「何度でも、何度でも」






 ブギーマン―――――それは一種の都市伝説である。
 親の言うことを聞かない子供に「悪い子の元にはおばけが来るぞ」と脅かすことがあるが、このブギーマンはアメリカなどの英語圏で主に使われる架空の存在であった。
 ベッドやクローゼットの中に潜んでおり、悪い子を攫っていく機会を虎視眈々と狙っているとされる空想上の怪物。暗闇に対して、誰しもが持つ原初の恐怖。
 ツバキの知るブギーマンとはそういうものであった。
 しかしツイステッドワンダーランドでは、このブギーマンが実在するのである。―――――形のない怪物として。





 それは事故であった。召喚術の授業で、本来呼び出すはずだった魔物の召喚に失敗したのだ。
 そしてソレは、授業に必要な備品運びをしていたツバキに襲いかかったのだ。
 咄嗟に教員やグリム達に庇われたものの、ブギーマンの爪先は、確かにツバキの記憶を読み取ってしまった。

 ソレは意外にも、小さな形に留まった。恐ろしい化け物を予想していた魔法士の卵達が拍子抜けして、呆気に取られてしまうくらいに。
 異世界の人間の恐怖を象るのだから、きっと自分たちの知り得ない怪物が飛び出してくると考えていたのだ。NRCの中でも豪胆なツバキの恐怖の顕現だ。自分たちの手に負えるようなものではないのだろうと、そう思っていた。
 けれど、ツバキの恐怖の形は自分たちと似たような姿を取った。―――――人間の形である。


(何だ、普通の人間じゃん)


 咄嗟にツバキを庇ったエースはほっと息をついた。
 俯いているために顔は分からないが、背はそこまで高くない。見慣れない服装は、きっとどこかの民族衣装だろう。NRCで例えるなら、ポムフィオーレの寮服に一番近い形をしている。


(この男が、ツバキさんの恐ろしいもの……?)


 エースと共にツバキの前に立ってデュースが怪訝そうに眉を寄せた。
 デュースから見て、ソレは特質すべきところなど何一つ思い浮かばないような、普通の男だった。
 体格に恵まれているわけでもない。むしろやや痩せ気味で、脅威になるような要素は見当たらない。
 この男の何が怖いのだろう。そう思って、ツバキを振り返ろうとした瞬間、ソレが顔を上げた。

 その顔を見た子供達は理解した。これは確かに“恐怖”であり“脅威”を象ったものである、と。

 ソレは熱に浮かされたような恍惚とした表情を浮かべていた。
 口が裂けるのではないかというほどに釣り上がった口角。濁っているのに、ギラギラと妙な輝きを放つ瞳。
 そして何より、ツバキを見ているのに、決して交わらない視線。

 ソレが何を持ってそのような顔をしているのか分からなくて。その感情の意味が分からなくて。その何もかもが理解できなくて。
 けれどただ一つ分かるのは、ソレの視線が、感情が、自分に向けられていないことだけが、唯一の救いだということだ。

 ツバキの恐怖を象ったソレの、その視線と感情を自分たちに向けられてしまえば、自分たちはきっと耐えられない。気が狂ってしまう。
 その狂気に触れたのは初めてであるはずなのに、彼らは本能でそれを理解した。

 ソレの口が、ゆっくりと動く。それを目撃した幾人から、か細い声が漏れた。
 呪詛でも吐く気だろうかと、誰もが恐怖した。


「つる」


 しかし、発せられた言葉には何の力もなかった。ただ言葉を口にしただけであった。

 ソレが発したのはねっとりとした、執着と言うには生ぬるい、重苦しい声だった。その声を耳にしたエースは咄嗟に口を押さえた。悲鳴を上げそうになったのだ。
 それほどまでに悍ましい声だったのだ。身の毛がよだつという言葉の意味を、真に理解してしまうほどに。

 ミシリ、と背後で不穏な音が響いた。


「つる」


 ミシリ、ミシリ。また、不穏な音が響く。
 恐ろしいけれど、目の前の恐怖よりもそちらの方が全然マシで、男から目をそらしたくてたまらなかったエース達は音の方を振り返った。
 発信源はツバキだった。その握りしめられた拳から、骨の軋む音が響いている。

 ツバキは、あらゆる感情を削ぎ落としたような、能面のような顔をしていた。
 その握りしめられた拳からは確かな怒りを感じるのに、その顔はそれを一切感じさせない。むしろ、それが本当に怒りなのかさえも分からない。


「おれのつる」


 男は口が裂けるのも構わない様子で笑いながら、その言葉を口にした。
 その瞬間、ツバキの拳から、一際大きく、鈍い音が響いた。
 ツバキが動く。恐怖を象ったものであるはずのソレに、何のためらいもなく歩み寄る。


「お前のものじゃない」


 ツバキの声はよく通る、澄んだ声のはずだった。それは変わらない。なのに、今ツバキから発せられた声は、地の底から聞こえてくるようだった。


「私の刀だ」


 男の目の前に立ち、男を見下ろすツバキの顔は見えない。
 けれど、その顔が見えなくて良かったと、その場にいた全員が心の底から思った。

 ツバキが腕を持ち上げる。何の意味も持たないような、何気ない動作だったから、誰もそれを気にも止めなかった。
 その右手が、そっと男の首に掛けられる。平和な世界に生きる彼らは、それが持つ意味を理解するのが大幅に遅れた。
 ゴキ、と吐き気を催す鈍い音が辺りに響く。
 そしてようやく、ツバキがブギーマンの首をへし折ったのだと理解した。


「私はお前のようにならないために、何度でも、お前を殺すよ」


 どしゃり、と形を失って崩れ落ちるブギーマンを、ツバキは冷たく見下ろしていた。




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