慈悲の魔物






「つまり、ジャミルが君を喚んだというのだね?」
「ああ」


 アジーム家の客間に通されたツバキは、アジーム家の当主と、その近衛兵に囲まれる形でジャミルの隣で片膝をついていた。
 ジャミルはすっかり怯えてしまっており、震えながら頭を垂れている。
 小さな背中を撫でてやると、かすかに震えていた身体が少しだけ落ち着きを見せた。そんな二人の様子を、アジーム家の当主はじっと観察していた。

 “隣人“とは妖精族を越える長寿種であり、その長寿さ故に繁殖に重きを置いておらず、個体数が圧倒的に少ない。
 その寿命の長さから、世界に寄り添うものという意味で“隣人”と呼ばれるようになったという。
 近年では絶滅を噂され、もうこの世には存在していないはずの生き物である、というのが一般的に知られている知識だ。

 ―――――つまり、極めて珍しい生き物ということか。
 ツバキから簡単に事の経緯と正体を聞いた当主の男が、値踏みするような視線をツバキに送る。ツバキはその視線に気付いていたが、ジャミルの心の安寧の方がよほど重要だった。男を無視して、ツバキは気遣わしげな眼差しをジャミルに向けていた。


「も、申し訳ありません、旦那様。喚び出すつもりはなかったのです。で、でも、ツバキは危険な使い魔ではありません。それは私が保証します!」


 怯えを含んだ目で、それでも気丈に男を見上げる。そんなジャミルに、男はにこりと笑って見せた。


「どうやらそのようだ。特にお前には優しいようだね」


 当主の言葉に、ジャミルが安堵の表情を浮かべる。何かしらの罰を与えられると思っていたのだ。
 けれど、ほっと胸をなで下ろしたジャミルに、当主の男は無情な言葉を告げた。


「しかし、ジャミル。お前は従者だ。お前に使い魔が必要ないことは分かっているね?」
「…………っ!」


 熱砂の国には身分制度が存在する。従者や召使いという人に仕える階級の人間が存在するのだ。
 アジーム家は権力の象徴として、代々従者を仕えさせてきた一族だ。その中で、従者が主人を超えてはならないという絶対の法を敷いてきた。そこに例外は存在しない。
 ジャミルはとても賢い子供であった。彼がバイパー家でなければ、大成するのも夢ではなかっただろう。
 しかし、バイパー家はアジーム家に仕える従者の一族であり、アジーム家より“下”の存在でなければならない。故に、使い魔を持つことは許されないのだ。それが極めて珍しい種族であるのなら、尚更のことである。


「その使い魔を私に譲渡しなさい」


 ジャミルの表情が、安堵から絶望へと変わる。ツバキを渡したくないという思いがはっきりと見て取れた。

 自分を“特別”にしてくれるという魔物を奪われるというのか。“守りたい”と思った相手を失うというのか。
 嫌だと言いたい。けれど、それは許されることではない。
 何せ、ずっとそうだった。欲しいものはいつだって手に入らなくて。勝利は手放さなければならなくて。そうしなければ、もっと大きなものを失ってしまうから。

 今にも泣き出してしまいそうな程に顔を歪めたジャミルが、何かを口にしようとした、そのとき。


「勝手に話を進めないで貰おうか?」


 不快そうに、ツバキが剣呑な眼差しを男に向ける。近衛兵達がツバキに警戒を見せたが、当主の男はゆったりとした動作でそれを制した。


「ああ、すまないね。君の所有権を私に譲渡することは可能かな?」
「…………主の鞍替えは可能だ。しかし、それには対価が必要となる」
「用意できるものなら用意しよう」


 先程の言葉は嘘だったのかと、ジャミルが更に失意に沈む。
 しかし、そんな思考を否定するような、あたたかくも強い意志を持った瞳がジャミルを射貫く。
 大丈夫だと、任せてくれと、ツバキが笑っていた。
 その頼もしい笑みに安心して、ジャミルはこの場をツバキに任せることにした。
 それを満足げに見やって、ツバキが当主の男に向き直る。


「大量の血が必要だ」
「…………血?」
「そうだ。お前を新たな主に定めるならば、お前の血、またはその血縁の血が必要になる」
「…………どれくらいになる」
「大人100人分は必要になるな。主の鞍替えにはこちらも相応の代償を支払わねばならない。それくらいは用意して貰わなければ割に合わない」


