あたたかな地獄に落ちる






 ああ、ここはあたたかすぎる。
 一人になった縁側の隅で、膝丸は小さく嘆息する。
 目が覚めれば染み入るようなあたたかな声でこちらを気遣う優しい言葉が掛けられる。
 自分を見失う度に名前を呼んで、自己を思い出させてくれる椿やその刀達。
 触れるだけで相手を傷付けてしまうような自分に笑いかけてくれる昔馴染み。
 忘れぬように、失わぬように、己と兄の名を口ずさむ柔らかな心。
 暗く沈んだ場所にいた自分には、酷く優しい場所だった。
 与えられるものは皆、柔らかくあたたかいものばかり。
 幸せな場所であることは理解出来るが、酷く居心地が悪い。
 ここにいては自分は駄目になるとわかってしまって、受け入れ難いのだ。
 早くここを離れなければ。早く孤独に戻らなければ。誰かを傷付けてしまう、その前に。


「お、いたいた」


 声が届く。
 やっと見つけましたわーと、緩く締まりのない声を上げたのは、この本丸の太刀の一振り、明石国行だ。
 真顔から表情の殆ど変わらない彼から柔らかな声が上がると、その不和にドクリと心臓が跳ねる。
 穏やかな刀であることは、ここ数日の居候生活で分かっているが、表情との不一致には未だに慣れることが出来ない。


「明石か。何か用か?」
「八つ時やから、おやつ持って来たんです。今日は宗三さんが作ったういろうですよ。良かったらどうぞ」
「手間を掛けさせたな。有り難く頂こう」
「いいえー」


 お隣失礼しますよと声を掛け、明石が膝丸の隣に腰掛ける。
 明石がういろうに手をつけているのをなんとなく眺め、膝丸もういろうに黒文字を入れる。
 ぷるんと弾力がありつつも柔らかいういろうは、上品な甘さが口の中に広がって大変美味だ。
 この本丸の刀剣男士達は総じて料理が上手い。

 ーーーああ、本当に、ここは自分を駄目にする。
 居候とはいえ、客人ではない故に出陣にも内番にも参加しているが、それ以外に与えられるのは優しいものばかりだ。
 椿の先輩たる都の刀剣男士達に話をつけ、毎日のように自分を祓い清めて貰えるよう取り計らってくれたのも椿だ。
 自らの言霊の力を利用して、少しでも早く穢れが取り払われるよう美しい言葉を日に何度も掛けてくれるのも。
 ただ一振り、膝丸の為だけに与えられるものだ。
 椿を主と仰いでいる訳でなく、共に出陣はするものの、仲間という訳ではなく、触れるもの全てを傷付けてしまうのに。
 幸せを願われていることは明白だった。
 何故己の刀ですらない自分にそこまでするのかと、いつも不思議だった。
 何が彼女を突き動かすのだろう。その事がいつも疑問だった。
 けれど一つだけ、明確な言葉を得ているものがある。それは自分が椿のもとを離れるべきだという事。


「どないしたん、膝丸さん。やけに難しい顔してはりますけど」


 明石の声に現実に引き戻される。
 雰囲気で、心配されていることが窺えるが、やはり表情は変わらない。


「いや、ここは俺にはあたたかすぎると思ってな」
「そうなんです?」
「特に、あの審神者の側は頂けない。あの審神者の側にいると、誰も傷付けずに済むのではと、錯覚してしまいそうになる」


 途轍もない痛みを感じているはずなのに、それを感じさせない力強い手の感触。一切の迷いなく抱きしめてくれる腕のぬくもり。決して逸らされることのない眼差しに、恐怖の色は無い。
それら全てが、膝丸に幸せな絶望を齎らすのだ。


「ここは俺にとって、世界一幸せな地獄だ」


 揺るぎない手のぬくもりに、どうしようもない安心感を覚えてしまう。
 ただ一振りの刀剣男士として見つめてくる瞳に、果てしない喜びを感じてしまう。
 自分は決して、そのように扱われていい存在ではないというのに。


「知らんかったん? 酷いお人やで? 姐さんは」


 ーーー姐さんが居らんと駄目になるようにされてまう。
 そう言ってどこか遠くを見つめる明石の口元が歪んでいる。
 自嘲しているのだろうか。
 長らく笑う事を忘れていた明石には、口角を上げることすら難しい。
 明石の言葉は膝丸にもよく分かった。早々に離れなければ、自分も深みにはまってしまう。そうして抜け出せなくなって、あとはただ、ひたすらに沈むだけ。そうなってはもう、逃れる事など出来やしない。
 だから、今のうちなのだ。今ならまだ、間に合うのだ。


