慈悲の魔物






 雲一つ無い晴天のグラウンドで、ジャミルは召喚術の授業を受けていた。
 召喚術の授業は使い魔に興味のある者、将来使い魔を従えたい者が受ける授業である。
 召喚術は向き不向きがはっきりと分かれるため、必須科目では無いのだ。
 しかし使い魔を連れた生徒は必須科目とされている。使い魔を連れているからこそ、知らねばならないことが山ほどあるからだ。
 また、安全対策として、召喚術の授業は教師二名体制を敷いている。クルーウェルを担当教師として、副教官にはバルガスが付いていた。

 この日の授業は、それはもう溢れんばかりの人数が参加していた。何せ話題の新入生―――――ジャミル・バイパーが参加するためである。
 ジャミルの使い魔に興味を持つ生徒の一人であるクラスメイトのアズール・アーシェングロットも、勿論この授業に参加していた。
 ジャミルの隣で、にこにこと貼り付けたような笑みを浮かべている。


「今日は僕達新入生の適正と実力を見るために、実際に召喚陣を敷いて、召喚まで行うそうですよ」
「へぇ」
「ジャミルさんはすでに立派な使い魔をお持ちのようですから、得意中の得意なのでは?」
「まぁ、苦手では無いと思うが」


 ジャミルはツバキを召喚してから、召喚術の勉強にも励んでいた。特に召喚陣については、一人前の魔法士顔負けのものを描き上げる事が出来る。ツバキ専用の魔法陣を作り上げるために、古今東西ありとあらゆる魔方陣を描き上げてきたからだ。
 自分の呼び声に応えてくれて、たくさんの愛情を注いでくれた。そんな相手を出迎えるのに、適当なものなんて使えない。けれど子供の時分では返せるものは限られている。ならば出迎えのための門くらい、美しく飾り立ててあげたい。そんな思いで特別な門を作り上げたのだ。
 まぁ、基本的に傍に居るから、あまり使うことは無いのだけれど。
 閑話休題。

 さて、そんなジャミルだが、彼はツバキの他に、生き物を召喚したことはない。ツバキ一人いれば十分だったからだ。
 無機物ならば容易く呼び出すことも可能であるし、それなりに適性はあるのだろう。

 クルーウェルの号令と共に、召喚陣を描いていく。最初の授業であるから、最もポピュラーな魔法陣であった。
 すでに履修済みの2、3年生はすいすいと陣を描き込んでいく。中には一瞬で陣を浮かび上がらせるような優秀さを見せる生徒も見受けられる。
 1年生の中には初挑戦の者も当然いるために、苦労している生徒が多い印象だ。
 ジャミルは慣れた手つきで淀みなく。その隣で陣を描くアズールも、1年生の中ではかなり速い。

 1年生の中で一番に陣を描き上げたジャミルがクルーウェルに声を掛ける。魔法陣の仕上がりを確認して貰うためだ。
 クルーウェルが魔法陣を確認し、満足げに大きく頷く。


「グッボーイ! 完璧だ、バイパー。早速喚び出してみろ」
「分かりました」


 さて、何を喚び出そうか。ジャミルが口元を緩める。
 ここで契約を交わすつもりは無い。いつかは砂漠の魔術師と同じように赤いオウムを飼いたいと思っているけれど、それは大人になってからで良い。
 とりあえず、いつか赤いオウムを喚び出すときの練習として、今回は鳥を喚んでみようか。
 そんなことを思いながら、鳥を喚び出す為の詠唱を唱えようとした瞬間、花びらと共にぬっと現れた片腕が、美しい召喚陣をぐしゃりと握り潰した。


―――――私以外に使い魔が必要か?