 ―――――何せ、一度交わした契約を反故にするのだからな。商人ならば、その重大性が分かるだろう?
 そう言って、ツバキが酷薄な笑みを浮かべる。その顔を見て、男は自身の顔色を変えた。


「また、永続的な契約を所望しているなら、今後も対価を支払い続けて貰わなければならない」
「使い魔風情が足下を見るな?」
「本来なら主の鞍替えなど、提案された時点で殺していた。けれど、お前は我が主の雇い主だからな。殺すわけにはいかなかったんだ」
「私を殺すと?」


 アジーム家当主たる私を? 熱砂の国が傾いても構わないと?
 そんなことは出来ないだろう、と言わんばかりの笑みを浮かべる男に、ツバキは呆れたように嘆息した。


「お前、何か勘違いしていないか? 私は人では無い。例えお前が尊い存在であろうと、私には砂漠の砂の一粒に等しい。私をお前達の尺度で計るなよ」


 ツバキの魔力が、その場に居る人間達に干渉した。
 呼吸が奪われる。身体の自由が奪われる。瞬きすらも、全てがツバキの思うまま。

 主であるジャミルは、この場で唯一自由だった。ツバキを止められる唯一の存在だった。
 けれど、ジャミルはその事に気付いていない。ツバキが自分以外の人間の自由を奪っていることさえも。
 当主の男に首を垂れたままのジャミルを横目に、ツバキは当主に向かって吐き捨てた。


「私は国が傾こうが、人が死のうが、どうだっていい。私にとって価値のあるものは我が主のみ。我が主が望むなら、お前から解放することも可能だ」


 その“解放”の意味は、魔物の言動から察することが出来る。子供を浚っておしまい、ではない。男を殺すことで“解放”を成立させるつもりだ。
 この魔物の前では、正しく“すべての命が等しい”のだ。
 すべての“人間の命”ではない。砂漠の砂も、路肩の石も、墓に埋められた骨も、未来ある子供も、国を背負う王も、国そのものであっても。そのどれもこれもが“まったく同じ“であるのだ。

 極端なことを言えば、助けて欲しいと乞えば、風に浚われる落ち葉だろうと助けるだろう。滅ぼして欲しいと望めば、母なる海でさえ干上がらせるだろう。
 そこに一切の貴賤はない。すべてが等しく尊いもので、すべてが平等に無価値であるのだ。
 矛盾し、成り立たない理論だが、それがこの魔物の価値観である。

 その中の唯一の例外が、主たるジャミル・バイパーである。彼だけは特別なのだ。彼だけが輝く星なのだ。
 故に彼を仇なす者はこの世に存在してはならないもので、ジャミルとはまた別の意味で特別な存在となるのだ。必ず抹消しなければならない、唾棄すべき存在という特別に。
 そうなっては逃れるすべはない。この世界に生きる場所などない。潔く諦めるより他はない。

 ―――――彼に望ませてはならない。“解放”されたいと思わせてはならない。

 ジャミルはすでにツバキを気に入っているようだった。離れがたいと考えているようだった。今ここで彼からツバキを引き剥がすのは得策ではない。
 今のジャミルはツバキというおもちゃを取り上げられようとしている子供だ。自分のものとして傍に置いておくことが出来れば、ひとまずは不満を納めてくれるだろう。
 ジャミルはまだ幼い。いかように育てることも出来る。いくらでも手の打ちようはあるのだ。焦らず、じっくりと機を窺えば良い。

 男が言葉を発しようとすると、ようやく身体への負荷が無くなった。
 その事にほっと息を吐きつつ、男は薄い笑みを浮かべ、ゆったりとジャミルに目を向けた。


「―――――それでは仕方ない。無理を言って済まないね、ジャミル。この使い魔の主人はお前だ。お前がしっかりと躾なさい」
「えっ、あっ、は、はいっ! 必ず旦那様の期待に応えて見せます!」


 ぱぁっと嬉しそうに顔を輝かせたジャミルに、ツバキも頬を緩ませる。
 そうだ、これでいい。機会が生まれるまで、ツバキのご機嫌を取り続けるのは骨が折れるだろうが、その分の見返りが期待できる。

 ―――――バイパー家は本当に、アジーム家に益を与えてくれる。

 ほくそ笑む当主の男は気付かなかった。すでに男はツバキの“敵”として、悍ましいまでの激情を向けられているという事実に。




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