姐さんがNRC2年生のSAN値を直葬する話






 最初にその姿に気付いたのは、フロイドだった。
 2年生の課題に必要な資料を探す為にやって来た図書室で、その姿は発見された。


「ジェイド、アズール」
「あれは……」
「おやおや」


 そこにいたのはツバキだった。
 ある日突然現れた異邦の者。魔力を持たない珍しい人間。
 雑用係としてオンボロ寮に住んでいるという話だ。教師達の後について荷物を運んでいる姿をよく見かける。
 そう言った手伝いの合間に図書室で資料を読み漁っている姿も。
 その真剣な姿に、声を掛けるのは憚られて、2年生は資料を探し始めた。


(見ているのは世界史か……)


 資料を読み、眉を寄せている。
 それも当然だろう、とアズールは肩を竦めた。
 世界史には戦争の歴史が載っている。それに付随する犠牲者のデータも。


(あの人には、少しばかり刺激が強かったようだな……)


 アズールと同じく、ツバキを観察していたジャミルがほんの少しだけ同情した。
 きっと平和な世界から来たのだろう。争いを好まず、怒りを滲ませることすらしない、温厚な人。
 いつも淡く微笑んでいる、無知で哀れな人というのがツバキの印象だった。


『生温いな』


 は、と誰かの口から声が漏れた。
 このよく通る澄んだ声は、あまり聞き覚えが無い。
 そしてこの脳内に直接響くような感覚は、魔法の類によるものだ。


(そう言えば、失敗した魔法薬を被ってしまったという話があったな)


 これはおそらくツバキの心の声だ。最近の魔法薬学で、自白剤の類を作っていたはずだ。
 失敗作だからか、異邦の人間であるからか、効能が変わったのだろう。
 表情の読めないツバキの内心。気にならない訳がない。
 誰ともなく、ツバキに意識を向けた。


『この世界の戦争は随分と生温い。
 いや、戦争に生温いという表現は不適切か。
 でも、犠牲者の数が余りに少ない。女子供に至ってはほぼゼロと言っていい。
 そんなことがありえるのか?
 そも、どこのページを見ても、戦争をしたという記録が殆どない。
 この数は異常だ。少な過ぎる。
 もしかして戦争の歴史を揉み消したり、犠牲者の数なんかを誤魔化しているのだろうか』


 は???????
 犠牲者の数が少ない? 女子供の犠牲者が居ないことを不信がるとかどう言うこと???
 十分多くの戦争を繰り広げていると思うのだが、少な過ぎるとはこれいかに。


『学生への配慮にしてはやり過ぎだ。これでは歴史を学ぶ意味がない。
 戦争の恐ろしさは、正しく伝えてこそだろう。
 人は愚かだ。何度でも過ちを犯す。故に歴史は繰り返す。
 この世界で最後に戦争が起こったのは彼らが生まれる遥か昔。こちらのように戦争経験者の話を聞くような授業は出来ない。
 しかし、戦争の爪痕くらい、残っていても良さそうなものだが。教科書を見るに、戦争の恐ろしさを物語る遺物のようなものも載っていない。こちらも意図的に載せていないのか?』


 待って???
 戦争経験者が生きているくらい最近まで戦争してたの???
 ごっそりと、心の中の何かが失われた気がした。


『これが本当なら、何て綺麗な世界なんだろう。
 これに偽りがないのなら、何て優しい世界なんだろう。』


 感動したのか、歌うような心の声。
 こっそりと顔を見ると、ツバキは笑っていた。
 聖母のような笑みだった。それは美しい笑みだった。
 けれどその笑みに、底知れぬ寒気を感じるのは何故だろう。


『けれど何故だろう。少しばかり腹が立つ。
 能天気そうだと馬鹿にされたからか?
 世間知らずだと嗤われたからか?
 いいや、違う。
 おもちゃで遊ぶように、笑いながら、簡単に人を殺せてしまうであろう魔法を持って、彼らに攻撃されたからだ』