「膝丸さんがここを離れても、このあたたかさからは逃れられませんよ」


 思考を読んだかのような明石の言葉に、ギクリと体が硬直する。


「姐さんは膝丸さんがここを離れることは許しても、このあたたかさから逃げる事は許しませんよ。あの人はそういうお人ですからね」


 ーーーやったら、諦めてここに身を置いてもええんとちゃいます?
 口角を上げて、笑みのようなものを形取る。大変歪な表情だった。
 不恰好な笑みを浮かべたまま「それに」と明石が言葉を続ける。


「膝丸さん、もう姐さんの刀になりたいと思ってはるやろ?」


 どくり、と大きく心臓が跳ねる。
 必死で目を逸らしていたものを、眼前に突き付けられて、言葉に詰まる。
 椿を酷い人だと平然と言ってのけるこの刀も、十分に酷い刀だ。この本丸の者達を傷付けないために、ここを離れようとして必死に押し殺していた心を引きずり出したのだから。


「姐さんの為を想うなら、自分の心に素直になった方がええですよ。あの人、既に膝丸さんのこと、好きになってしまってますからね」


 ーーーここで手を離されたら、泣くんとちゃいます?
 おどけたような口調で言われた言葉が、じわりと胸に染み込んでいく。


(こんなおぞましいものを纏った自分に情を傾けてくれているというのか、あの人間は。この恐ろしい膝丸を、自分の刀としたいというのか、あの審神者は)


 何と恐ろしいことなのだろう。
 何と甘美なことなのだろう。
 この化け物のような自分を刀として認めてくれて、あまつさえ刀として振るいたいというのだ。それはあまりにも魅力的で、いっそ寒気がする程のことだ。
 けれど、けれど、けれど。


「何を悩んでますの? あの人がどうしようもない阿呆やという事は、膝丸さんもよぉご存知の筈やで?」


 知っている。知っているからこそだ。
 穢れと怨嗟を纏ったこの身を抱きしめてしまうような愚か者。苦痛を涼しげな顔の下に隠してまで離そうとしない馬鹿な人。
 傷付けられるのも良しとして、それでも手を差し伸べてくるような、どうしようもない人だからこそ、手を離さなければならないのだ。その身を滅ぼさない為に。


「むしろあの人、ここで手を離す方が危険やで? あの人、自分に刀を向けた相手と二人っきりになるような、正真正銘の阿呆やから」
「はぁっ!?」
「そんでもって、この手を取ってって、手を伸ばすようなお人や。誰かが見張ってな、それこそ身を滅ぼしますわ」


 明石の言葉に思わず素っ頓狂な声を上げる。
 刀を向けるような相手と二人きり?
 正気を疑う愚行だ。


「やからね、膝丸さんには手伝って欲しいんですわ、あの人を見張るの」


 馬鹿で阿呆で、どうしようもない愚かな人。
 無茶で無謀で無鉄砲。
 誰かが見張っていなければ、いつの間にか傷付いて、いつの間にか損なわれている。もしかしたら失ってしまうかもしれない。そんな事になりかねない危うさがある。
 それは酷く惜しい事だ。得がたいものを持った稀有な人間を、尊い存在を失うのは。


(地獄の番人さながらだな)


 明石はきっと、椿の為に膝丸を落とそうとしている。這い上がることなど出来やしない深みにまで。椿が膝丸の存在を望んでいるから。
 ああ、どうしてこんなにも愚かな者達が集まったのか。
 穢れや怨嗟を纏った危険な刀剣男士を仲間にしようとするなんて。
 あの主にして、この刀あり。類は友を呼ぶ。


(いや、俺もその一振りか)


 ここまで言われたら、もう落ちてしまおうと、そう考えてしまっているのだから。


「後悔、するなよ」
「しませんよ」
「あの審神者が帰ってきたら、姐様と呼んで、名乗りを上げてやろう」
「さぷらいずってやつです? きっと喜びますよ、姐さん」
「そう、思うか?」
「そうですよ。望んだものが手に入るんやから」


 ならば、と膝丸は思う。
 ならば、これから戦友となる刀の言葉を信じて、高らかに名乗りを上げてやろう。そうして驚いた顔を見て、笑ってやるのだ。
 それくらいしなければ、今まで与えられた幸せな絶望の割に合わないのだから。



 それは演練場で椿達が襲撃を受けているなんて知らない二振りが盛大に取り乱す事になる、ほんの数時間前のお話。




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