それは重く、それは尊く
人払いを済ませ、椿は廣光を椿の執務室に招いた。
私室という考えもあったが、私室では”椿”としてしか向き合えない気がしたのだ。
これは”椿”としてだけではなく”彼の主”として向き合う必要があると判断したが故の選択だった。
執務室にて、二人は向き合って座っていた。
切り出すべきは椿なのか廣光なのか。それを判断しかねての結果だ。
けれど緊張感を持っているのは椿だけで、廣光は常と変らず穏やかだ。
膝に置かれた廣光の本体からも、何の揺らぎも感じられない。
切羽詰まった様な険しい表情をしている椿と平静を保ったままの廣光。
その表情と纏う空気のあまりの差異に、執務室は奇妙な空間と化していた。
「姐さんは、」
静寂を終わらせたのは廣光だった。
「姐さんは俺を”大倶利伽羅”だと思うか」
椿にとって”大倶利伽羅”とは廣光だ。
初めて出会った”大倶利伽羅”という刀が彼であったというのももちろんあるが、椿が彼自身を好ましく思っているから、というのも大きい。
椿の答えはもちろん”是”であった。
「ああ、もちろんだ」
深く頷いた椿に廣光はそうか、と吐息の様な声を零した。
「しかし、本来の”大倶利伽羅”は群れを嫌い、慣れ合いを拒む」
それは”大倶利伽羅”という刀の個性であった。
”大倶利伽羅”という刀は一人を好み、孤高で気高い。一匹狼の様な刀剣だ。
もちろんそこから派生した刀剣男士は様々な要因を持って、そこから外れることもある。
審神者の霊力によるものだったり、本丸の環境だったり、理由は多岐に渡る。
廣光はブラック本丸という要因を持って本来の特性から大きく外れている刀剣男士だった。
「誰かに傾ける情があっても、どれほど心に響くことがあっても、群れて慣れ合って、それで己が埋没する可能性があるのなら、それを忌避するのが”大倶利伽羅”という刀の当然だ」
―――”大倶利伽羅”はそういうものなんだ。
「だが”俺”はどうだ? 俺は群れることも慣れ合うことも許容して、そんな自分を良しとしている」
廣光の言う”大倶利伽羅”という刀と、廣光はあまりにも違う。
廣光は群れることを良しとしている。
仲間との関わりを慣れ合いと取るかどうかは個人の感性によるが”大倶利伽羅”が慣れ合いと呼ぶ同胞との団欒も、級友たちとの交わりも、彼は拒絶したりしない。
けれどそんな廣光を椿は好ましく思っているし、歓迎されるべきことだと思っている。
もちろん、慣れ合わずとも繋がっていられる相手がいるならば、無理に馴染む必要はないと思っている。
どんな彼であれ、それを否定するつもりはない。
けれど問題は、彼が慣れ合いを良しとするようになった要因にある。
―――彼はブラック本丸の出身だ。
友を折られ、無意味に傷つけられてきた。
失うことを嫌い、伸ばされた手を掬い上げようと必死になって生きてきた。
同じように掬い上げようとする手を拒むことをせず、救われようとして、生きるためならば何だってしてきたのだ。本来の”大倶利伽羅”と大きく異なるのは当然と言えた。
先も述べたように、椿は今の廣光を好ましく思っている。
仲間のために、大切な者のために自らの有り様すら変えてみせた。そんな彼を肯定こそすれ、否定することなど出来ようはずもない。
けれど今は答えあぐねていた。
彼は今の自分を嫌っている節がある。
「俺がそうなったのは、あいつに屈服して服従したからだ」
「……っ! そんな風に言うな!」
彼の前任は最悪な部類の人間であった。自分を特別だと信じ、平気で人を傷付ける。
そして自分の都合のいいように周りを変えていったのだ。
廣光もその一人だった。
ただ気に食わないという理由で彼を殺そうとし、それが無理だと分かると暴力により従わせようとしたのだ。時には友を目の前で折るような残虐なことさえ、ただ自分に従わせるための手段として用いて。
廣光は変わらざるを得なかったのだ。自分が膝を折らなければ、友を失い続けることになると分かっていたから。
結果として前任の思い通りになってしまったことだとしても、それは仕方のないことだ。
恥じるようなことではないのだ。
誰だって友を失うのは辛く、悲しく、苦しいことなのだから。