 聞こえてきたのはいつもと変わらぬ朗らかな声。なのに寒気が止まらないのは何故だろう。
 答えは簡単である。ツバキは嫉妬しているのだ。自分以外の使い魔となり得る存在に、仄暗い感情を抱いているのだ。
 ここで何かを呼び出せば、ツバキは躊躇うこと無く応召者を殺すだろう。平和なグラウンドが、阿鼻叫喚の混沌へと変わるだろう。
 そう悟ったジャミルは、ゆっくりと教師陣へと顔を向けた。


「…………すいません。使い魔が嫌がるので、喚び出さなくても良いですか?」
「あ、ああ、うむ。バイパーはすでに自分の使い魔を手に入れている。無理に喚び出す必要はないな」
「そ、そうだな! 授業が元で使い魔と不仲になってはいけないからな!」


 教師陣にはツバキがどう言った存在なのか周知されているため、ジャミルの意見は快く受け入れられた。
 そのため、ここで意見を却下すれば、どのようなことになるかも想像が付く。魔法士は想像力が命なので。


「ジャミルさん、今のが貴方の使い魔ですか? 全貌を見ることが出来なかったのが残念ですが」
「ああ、そうだよ。器用に片腕だけ目眩ましの魔法を解いたんだ」
「いや、器用すぎません?」


 突如として現れた使い魔の片鱗に、生徒達がざわめく。
 やれ人型をしていた、やれやはり妖精族だ。そんな声があちこちから聞こえてくる。
 けれどそんな声に構う暇は無い。今はツバキが最優先事項だ。


―――――すまない、ツバキ。君の気持ちを考えていなかった。
―――――いや、私こそ狭量ですまない。うん、でも、私以外の使い魔は要らないと思うんだ。
―――――……ペットなら良いか?
―――――赤いオウムなら喜んで。
―――――ふふ、ありがとう。


 機嫌を損ねていないことにほっと息をつく。
 そしてすぐに、早々機嫌を損ねるタイプでは無かったな、と思い直す。ツバキは負の感情を持続させるのが不得手で、常に明るい方を目指そうとするのだ。
 雪の中で咲く花の名を冠しているくせに、ひまわりみたいな奴だな、と口元が綻ぶ。ひまわりの、太陽を追いかけるところがそっくりだ。


「バッボーイ! 何をしている!!?」


 突如、クルーウェルの怒声が響き渡る。
 見れば、3年生の輪の中の一人が、明らかに基礎召喚陣よりも数段上の難易度の召喚陣を敷いていた。


(あれは、冥府の生き物を召喚する召喚陣か……)


 その生徒は召喚陣を敷きながら、ちらりとジャミルに目を向けていた。その瞳には嫉妬の色が滲んでいる。
 ツバキが不可視の魔法を解いたときに漏れ出た膨大な魔力に、彼はプライドを刺激されたのだろう。
 この学園の生徒は総じてプライドが高い。自分の得意科目で新入生が良い成績を収めているのが鼻についたようだった。


(腕だけでも姿を現したのは早計だったかな……)


 この程度で嫉妬するという人の心の脆さに苦笑する。そして、その程度のことすらも理解できなくなってしまった自分に、ほんの少し寂しさを覚える。


(いや、今はそんなことはどうでも良い。この程度で馬鹿をする者が出ると言うことは、この事態を収めるために動けば更に愚か者を発生させる可能性があると言うことだ)


 ジャミルに嫉妬の感情を向ける生徒の召喚陣は冥府にまつわる生き物を召喚するものである。
 基礎召喚陣はかなりの速さで描き上げており、成績は優秀であるのだろう。
 しかし、ジャミルへの劣等感で気がそぞろになっている。その上、実力と召喚する相手の格が伴っていない。いくら優秀であっても、これらの要素が合わされば、失敗することは明らかだ。


(まぁ、主に害を為すなら手を下せば良いか)


 そのうち、瘴気と腐臭の入り交じった悪臭が辺りに立ちこめる。
 ぬちゃり、と嫌な音を立てながら現れたのは、三つ首の犬。“底無しの穴の霊”の名を冠する冥界の番犬だった。