 そんな事言ったのは誰だ、そこに直れ。
 しかも魔法が使えない相手に魔法を放つなんて何事だ。
 温厚なカリムが目を釣り上げた。


『いや、私も彼らの事をとやかく言う資格はないな。私だって、審神者になる前は平凡な日常を送っていたわけだし。
 けれど私は知っている。彼らが知らないであろう事を知っている』


 サニワとはなんだ?
 ツバキはここに来る前に、既に社会に出て仕事をしていたと言っていたから、職業名か何かだろうか?
 シルバーが首を傾げた。

 それにしても何だか不穏な表現だな、とラギーは思った。
 まるで平和な日常が崩れ去ったかのような言い回しだ。


『私は知っている。嫌と言うほど。

 噎せ返るような血の匂いを。夥しい血で濡れた衣服がどれほど重くなるのかを。
 切り裂かれた傷口の熱さを。吐き気を催す程の痛みを。

 お前を殺してやると告げる、本当の殺意を。
 命を奪うということの重みを』


 ひゅっ、と息を飲む音が聞こえた。
 誰だったかは把握出来ない。その余裕もない。

 待ってくれ。さっきの話し口から、戦争はもう終わっていると思ったのだが。まさか未だに戦争が続いているのか?
 信じたくない。
 けれどそうでもなければ、服が重くなるほどの血なんて浴びる事はないだろう。
 切り裂かれる痛みを知るなんて、よほどの事態だ。


『敵の喉を貫いた時のあの感触を、私は一生忘れない。
 殺してくれと乞われて落とす首の重たさを、最期の時まで抱えて生きる』


 ひぃ、と引きつった声をあげたのは誰だろう。

 敵を殺したのか。この無害そうな、穏やかな微笑みが似合うこの人が。
 殺してくれと願われて、味方であろう者を殺したのか。NRCには似つかわしく無い、このあたたかな人が。

 壮絶過ぎる内容に、何人かが膝をついて嗚咽を漏らす。
 耐え切れずに吐いた者もいたようだ。

 そういえばこの人は、確か19歳と言っていなかったか。
 年上ではあるけれど、年齢にそこまでの差はない。何ならこの学園には20歳の留年生さえいる。
 その事実を思い出し、また何かが大幅に削られた。


『だから腹が立つんだろう。殺す覚悟も無いのに、私に向かって攻撃してきたことが。
 遊び半分に使う力が、どれ程危険なものであるかを知らずに振るう暴挙が。
 私に殺されるという可能性を考えない愚かさが。
 彼らはあまりにも軽薄だ。全く先が見えていない。
 いや、或いは周囲が見えていないのかもしれない。
 迫り来る凶刃は、何も正面からとは限らないのに。その悪意が向かう先が、自分自身とは限らないかもしれないのに。
 彼らはあまりにも幼稚で、滑稽だ。いっそ哀れな程に』


 待って待って待って。
 あまりの情報の多さに涙が引っ込んだ。
 自分を攻撃するつもりなら殺すつもりで来いって事??? しかも殺される覚悟を持って???
 確かに攻撃するのは良くないけれども、考えが修羅のそれ。
 しかもサラッと本人以外に攻撃する事も考えていませんか?
 本人同士だけで終わらないの、そちらのお国。
 ツイステッドワンダーランドは未だに決闘方式が残っていたりする世界である。修羅の国と違って一族郎党祟ったりはしない。


『まぁ、別に、どうでもいいか。
 彼らもいずれ学ぶだろう。自分達の行使する力が、いかに恐ろしいものであるかを。
 それが人を殺してしまう前か、手遅れになってからかは知らないがな。

 そう、どうでもいい。私の命を、脅かさない限りは』


 自分達は間違った力の使い方をしていないだろうか。
 一歩間違えれば、相手を傷付けたり、殺してしまうような使い方をしていなかったか。
 過去を振り返り、覚えがあるものが顔を青冷めさせる。

