滲む赤
(彼は何を思って、あの言葉を放ったのだろう)
椿は黙々と竹刀を振るっていた。日課の素振りである。
椿は竹刀を振るいながら、今日の出来事を振り返っていた。
『本丸合同出陣計画』
先の演練場襲撃事件後に立てられた計画である。
本丸は基本的に隔離された空間で、横の繋がりが希薄だ。
それを良いことに刀剣達への暴行が行われ、見習いによる本丸乗っ取りが横行し、遡行軍による本丸襲撃などが起こる。
そして、それらが発覚するまでの時間の長さ。
これらは全て、本丸同士の繋がりの希薄さ故に起こる弊害である。
戦況は芳しいとは言えない。
その上、これらの問題により戦況は一向に好転せず、むしろ悪化の一途へと傾きかねない事態にまで陥っている始末。
それを危惧した政府が審神者同士、刀剣同士の繋がりの強化を図るため、この計画は立てられたのである。
そして今日、椿が参加したのは、合同出陣の前段階。この計画の有効性を図るために行われる試験的な訓練であった。
いくつかの本丸で連隊を組み、審神者同士で連携して指示を出し、演練場の仮想戦場を攻略する、というものだ。
これに参加することになったの審神者は椿を含めた5名。
一人は初老の男性。白髪混じりの髪や顔の皺は年相応であったが、ぴんと延びだ背筋が実年齢より男を若く見せていた。
一人は恰幅の良い三十代ほどの男性。柔和な笑顔が印象的で、おっとりとした話し方をする男であった。
一人は気弱そうな女性。年は四十半ばといったところか。線が細く、猫背気味の姿勢が自信の無さを表しているようであった。
最後の一人は少年と言って差し支えない子供であった。椿と同年代。更に言うなら椿の一つか二つほど年下だろう。力強い瞳が印象的な、強気な面差しの少年であった。
この5名で訓練を行うことと相成ったのだが、しかし。そこで小さな諍いが起こったのだ。
諍いと言うにはあまりにも一方的な、言うなれば言いがかりの様なものであったが。
言いがかりをつけてきたのは少年審神者であった。
椿にではなく、椿の刀剣男士に、である。
(”認めない”か、)
ぶん、と竹刀を振り下ろしながら椿は思案する。
思えば、少年はずっと”彼”を睨みつけていた。
怒りと言うには優しくて、羨望と言うには苛烈な瞳。しかし害意のようなものはなく。
焦燥に駆られている様な、あるいは祈りすがる様な、どこか切実な熱を孕んでいた。
椿はその眼差しを知っていた。
(私はどこで、あの瞳を知ったのだろう)
その瞳に傷つける様な意図は無さそうで、少年の言葉にはむしろ”彼”という刀のために放ったような重さがあった。
(あんな目をする少年を、忘れられるわけがないのだが、)
ぶん、と竹刀が風を切る。
もう一度竹刀を振るおうと腕を掲げた時、椿の記憶に掠めるものがあった。
(思い、出した)
脳裏に浮かぶのは今日と同じく演練場。
思い起こされるのは山姥切国広を欲した審神者と遭遇した時のこと。
椿は一人の少年がこちらに向かってくるのを視界の端で捕らえていた。その少年はすぐに自身の刀剣男士に押さえられ、言葉を交わすことすらなかったのだけれど。
その少年は、椿ではない誰かを見ていた。
怒りを携えながらも願う様な瞳。
羨望を滲ませながらも欲するような色は無く。
相反する複雑な感情を滲ませた眼差しは、椿に強烈な印象を与えた。その情景を鮮明に思い返せるほどに。
しかし―――。
(”大倶利伽羅”とは認めない、か……)
彼は廣光を見ていたのか、と密かに納得する。
確かに廣光は他の大倶利伽羅とは少し異なるところがあるが”認めない”と言われる筋合いは無い。
―――彼は、何を思って―――。
「姐さん」
掛けられた声に、思考の海から引き戻される。
声が掛かった方を振り向けば、そこには廣光と国広がいた。
椿に声を掛けたのは廣光だ。
「また思案に耽っていたのか?」
「ああ、少しな」
「素振りをしながら思考するのはいいが、やり過ぎだ」
あんたの悪い癖だぞ、と廣光が眉を寄せる。
表情は険しく、咎めるような響きではあるが、その声音はどこまでも優しい。椿のことを思って告げられた言葉であることが良く分かる。
しかし、椿の方も彼を思って思考の海に身を投じていたわけで。
―――君のことを考えていたのだけれど。
口には出さずに苦笑すれば、すべてを察したらしい国広が胡乱な眼差しを廣光に向けた。
お前のことだぞ、と言いたげだ。
あるいは彼も、椿と同じようなことを考えていたのかもしれない。彼はその場にこそいなかったが、他の者から事の詳細を聞いているから。
(それにしても……)
落ち着いているな、と普段と変わらない様子の廣光を見やる。
”俺はお前を大倶利伽羅とは認めない”
それは存在を否定する様な、あるいは拒絶するような言葉だ。
自らの本質を捻じ曲げられ、自分らしく在れないことに苦しんでいた彼には、重過ぎる言葉だろう。
けれど、突き刺さるような言葉の羅列であるはずなのに、彼は酷く凪いでいた。
―――こちらは君のことであれこれ頭を悩ませているというのに、ともう一度苦笑する。
「廣光、」
椿が廣光に向かって手を伸ばした。
「色々考えてしまって、落ち着かないんだ」
廣光は湖面のような穏やかさを持つ刀だ。波立った心を落ち着けるには”彼”という刀を握るのがいい。自分も同じように、穏やかな心情になれるから。
眉を下げる椿に、廣光が小さく嘆息した。
呆れた様な、物言いたげな視線を寄越すが、そこには隠しきれない確かな喜びがある。主に握ってもらえるという歓喜だ。
「そら、」
「ありがとう、廣光」
差し出された刀を嬉しそうに刀を受け取る。
そんな椿が、ふと動きを止めた。
違和感を感じたのだ。
(刀が、重い……?)