「け、ケルベロス!?」
「いや、成り損ないだ。けど、どっちにしろ不味い!」


 召喚された獣を見て、青と黒の腕章の生徒が悲鳴染みた声を上げる。その隣では、同じ腕章を付けた青い炎のような髪の少年が顔から血の気を引かせていた。
 炎髪の少年の言う通り、召喚されたケルベロスは不完全な生き物だった。
 けれど、それがどのようにして作り上げられたのかは不明だが、冥界から呼び出したものに変わりは無い。例え腐りかけ、ぐずぐずに崩れた身体をしていようとも、脅威であることには変わらない。


「何をしているバッボーイ共! 早く逃げろ!!」
「腰を抜かした奴は急いで防衛魔法を張れ! 余裕のある奴は近くの奴を抱えて距離を取るんだ!!」


 クルーウェルとバルガスの声に我に返った生徒達が、まだ呆然としたままの生徒を引っ張りながら脅威から遠ざかる。

 腐臭と瘴気の混じった悪臭を撒き散らしながら、ケルベロスの成り損ないが召喚者である3年生の生徒に向かって唸り声を上げる。召喚者を召喚者と見なしていないのだ。
 ぬちゃり、と脇腹が削げ落ちる。それでもなお、肉を喰らわんとケルベロスもどきが召喚者ににじり寄る。
 召喚者の生徒は、自分が喚び出したもののあまりの悍ましさに、腰を抜かして座り込んでいた。


「ボイドショット!!!」
「ファイアショット!!!」


 クルーウェルとバルガスが魔法を放つ。
 しかし、腐りかけていても、もととなった生き物はケルベロスである。信じられない跳躍で、教師二人の魔法を躱した。
 躱した先には、ジャミルとアズールがいた。

 ケルベロスもどきが標的を変える。涎と、何かしらの液体を撒き散らしながら、狂犬はジャミル達へと飛びかかる。
 咄嗟に防衛魔法を展開しようとして、間に合わないことが分かってしまった。
 迫り来る牙に自分の“死”を直感し―――――、


「ツバキ!!!!!」


 ジャミルは普段の冷静さをかなぐり捨てて叫んだ。


「応」


 薄紅色の花びらとともに、ツバキが姿を現す。
 ジャミルとツバキの視線が交錯する。いつもと変わらない温度の瞳に安堵する。もう大丈夫だと、根拠も無くほっとした。

 突如として現れたツバキに、ケルベロスもどきが酷い怯えを見せた。ジャミルには決して見せなかった殺意を、気が狂いそうな程の憎悪を叩き付けられたからだ。
 ケルベロスの形をしたナニカは、すでに戦意を喪失していた。ツバキに頭を垂れていた。
 けれどツバキは許さない。何故なら自身の唯一無二に牙を剥いたからだ。害を為そうとしたからだ。輝ける星に、命を捧げることを誓った“特別“に。


「私の主に牙を剥いたこと、後悔させてやる。お前の死をもってな」


 カッ! と、ツバキが目を見開く。その瞬間、ケルベロスの形をしたナニカが、激しく燃え盛る炎に包まれた。
 黒い、黒い炎だった。憎悪に濡れた、悍ましい怒りの表れ。ツバキの胸中そのものだった。
 地獄の底から這い上がってきたような炎は、冥界の番人を模した憐れな存在を、あっと言う間に骨だけにした。
 それを見届けて、ツバキがジャミルに向き直る。


「主、無事か? 怪我は無いだろうか?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう、ツバキ」
「ふふ、なら良かった」


 ぎこちなさの抜けない声に、ツバキが安心させるように微笑みを向ける。常と変わらないツバキの態度に、ジャミルが安堵の息を漏らす。
 ジャミルからいくらか強ばりが取れたことを確認し、ジャミルと共に狂犬に襲われ掛けたアズールに目を向ける。命の危機を感じ取った身体は怯えを纏っていた。