 そして最後の一言でその場にいた者全てが戦慄した。

 あ、この人本気で殺すつもりだ、と。


「じゃ、ジャミル、ジャミル……!」
「ああ。スカラビア寮生に、絶対に敵対するなと厳令させよう」


 顔を青くしたカリムがジャミルに縋り付く。
 そんなカリムを庇うようにしたジャミルが、厳かに告げた。
 その他の者も、ツバキの危険性を伝えるべくスマホに手を伸ばす。
 特に喧嘩っ早いサバナクローと短気な者が多いハーツラビュルは危険だ。犠牲者が出るかもしれない。


『………………ああ、』


 か細い、吐息のような声だった。
 一瞬でも気を逸らしていれば、聞き逃していただろう程に儚い音だった。


『ああ、どうか。これ以上私に命を背負わせないでくれ』

『審神者になると決めたのは私だけれど、背負うものがあまりにも大きくて、膝をついてしまいそうなんだ……』

『自分で選んだ事なのに。たくさんの命を踏みにじっている癖に。
 進まなきゃいけないのに。立ち止まりたくないのに。
 これ以上傷付きたくないだなんて、あまりにも自分勝手だ』


 もうこれ以上泣かせないでくれ。
 ラギーは切実に願った。

 好きで命を奪っている訳ではないのは十分に伝わったから。
 一瞬でもヤバい人だとか怖い人だとか思ってしまった事を謝るから。
 攻撃した奴はボコボコにして土下座させるし、何なら手出し無用の約束をしてもいい。
 だからこれ以上、精神的に痛め付けないでくれ。


『ああ。早く帰りたいなぁ……。

 こうしている間にも、誰かが失われているかもしれない。
 そうなってからじゃ遅いんだ。
 だって彼らの代わりはいないのだから。

 早く帰らせてくれ。
 もう何も、失いたくないんだ』


 かひゅっ。リドルは自分の呼吸音がおかしくなったのが分かった。

 失ったのか、この人は。
 戦いの中で、かけがえのない人を。
 残してきているのか、こうしている間に失われてしまうかもしれない危険な場所に、大切な人を。

 アズールはようやく分かった気がした。
 この人が寝る間も惜しんで資料に塗れて過ごしている訳を。
 学園の生徒に、という学園長の言葉を蹴ってまで帰る方法を探す理由を。
 例えそこが地獄のような場所であろうとも、全ては大切な人のもとへ帰るため。 


「「「うわ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぉん゛!!!!!」」」


 全てを察した彼らは泣いた。幼児も真っ青な泣きっぷりで。
 それはまるで産声を上げる赤子のようだった。


「っ!? な、なんだ!?」


 その声に驚いたツバキが背後を振り返る。そして絶句した。
 だってみんな泣いている。その場にいる全ての生徒達が。しかも酷い者だと吐瀉物まみれだ。
 一体何があったというのか。先程まではそんな素振りは無かったというのに。


『こ、この短い時間の中で、何があったと言うんだ……!?』

『と、取り敢えず泣き止ませないと。しかし、何が原因で泣いているのか分からない以上、慰める事も出来ないな……。
 取り敢えず、落ち着かせるだけ落ち着かせよう』


 資料を置いて、ツバキが駆け寄ってくる。
 まず一番近くにいたシルバーの髪を撫でながら、リドルの涙を指で掬う。
 荒れ放題の手を見て、おばあちゃんを思い出したラギーはとうとう崩れ落ちた。


「ああ、どうしたんだ、何かあったのか? 目を擦ってはいけない。目が腫れてしまうから」

「吐いている者もいるな。先生に連絡がつく者はいるか? 電話出来そうに無かったら私が代わるから、電話だけ貸してくれないか?」

「吐いた者は楽な体勢を取っていてくれ。けれど、仰向けは好ましくない。吐いたもので喉を詰まらせる危険がある」

「泣いているだけの者は具合は悪くないか? 取り敢えず、落ち着こうか。大きく息を吸って、ゆっくりと吐くんだ。……そう、上手だな」

「よしよし、ゆっくりでいい。慌てなくていいからな。……うん、いい子」


 頭を撫でる手はひたすらに優しかった。
 涙を拭う指先は荒れているのに、ちっとも痛みを感じない。
 母を思わせるような柔らかな手つき。大きいようで、思っていたよりも小さい手は包み込むような、陽だまりのあたたかさを持っていた。