それは常なら感じない違和感だった。
ずしりと腕に負荷を掛けてくる鋼に首をかしげる。
(いつもならもっと軽々と持てるのだが、)
廣光の言うように素振りをやりすぎて疲れたのだろうか?
思った以上に深く考え込んでしまっていたらしい自分に苦笑する。
けれどもやっぱり心を落ちつけたくて、感じた違和感は口に出さない。
口にすればすぐにでも刀を取り上げられて、休めと叱られてしまうだろうから。
(私の刀は心配症なんだ)
嬉しいけれど、申し訳ない様な、情けない様な。何とも複雑な心地にさせる。
むずむずと疼く口元を誤魔化すように刀を帯びに差し込んで、鯉口を切る。
すらり、と慣れた様子で刀を引き抜いた。
「え、」
椿が、思わずといった様子で声を漏らす。
声を漏らしたきり、抜刀した刀を見て呆然としている。
「姐さん?」
不思議に思った国広が眉を寄せ、訝しげに椿を見やった。
その声で我に返ったのか、椿が唇を戦慄かせる。
「どうして、」
ようやっと椿の口から零れた声は、酷く掠れていた。
椿らしくない、弱々しい声だ。
椿がこう言った声を上げるとき、必ず、何かしらの良くないことが起こっている。
知らず、国広が息を飲んだ。
「どうして、刀身が濁っているんだ……」
廣光、とそう呼ぶ声が、風に晒されれば消えてしまいそうなほど微かなものだった。
けれどその声を、国広は確かに拾い上げていた。
そして彼女の言葉に、咄嗟に廣光の腕を掴み、その瞳を覗き込んだ。
刀剣男士がその身で最も刀身を表すのは”瞳”である。
まず変化が現れるとしたら、そこからだ。
「……っ」
瞳を除き込まれた廣光に抵抗は無かった。されるがままに、いつも通りに。
ただひたすらに穏やかだった。
あまりに穏やかに、緩やかに、堕ちていた。
瞳を覗き込んだ国広は絶句した。
朝焼けを思わせる廣光の金色は夕陽を思わせる色に。
夕日のような、紅交じりの金に変わっていたから。
「ずっと、考えていたんだ」
ぽつり。
穏やかに、常と変らぬ緩やかさで、廣光が口を開いた。
「ずっと、ずっと前から」
耳を、塞ぎたかった。
塞げるものなら、そうしていいなら、そうしたかった。
その先を聞きたくないと、言葉を続けないでくれと、強く強く願った。
だってきっと、この先に続く言葉は、椿が最も聞きたくない言葉の類。
「やめろ、」
椿と同じ思考を辿ったらしい国広が、青い顔で首を振る。
彼も続きを聞きたくないと思ったのだろう。声に強い拒絶の色を乗せていた。
「俺は、」
「やめてくれ、」
「俺は、本当に、」
「やめろ、姐さんに聞かせるな!」
国広の声は、もはや悲鳴のようなものだった。
悲痛な響きを持っていて、悲嘆に暮れていた。
けれど廣光は残酷にも、穏やかな表情で―――それこそうっすら微笑んでいるようにさえ見える表情で、言葉を続けたのだ。
「俺は、本当に”俺”なのか、と」
ガツン、と頭を殴られたような感覚がした気もするし、肌に爪を立てられた様な、鈍い痛みを受けた様な気もする。
けれどどちらにせよ、血が滲む様な、じわじわと侵食するような感覚があるのは確かだ。
どろりとしたその感覚は、決して好きに慣れるものではない。むしろ忌避したいものの類だ。
「姐さん、人払いをしてくれ」
優しい声音で、先程の残酷な言葉が夢だったのではないかと思わせる様な口ぶりで、廣光は椿に声を掛けた。
堕ちかけた瞳は、けれど美しさを保ったまま。
椿への敬愛には、何の濁りもない。
けれど確かに、彼は―――。
「二人で、話がしたい」
彼は緩やかに、けれど確かに、堕ちている。