だから、心底屈辱的だと言わんばかりに吐き捨てるようなことではないのだ。
「……気付いているだろうが、俺は堕ちかけている。”大倶利伽羅”として”刀剣男士”として在れなくて、別のものになろうとしている」
その言葉に息を飲む。
本質を捻じ曲げるというのは、それほどのことなのだ。
心はもちろん、もっと大切な部分に罅を入れるくらいに。
「ずっと聞こえていたんだ。自分に罅が入る音が」
ピキリ、ピキリ。
彼らがずっと聞いてきた、命が失われる哀の音。
その音を、椿は知らない。
幸いなことに、それを知らずにここまで来れたから。
ピキリ、ピキリ。
それは、どのような音なのだろう。
加州清光を刀解した時の、いっそ笑ってしまいそうなほど、軽い音だろうか。
いつの日か本丸で聞いた、耳にこびりついて離れない様な、聞くものすべてを不安を覚えさせるような、不快な音であろうか。
ピキリ、ピキリ。
そんな音がずっと自分の胸の内から響いていて、ずっとそれを聞いていることになったとしたら、自分だったら、果たして耐えられただろうか。
自分ではない何者かになってしまうことを恐れながら、ここまで誰にも気づかれずに。
「姐さんに刀として認められて、俺自身を求められて、その音は聞こえなくなっていたんだ。あんたが救ってくれていたんだ」
柔らかく、穏やかな声。
温かい物、優しい物を知るものにしか出せない様な。
「けれど、あんたの刀としてあんたのそばに在って、俺はこう問われることが多くなった。”俺は本当に大倶利伽羅なのか”と」
それは椿にも覚えのある言葉であった。
例えば演練場で廣光が微笑んだ時。
例えば万屋街で談笑していた時。
彼はいつもその言葉を言われ、酷く驚かれていた。
「その度に俺は思ってしまったんだ。俺は姐さんに相応しくないのではないか、と」
廣光は椿が前任の審神者から命懸けで勝ち取った刀剣である。
それほどの価値があると、主たる椿に想われた刀であるのだ。
そうして得た刀剣達を、椿は自分の誇りとした。
そんな刀である自分を、主の誇りである自分を、よりにもよって、自分自身が否定してしまったのだ。
主の誇りを、よりにもよって、主の刀であり誇りである自分が傷つけた。
そのことが廣光の矜持を大きく傷つけた。
そんな心にとどめを刺すように、とある審神者は言ったのだ。
―――お前を大倶利伽羅とは認めない、と。
そのことで、罅は一気に進行した。
椿に濁りを悟られるくらいに。瞳の色が変じるくらいに。
「姐さん、俺は、堕ちてしまうのだろうか」
小さく落とされた声は、迷子の子供のように弱弱しく震えていて、ぎゅう、と痛いくらいに胸を締め付けられた。
「俺はあいつに敗北して、終わってしまうのだろうか……」
膝の上で握られた拳は血が滲むほど強く握りしめられていた。
噛み締めた唇も、やっぱり血が滲んでいた。
「姐さんの刀で、在れなくなってしまうのだろうか……!」
喉の奥から絞り出された声に、悔しさと絶望が乗っていた。
その悲痛な声に、椿は目を見開いた。
(廣光が、私の刀で在れなくなる……?)
死の恐怖に怯えながら、それでも立ち向かって。
血を流しながら、それでも勝利を収めて。
どんなに苦しくとも、悲しくとも、諦めずに手を伸ばし続けた、己が刀。
傷が和らいで、笑顔が増えて、己が刀であることを誇りだと胸を張って、ようやっと刀剣男士として在れるようになってきたというのに。
後は前に進んで行くだけだというのに。
それなのに、己が刀で在れなくなる?
どこの誰とも知れない審神者の言葉で。無理矢理広げられた傷がもとで、過去の呪縛である男のために?
私の刀が、私の手から離れていくのか?
私の刀ではない何かになって、私ではない誰かのために折れると言うのか?
私の刀が、私の刀剣男士が!!
(ふざけるな!!!)
言葉にならない激情が、椿の視界を赤く染め上げる。
荒れ狂う意思はもうすでに怒りとか悲しみを置き去りにしていた。
椿の心情を正しく表せる言葉は無い。
それほどまでに複雑で、形容しがたい感情が椿の心に吹き荒れている。
けれど一つ、その心に形を与えるならば。
―――私の刀!!!
