慈悲の魔物






 それは突然の出来事だった。突然視界がぐにゃりと曲がって、奇妙な浮遊感に襲われて、意識が遠のいていく。そして次の瞬間にははっきりと意識が覚醒した。


「はっ………?」


 しかし、意識を失う直前とは全く別の場所、状況にいて、ジャミルは間の抜けた声を上げた。
 何故なら彼は、雲よりも遙か上空から、地面に向かって真っ逆さまに落下していたからだ。
 現在の自分の状況を理解したジャミルは、潜在的な恐怖に襲われた。このまま落ちればどうなるかという、死への恐怖であった。


「ツッ………、ツバキ!!!!!」


 必死になって、自身が最も頼りにしている人物の名を叫ぶ。すると視界の端に淡い色の花びらが舞い、花の名を冠した魔物が顕現する。


「応」


 人の理の外を生きる魔物は、いかなる状況でも冷静さを失わない。このままでは肉塊になってしまうと言うような危機的状況でも、ツバキという魔物は常と変わらずに主の呼びかけに応えた。
 そんな使い魔の様子に、ジャミルの心が幾分か余裕を取り戻す。ツバキの無感動とすら思わせる冷静さは、この使い魔がいるならば、きっと酷いことにはなるまいという安心感を与えてくれた。


―――――こ、これは一体どういう状況なんだ!? 俺はついさっきまで、学園の廊下を歩いていたはずだが!?
―――――ああ、その通りだ。恐らく、喚ばれてしまったんだろうな。
―――――よ、喚ばれた………?


 声を出すのも辛い状況下で、念話によって会話を続ける。
 ジャミルは彼自身の主張の通り、このような事態に巻き込まれる直前まで、学園の廊下を歩いていただけなのだ。何か特別なことをしていたわけではない。故にこのような状況に陥る心当たりなどあるわけもなく、上手く現状を飲み込むことが出来ない。
 しかし、世界で最も長寿を誇るツバキには、この事態に覚えがあるようだった。


―――――稀にあるようだよ。異なる世界にまろび出てしまうこと。
―――――…………!


 その言葉には、ジャミルも心当たりがあった。魔法のない世界から、このツイステッドワンダーランドに呼び込まれてしまった、監督生という存在だ。
 最初はそのようなことがあるのかと疑惑を抱いていたが、監督生はツイステッドワンダーランドでは常識として浸透していることを全くといって良いほどに知らないのだ。
 何よりツバキが「珍しいこともあるものだ」と言って、異世界の存在を否定しなかった。監督生を稀人として扱ったのだ。
 ツバキを誰よりも信頼しているジャミルにとって、その事実が監督生が異世界人である事の何よりの証拠となった。


―――――…………つまり、俺は今、監督生と同じような状況にある………?


 ゾッとするような答えに行き着く。
 それは地面が迫って来ることよりも、ずっとずっと恐ろしいことのように思えた。


―――――いや、あの稀人よりはマシそうだよ。


 逞しい腕がジャミルの身体を支える。そして指差す先を見れば、そこには自分と同じように空を落ちていく学園の生徒達がいた。同級生のアズールにフロイド、先輩に当たるリリアである。
 どうやら彼らは意識を失っているようで、その身体は弛緩しきっていた。


―――――とりあえず彼らを起こそう。そろそろ地面が近づいてきた。


 パチン、と指を鳴らす。すると三人は、電流でも受けたような勢いでパチリと目を開けた。


「あれぇ? ウミヘビくんじゃん。ツバキさんもいる~」
「は? え? 僕は一体何を………?」
「む……? ここは……?」
「寝起きで悪いが、状況を理解して欲しい。周りを見てくれ」


 上手く事態が飲み込めていないのか、覚醒しきっていないのか、三人は寝ぼけたような心地だった。
 しかし、ツバキの言葉に周囲を見回し、状況を理解して目を見開いた。


「はっ………? はああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!?!?」
「え、何? 何が起きてんの?????」
「気持ちは分かるが、今は混乱している場合ではない! もうすぐ地面じゃぞ! 着地の瞬間に備えよ!!」
「君も落ち着いてくれ。大丈夫だから」
「「「あなたは何でそんなに冷静なんですか/なの/なんじゃ!!?!?」」」


 三者三様の反応に、ツバキが苦笑する。そんなに慌てなくても、とどこか微笑ましげだ。
 規格外のツバキならば慌てる必要もないのだろうが、普通の生き物の感性ならば、もう一度気絶したっておかしくはない状況だ。至って普通の感覚をしているジャミルは、アズール達に共感していた。お前はもう少し取り乱せ。


「ツバキ! 着地を任せてもいいか!!?」
「応。君達も下手に魔法を使うな。私に任せろ」
「お、お願いしますぅぅぅぅぅううううう!!!」
「安心感がやべぇ~~~! オレのこともおねがぁい」
「ああ」
「わしもよろしいので?」
「もちろん。君も私に任せてくれ」


 パチン、と一つ指を鳴らす。
 すると風を切るように落ちていた身体が、ふわりと浮き上がった気がした。
 あとは、するすると空を滑るように、ゆっくりとなにもない空間を降りていくだけだった。
 すとん、と何の衝撃もない着地は、空に放り出されたときよりもいっそ現実感がない。指先一つで、あっという間に命の危機を脱してしまったからだ。


「す、すげぇ………!」
「な、何の魔法を使ったのかさっぱり分からない……! 防衛魔法? いや、浮遊魔法の応用か?」
「いや、恐らく防衛魔法と浮遊魔法の複合じゃな。それとは別に、わしらの身体に負担が掛からぬよう、防衛魔法を使用しておったな」


 感嘆するフロイドに、ツバキの使用した魔法を分析するアズールとリリア。ジャミルは自分の足がしっかりと地面についている事実にほっとして嘆息していた。


「ありがとう、ツバキ。おかげで助かったよ」
「ふふ、どういたしまして」


 ジャミルの言葉をきっかけに、アズール達もツバキに感謝を述べる。
 一通りやり取りを済ませて、改めて状況の確認を行おうとしたとき、ツバキがすっと目を細め、ジャミル達から視線を外した。
 その動作に対する疑問を口にする前に、その答えは向こうからやってきた。


「いやはや、白昼堂々この学園に不法侵入してくるとは。不埒者ながら天晴れですね」


 ばさり、と布の翻る音が響く。
 見れば、鴉を思わせる衣装を身に纏った男が、底冷えのするような笑みでツバキたちを歓迎していた。


「さぁ、名乗っていただきましょうか」


 ―――――あなたたちが、一体何者なのか。
 黒衣の男―――――ディア・クロウリーが、確かな敵意を持ってツバキたちと対峙した。




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