覗き込んでいた。
「姐様!」
宗三が嬉しそうな声を上げる。
宗三が抜刀もせずにそばにいるということは、ここは危険な場所ではないのだろう。
万が一に危険な場所であっても、彼がいるなら安心だ。
「今、他の方達を呼んできますから、少し待っていてください!」
慌てて、宗三が部屋を飛び出していく。
みんなもいるのか、とほっと息をつき、改めて部屋を見渡す。
そこはどうやら病室のようだった。
意識を失った私を心配して、病院にでも運び込んだのだろう。
私が意識を失う前に最も気にかけていたのが廣光のことだったからか、病室には刀掛けが用意されており、そこに廣光が飾られていた。
どうやら、彼の顕現も解けたままであるらしい。これも、彼らに心配をかける要因だろう。
(彼らは本当に心配症だなぁ)
自分を心配してくれる嬉しさと、心配を掛けてしまったという不甲斐なさで、思わず苦笑する。
そうやって状況の整理をしていると、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「姐様!」
「姐さん!」
私の刀達が一斉に病室に飛び込んでくる。
病院では静かに、だとか。大袈裟だよ、とか。色々言いたいことはあったけれど、まずは随分と心配を掛けたらしい彼らを安心させなければならない。
「おはよう」
出来る限り柔らかく微笑んで、目覚めの挨拶を向ける。
すると彼らは一瞬ぽかんと呆けたけれど、すぐに安堵の笑みを浮かべてくれた。
そしてもう一つの懸念を口にする。
「廣光を、こちらへ」
そう言って手を差し出すと、三日月達が顔を曇らせる。
迷うような素振りを見せて、逡巡して、ようやっと廣光に手を掛ける。
けれども決心が定まらないというように不安げな表情を見せるから、私は「大丈夫だ」と言い聞かせるように笑った。
そうすることで、ようやく長谷部が刀を渡してくれる。
心配はいらない。だって彼はそこにいる。
「起きろ、廣光」
ほら。
どくりと脈打つ刀の中に、確かに魂が宿っている。
その証拠に、美しい桜が舞い散った。