「よし、泣き止んだな。それで、一体何があったんだ?」


 眉を下げ、心の底から心配しているのが分かる声色だった。
 心の声も同様だった。こちらを心配する言葉に偽りは無く、ヴィランたる彼らはちょっと浄化されかけた。

 待って待って。優し過ぎない?
 この人本当に戦争してるの? あまりにも向いてなくない???
 こんな人まで戦争しなくちゃならないとか、ツバキの世界は地獄か何か???


「ミ゛ッッッ」


 ふと、ある事に気が付いたジェイドが、蝉の断末魔のような声を上げた。
 丁度頭を撫でられていたフロイドが、ジェイドの視線を追って「ヒギィ」と悲鳴を上げた。
 彼の視線の先には、ツバキの腕がある。大きな傷を残した、ツバキの腕が。


「ん? ああ、これか。気にしないでくれ。もう治っているから」

『刀傷なんて見たことないんだろうな。彼らには気分の良いものでは無いんだろう。けれど、私にとっては大切で、かけがえのないものなんだ。

 彼らは消えて欲しいと願っているけれど。誰にも理解されないだろうけれど。
 けれどこれは、私の誇りなんだ。

 初めてこの手で掴んだ、勝利の証なんだ』

「気分を悪くしたならすまない。これからは目に付かないよう気を付けよう」

「「「そんな事ないからぁっ!!!!!!!」」」
「「「そのままでいいよ!!!!!!!」」」

「お、おう?」


 あまりの形相と勢いに、ツバキが圧倒される。
 泣いたり吐いたりはしているものの、差し迫った危機は無さそうだ。
 その事に安堵していると、またもや嗚咽が激しさを増す。
 一体どうしたというのだろう。取り敢えず教師に連絡しなければ。

 えぐえぐと泣きながら縋り付いてくるカリムやフロイドをあやしながら、リドルに借りたスマホで教師と連絡を取る。
 何と説明すれば良いものか。頭を悩ませながら、一先ずの現状のみを簡潔に伝える。嘔吐している者もいるので、出来るだけ早く来て欲しい旨を伝えて。


「先生にも連絡したから、もう大丈夫だぞ」


 柔らかな笑みは不思議な安心感があった。
 心休まる場所に辿り着いたときのような、ほっとする心境だ。


「あれ……?」


 ツバキに抱き寄せて貰って背中を撫でられていたカリムが、ふと違和感に気付く。
 何だかこの人、身長の割に細くないか、と。
 ほっと一息ついた事で余裕の出来たフロイドも、カリムと同じような考えに至る。
 男にしては柔らかくないか、と。


「うん? どうした?」


 見上げた顔は中性的だ。下手をすればポムフィオーレ寮生の方が女性的に見えるかもしれない。
 けれど、喉仏のないすっと通った喉元は、どう見たって女性のそれだ。
 この人もしかして、女性なのでは???


「オアッ!!?!?」
「うええっ!!?!?」


 顔を真っ赤にして、フロイドとカリムがツバキから距離を取る。
 突然距離を置かれたツバキはきょとんと目を瞬かせた。
 その表情は酷く幼くて、下手をすれば年下にさえ見える。下に兄弟のいるもの達に100のダメージ。


「カリム?」
「フロイド? どうしたんです?」


 ジャミルとジェイドが訝しげに眉を寄せる。
 おろおろと狼狽る二人にツバキが何かしたのかと疑うが、ツバキの方も驚いていた。
 ツバキが何かしたという訳ではないようで、けれど明らかにおかしい二人の様子に顔を見合わせた。