これに限る。
それは執着とか愛情とか、そんな生易しいものではない。
己が糧となるならば、全て差し出しても良いと。己の全てを曝け出すことも厭わないと。
その身、その心、その魂。
その全てを代価としても構わないと、その決意を、その覚悟を形としたものだ。
それほどまでに思う刀が、自分の手から離れるかもしれない。その事実に椿が正気でいられるはずもなく。その心を抑えられるはずもなく。その全てを、手の内にある廣光の本体に叩きつけていた。
「姐、さ……っ」
椿の激情を魂で受け止めた廣光は愕然とした。
こんなにも、どうしようもなく思われているのに、それを自分はちっとも理解していなかったのだから。
想われているのは知っていた。深く求められて、何よりも必要とされていることも。
けれどそれは知っているつもりになっていただけ。理解しているつもりになっていただけだと、今初めて、はっきりと自覚させられた。
自分は、自分達は、椿を何も分かっていなかった。
そんな風に思ってしまうくらいに、椿の想いは深く広く、どこまでも果てしなかったのだ。
その想いを垣間見た瞬間、廣光の瞳から涙が溢れた。
「……きたい……」
震える唇が、言葉を紡ぐ。
「生きたい……!」
生きたい、
生きたい!
生きたい!!!
「俺は生きたい……! あんたの刀として、姐さんと共に……!」
どこの誰とも知れない者のために傷つきたくなどない。
かつて自分を縛っていた者のためになど折れたくはない。
主の刀でない何かになど、成りたくは無い。
どうしても生きられないというのなら、せめて、主の刀として折れたい。
「こんなところで終わりたくない……!」
「もちろんだ!」
こんなところで終わらせてなるものか。命を掛ける覚悟ならある。後は救う手立てを探すだけ。
(どうする? どうすればいい?)
最初は借りを返すという目的だった。
与えられた温かいもの、優しい物を返したいという想い。それが彼の生きる理由だった。
けれど今は、自分のために、主たる椿のために生きたいと願っている。
己の心に従って、未来を望んで叫んでいるのだ。捨て置くことなど出来る筈がない。
(どうしたら彼を失わずに済む?)
深く沈む思考の端に、きらりと閃くものが映る。
―――紅紫苑だ。
かつて人を愛した刀と、その仲間たちで作られた刀。人を愛した想いが形となった、椿のための守り刀だ。
「廣光、」
「ぁ……、何、だ……?」
「君に、酷いことを言っても良いだろうか」
紅紫苑を見つめる椿の顔は深刻そのもの。緊張で張り詰め、鬼気迫るものがある。
滲む視界を腕で拭い、深く頷く。
こちらを振りかえった椿は、硬い表情で厳かに告げた。
「私に、君を打ち直させてくれ」
ひゅ、と廣光が息を飲んだ。
椿の提案はつまり、在るべき形を変えるということだ。
本質が捻じ曲げられたことでひずみが出来てしまったのなら、その歪んだ本質に沿わせればいい。今の形に沿うように。
けれどそれはとてつもないリスクを伴うものだろう。
打ち直した形が本質とうまく適合しなければ、宿るべき魂が弾かれる可能性があるのだ。
それはパズルのピースの様なもので、当てはまるピースと別のものをはめ込もうとするのだから、どうしたって弾かれる。
つまり器に受け入れ得られなかった魂が取り残されてしまうのだ。
そうなってしまえば、きっとどこにも還れない。
それはつまり、刀を折るのと変わらないということ。
「もしかしたら、私自身が君を終わらせてしまうかもしれない。上手くいく保証は無い。それでも君は私を信じて、私に全てを託せるか?」
強張った表情のまま、震える声で椿が問いかける。
それに対する廣光の返答は―――
「もちろんだ」
間髪いれずの”是”であった。
「あんたが俺に命を掛ける覚悟を決めているんだ。ならば俺も、相応の覚悟を持って答えなければなるまい」
今度は椿が息を飲む。
目を見開いて驚く椿に、廣光が微笑んだ。
「あんたが望むなら、俺はどんな形にでも成ろう。だからあんたの好きなように、姐さんの心の思うが儘に、俺を作り変えてくれ。その結果がどうであれ、俺はあんたの、姐さんだけの刀だ」
真っ直ぐに椿を見つめる瞳に不安の色は無い。あるのは深い敬愛と、多大な信頼の色だった。
その瞳を見て、椿は深く頷く。
しっかりと受け取った刀は今までにないくらいに重かった。
けれどどうしようもなく温かく、尊いものでもあるのだ。
(この想いに答えるためにも、必ず成功させなければ。例えこの身、この魂を削ることになっても、)
諦めることだけはしないと、そう誓ったのだから。