「アズールと言ったか。君も無事かな?」
「え? あ……。は、はい、無事です」


 未だに心ここにあらずのアズールにも怪我は無さそうだった。
 ツバキにとってアズールは“利用価値のある存在“と言う認識だ。心を豊かにするためには、友人と呼べるような存在も必要だろう。ジャミルの成長のためにも、彼には生きて、ジャミルを害さないジャミルの「友人」になって貰わなくてはならないのだ。
 そんな彼に傷が無いことを確認し、ツバキは満足げに笑った。

 アズールの髪をくるりと一度掻き混ぜて、ジャミルの頬を撫でる。それから、ツバキは事の元凶を振り返った。


「さて、―――――お前だ」


 突然、冬が訪れたかのような錯覚を覚えた。そのくらい、底冷えのする声だった。
 深淵から響くような声を向けられた召喚者の3年生が、引き攣った声を漏らす。先程のケルベロスよりも、ずっとずっと深いところから来た恐ろしいものが、自分に敵意を向けている。悲鳴を上げるのも当然だった。


「お前は、自分が何をしたのか、分かっているのか?」
「だ、だって、1年が出来たんだ。俺だって、妖精族や、もっと凄い使い魔が呼べるはずだ。だ、だから、だから……!」
「その思い上がりが人を殺しかけたというのに、反省も無しか?」


 ―――――救えないな。
 それは憎い相手を崖から突き落とすような声だった。忌々しいと、呪詛でも吐き出しそうな怒気を纏わせている。
 その怒気に呼応するように、ケルベロスの成り損ないを燃やす黒い炎が激しさを増す。


「お前に“それ”は必要ない」


 がしり、と大きな手が怯える生徒の顔を掴む。それと同時に、何らかの魔法が発動したのが分かった。
 怯え、震えていた生徒の青白い顔が、みるみるうちに絶望へと変わっていく。


「い、いや、やめ、やめて…………! それだけは、それだけは……! い、いやだ、いやだああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 狂乱したように泣き喚く姿に、成り行きを見守っていた生徒達が悲鳴を漏らす。
 藻掻いて逃れようとするも、ツバキはぴくりとも動かない。少年の様子に眉一つ動かさない。
 魔法をかけ終わり、パッと手を離すと、少年がガクリと俯いた。
 虚ろな顔で、ぶつぶつと何事かを呟いている。明らかに、異常をきたしているような姿だった。


「一体、何を…………」
「一部の魔法を奪っただけだよ」
「ま、魔法を奪った……?」


 クルーウェルの絞り出すような声に、ツバキは温度の無い声で答える。


「もう二度と、召喚魔法を使えないようにしただけさ」


 ―――――もう、こんな憐れな存在を生み出さないためにも。
 そう言って、ツバキは憐れな獣の最後の一欠片を焼き尽くす。天へと昇っていく灰を見つめる様は哀しげで、胸を締め付けられるようだった。

 教師達も生徒達も、当然の処置だと納得した。驕り高ぶった自業自得だ、と。
 それほどまでに、三つ首の獣は惨かった。その有様は悲惨だった。それが人に襲いかかろうとした。危うく、人を殺してしまうところだった。
 そうだ。召喚者の生徒は人を殺しかけた。自分の能力を過信して、二人の少年の命を奪うところだったのだ。
 あの異形は、教師二人がかりでも止められたか分からない。止められなければ、もっと多くの犠牲者が出たことだろう。ツバキがいなければ、この場にいた生徒達は全滅していた可能性だってあったのだ。
 それらを加味すると、件の生徒への同情はあっさりと薄れてしまう。いつか間違いを犯す前に止めて貰えて良かったじゃないかと、そんな風にすら思ってしまうのだ。


「主。あれは冥界の瘴気を纏っていたから、念のため浄化魔法を掛けておこう。あれは生者には毒だからな」
「ありがとう、ツバキ。頼んで良いか?」
「もちろんだとも。任せてくれ」


 ツバキのジャミルを気遣う姿に、その場にいた者達は、ツバキに何かしらの光を見た。




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