「いやあの、えっと、その……」
「も、もしかしてさぁ……。女の人、だったりする…………?」

「「「…………はぁ?」」」


 フロイドの言葉に、2年生が一斉に首を傾げる。
 この学園は男子校だ。いくら手違いを起こすようなポンコツと言っても、歴史ある闇の鏡だ。性別までは間違うまい。

 非礼を詫びようとツバキに顔を向けて、アズールは絶句した。
 ツバキの目が据わっていたのだ。凍てつくような冷たさで。
 けれど次の瞬間にはいつものように微笑んでいて、目の錯覚を疑った。

 ちょっと待て。その反応は、まさか本当に女の人なのか?
 普段のツバキを思い出す。
 所作は美しく、堂々としている。
 大胆でいて繊細。どちらとも取れる振る舞いが多い。
 ツバキはどこまでも中性的だった。

 ツバキの反応を確かめる為に、みんながツバキに集中する。
 ほんの少し、ツバキの瞳に警戒の色が乗った。


『さて、学園長や教師達も気付かなかったから好都合と思って隠していたけれど、どうしたものかな。
 こちらの女性の扱いが分からない。ここは男子校だ。こちらのように男尊女卑の世界だったら目も当てられないな』


 女 の 人 だ っ た。
 しかも、またもや不穏な空気をビシバシと感じる。
 ダンソンジョヒが何なのか分からないが、きっと良くないものに違いない。
 ツバキの世界は、本当に地獄なのだろうか。


『そうでなくとも、女が男子校にいては何かと問題になるだろう。
 ここを追い出されたら、行くあても無く野垂れ死ぬしかない。
 誤魔化されてくれるだろうか。
 いや、誤魔化すしかないな。
 生きて彼らと再会する為ならば、何だってしてやる覚悟だ』

「…………よく、間違えられるんだ」


 柔らかい、いつもと変わらない笑みだった。
 不安など何一つ無いと言うような、陽だまりの微笑み。
 けれどその裏には、バレてくれるなと、勘違いだと言ってくれと、そう希う心の声が聞こえるのだ。
 それは言い様の無い怯えと緊張で震えていて、彼らはこう言うしか無かった。


「「「あなたは男!!!!!!!」」」
「え? あ、ああ、そうだが?」


 ほっと安堵するツバキに、デデニー男子達は死んだ。
 自分は女の子だと言わせてあげたい。それでも大丈夫だと伝えてあげたい。
 けれどツバキの心境を慮るに、ここで性別を暴くのは逆効果だ。
 彼女は少しでも安全に、確実に帰りたいのだ。彼女の帰りを待つ人達のもとへ。


『どうやら、誤魔化されてくれたようだな……。この顔に産んでくれてありがとう、母さん。
 もう二度と会えない、愛する人よ』

「「「っっっ!!?!?」」」


 亡くしてるのは母親かぁぁぁぁぁ!!!
 悲鳴をあげそうになる口を必死に塞ぐ。
 まさかここに来て更なる追い討ちに遭うとは思わなかった。
 彼らのSAN値はもうゼロを通り越してマイナスだ。


『しかし、まさか勘付かれるとはな……。女と分かる者は少ないのに……。
 このままだといずれボロが出そうだ……。

 女とバレてもバレなくても、少しでも女らしい部分を削った方がいいな。その方が安全だ。
 一人称を今更変えるのは悪手だろう。
 手始めに髪でも切るか?』

「「「それは駄目だ!!!!!!!」」」
「っ!?」


 ハサミの様な形の指で、髪を切り落とす真似事をしたツバキの手を止める。
 咄嗟に腕を掴んだリドルが、想像よりも細い腕に息を飲んだ。

 髪は女性の命だ。
 美しく保とうと努力を惜しまない女性は多い。
 そうして美しく磨き上げた宝物を見て欲しいという女性が多く、必然的にツイステッドワンダーランドの女性達は長髪が多い。

 だからと言って、短髪の女性の髪が美しくない訳ではない。
 丁寧に磨き上げられた髪は、短くとも艶々と輝いていて美しい。
 そんな風に、女性は髪を大切にするものなのだ。だから、こんな風にあっさりと手放して良いものではないのだ。


「か、髪を切るなんてしてはいけない! 駄目だったら、駄目だ!」
「そ、そうですよ! こんな綺麗な黒髪を切るだなんて!!」


 リドルとアズールが必死に説得を試みる。

 何故必死なのだろう。
 不思議そうにしているツバキに胸が締め付けられる。
 だって戦争を経験しているというのに、殺し殺されの争いをしているというのに、その仕草はあまりにも幼い。
 彼女はどこまでも、自分達と同じ"子供"だった。


「く、黒髪は珍しいんスよ! 切るなんてとんでもない!!」
「そうなのか?」


 ラギーが咄嗟に放った一言に、ツバキが食い付く。
 よくやった!と、今日のMVPを内心で褒め称える。
 ツバキが考える素振りを見せて、髪から手を離した。


『よし、なら女だとバレたら髪を切ろう。一人称も変えよう。
 今以上に徹底して、男のように振る舞おう。
 性別を感じされる部分は徹底的に削ぎ落とそう。
 この世には私の想像を絶するおぞましい輩が存在している。
 私に嫌悪を示しているはずなのに、袋を被せれば女として扱えると宣うような、最悪の男だっているのだから。
 そう言った者から害されぬように、自分で自分の身を守らなければ。
 だってここには、頼れる仲間が居ないのだから』


 彼女の世界は地獄だった。
 袋を被せればって何? 女性に何をしようって言うの?
 体だけなら女として扱えるってこと?
 それってさぁ……。それってさぁ……!!!

 この世界は女性に優しいのだと。そんな風に考える必要はないのだと、そう伝えたい。伝えたいけれど。
 彼女は怯えている。女性だと知られることを恐れている。
 こちらから女性だと指摘するのは彼女の為にならない。自分から女性だと明かしても大丈夫だと、そう思わせなければ。
 そうでなければ、彼女の心は決して安寧を得られない。


「もうやだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「うえぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 辛い。あまりにも辛い。
 アズールは思わずバブったし、リドルは大声を上げて泣いた。
 カリムの顔からは表情が抜け落ち、ジャミルが俯いて顔を覆う。
 ジェイドとフロイドは膝をつき、立ち上がれそうもない。
 シルバーは机に突っ伏して吐き気と戦っているし、ラギーは温もりがほしくてツバキの足元で丸まった。

 阿鼻叫喚の地獄絵図がそこにはあった。


『もしかして、私が泣かせてしまっているのか……?』

『どうしよう……。教師は、先生はまだ来ないのか……?』

『ああ、弱気になってはいけない。不安は気取られやすいのだから』

「よしよし、泣かないでくれ。君たちの泣く理由が分からないから、君たちの慰めようがないんだ」


 あなたは悪くない。悪くないんだ。
 ただちょっと、胸が苦しいだけなんです。


『涙はあまり好きじゃないんだ。どうしようもなく思い出してしまうから。
 無力な自分を。
彼らをこの世に引き留めるだけの理由になれない人間であることを。

 いつだって何一つ救えやしない、私の不甲斐なさを』


 ついに、全員の涙腺が決壊した。


「「「うわああああああああああああん!!!」」」

「Bad boy!!! 何事だ!!!」


 その瞬間、図書室の扉が大きく開け放たれた。
 ツバキの連絡を受けて駆けつけた、クルーウェルだ。

 クルーウェルはツバキから連絡を受けたとき、ユニーク魔法か何かの影響だろうと考えていた。
 しかし図書室からは魔力の気配はなく、魔法薬を使用したような形跡もない。
 けれどツバキ以外の全員が泣いている。
 プライドの高いリドルやアズールから、涙からは縁遠そうなジェイドやシルバーまで。全員がもれなく涙に濡れていた。


『良かった、やっと来てくれた……』


 ツバキが安堵の息を漏らす。
 脳内に響く声に一瞬ドキリとしたが、ツバキが魔法薬を被ったのを思い出し、平静を装う。


「仔犬、説明は出来るか?」
「それが、私にもよく分からなくて……」

『本当に突然泣き出したんだよな……。
 でも、この泣き方は怒りとは違う。喧嘩して泣いている訳ではないと言うのはわかる。
 これは悲しいとか、苦しいとか、そう言った泣き方だ。
 泣き止ませるには兄弟や信頼出来る人に抱きしめて貰うのが一番良いのだろうが、どうしたものかな……』


 困ったように眉を下げながら、けれども冷静な分析をするツバキに目を見張る。


『ああ、いけないな。私が一番焦っていた。
 大人が来て一番安心したのは私の方だ。
 いつも通りやればいいだけなのに、それが出来ていなかった。
 そうだ、いつも通りでいいんだ』

「ほら、先生が来たよ。もう大丈夫だから。落ち着いて息をするんだ」


 ツバキは足元に蹲るラギーの背中を撫でつつ、アズールとリドルをそばに引き寄せた。
 大丈夫だと、怖いものは何も無いと、そう言い聞かせる声は、どこまでもまろく柔らかいものだった。
 棘を削ぎ落とし、毒を抜き、あたたかく、優しいものだけを集めたような、そんな声。
 安心させる為だけに紡がれた声は、ジャミル達の涙を確実に止めていった。


「もう、大丈夫だろうか?」
「はい、ご迷惑をお掛けしました……」
「良かった。泣き顔も綺麗だけれど、折角の美貌だ。笑っていた方が、きっとずっと美しい」
「ぅえあっ!?」


 赤面するアズールの頬を撫でて、完全に泣き止んだのを確認する。
 涙が止まったのを認めると、次はリドル。足元のラギー。
 一人一人丁寧に涙を拭ってやって、全員の涙が止まったことを確認すると、ツバキはクルーウェルの前に立った。


「すいません。取り乱して、お騒がせしました。彼らが泣いていた理由は私には分かりません。きっと何か事情があるのだろうと思います。一人一人と向き合って、話を聞いてあげて下さい」
「あ、ああ、うむ。そうしよう。しかし、仔犬。なかなかの手際だったな? 保育士でもしていたのか?」


 くつくつと喉で笑うクルーウェルに、ツバキもほんのりと笑う。


「そう言った仕事の経験はありません。けれど、よく泣く子と接する機会が多かったから、その経験が生きたのかもしれませんね」

『出来る事ならこんなスキル、身に付けたくなど無かった。それだけ多くの者が傷付いたという証拠に他ならないのだから』


 ツバキの心の声に、クルーウェルが目を見開く。
 カリム達はまたも涙腺が刺激される気配に、これ以上泣くまいと顔を覆ったり天を仰いだ。


「私がいては話しにくいと思うので、私はこれで失礼します」

『ああ、早く帰りたい。

 彼らはようやく虐げられる夢を見ずに、朝日を迎えることが出来る様になってきたんだ。
 夜中に啜り泣く声を聞かずに済むようになってきたんだ。
 絶叫を上げて飛び起きることも。錯乱して暴れ出すことも、随分と減って来たんだ。

 その傷は一生消えないだろうけれど。
 これからも悪夢に苛まれることは明白だけれども。
 けれど確かに、乗り越えて来たんだ。
 あとはもう、前に進んで行くだけというところまで』

「後は、よろしくお願いします」

『なのに何故、私はここに居るのだろう?』


 パタン、と扉が閉まる。
 折角ツバキが泣き止ませてくれたのだからと頑張っていたフロイド達だったが、ツバキの姿が見えなくなった瞬間、彼らはまたもや一斉に泣き出した。

 理由など聞くまでもない。
 呆気に取られて挨拶一つ出来ずにツバキを見送ってしまったクルーウェルですら、最後はちょっとだけ泣きそうだったのだから。

 この後、どうにかこうにか泣き止ませた2年生達から話を聞いて、クルーウェルは吐くほど泣いた。




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