慈悲の魔物
「ジャミル・バイパーの教室はここか?」
入学から数日。平和な学園生活を送っていたジャミルの元に、嵐が訪れた。黄緑色のベストを着た、上級生と思わしき男がジャミルを尋ねてきたのだ。
男と同じベストを着たクラスメイトからざわめきが起こる。そこにはほんの少しやっかみのようなものも含まれていた。
「ジャミル・バイパーは俺ですが……」
控えめに手を挙げれば、ジャミルを探しに来た男が人懐っこい笑みを浮かべた。
「おお、お主がそうか! ちと話がしたくての。時間はあるか?」
現在は放課後である。部活見学にでも行こうかと考えていたが、それは別に後日でも構わない。
ここで断ったり、事を先送りにすると面倒なことになりそうな予感がしたため、時間がある旨を伝える。
「うむ、では付いてきてくれぬか? ここは人目が多いからのぉ」
「分かりました」
連れたって廊下に出ると、上級生と黄緑色のベスト―――――ディアソムニア寮に所属している生徒達からの視線が集まった。
その反応から、少し前を歩く上級生がただ者ではないことが窺えた。気付かれない程度に警戒心を強める。
―――――視線が煩わしいなら、視線を逸らす魔法も使えるが?
視線を不快に感じていたら、ツバキから念話が飛んでくる。
―――――いや、下手に魔法を使うと返って目立つだろう。
―――――では、記憶を奪うか?
―――――この人数を相手にそんなことをしたら、ツバキのブロットが溜まるだろう? 気持ちは嬉しいけど、そこまでしなくて良い。
―――――そうか?
―――――ああ。ありがとう、ツバキ。
ツバキの魔法石が濁ることは殆どない。常人とはかけ離れた量の魔力を保有しているため、魔力が枯渇するような状態に陥らないためだ。
けれど、どんな生き物でもストレスは溜まる。その上ツバキはジャミルのためなら、いくらでも魔法を使おうとする。そのためジャミルはツバキに必要以上に魔法を使わせないように注意を払っていた。
もう少し自分を大切にして欲しいと思うのだが、なかなかどうして上手くいかない。数千年来の性分は、人が一生を掛けて改善を試みても、変えられるものではなさそうだった。
自分を特別だというのなら、自分の言葉を聞き届けてほしいものだ、とジャミルは心の中で悪態をつく。何せ幼い頃からずっと言い続けているのに、ツバキがちっとも変わる様子が見られないので、少しばかり不満だったのだ。
リリアに連れられてきたのは軽音部の部室だった。すでに部活が始まっているのか、人の気配はない。
「ふむ、ここなら人目も無かろう。さて、自己紹介がまだじゃったな。わしはリリア・ヴァンルージュ。ディアソムニア寮副寮長をしておる」
「ジャミル・バイパーです」
「少し長くなるかもしれん。飲み物でも用意しよう」
「ああ、俺が用意します」
「では頼むとしようかの。紅茶があったはずじゃから、嫌いでなければそれを淹れてくれぬか?」
「分かりました」
備え付けられていた給仕スペースで飲み物の準備に取りかかる。用意するのは部室に用意されていたのは薔薇の国産のローズヒップだ。
ツバキに安全を保証されたため、安心して飲むことが出来るので気が楽だった。
「どうぞ」
「うむ、良い香りじゃ」
一口飲んで「美味い!」と目を輝かせる。
上級生である以上、自分より年上であるはずなのに、少しばかり子供っぽい。
「さて、本題に入るかの。お主の使い魔についてじゃ」
その言葉に、ジャミルの警戒心が最大まで引き上げられる。
使い魔のことは、誰にも話していない。入学式後に行う面談に向かう姿を見られたにしても、興味を惹くような行動はしていないはずだ。
ジャミルの警戒心を見て取ったリリアが安心させるように快活に笑った。
「実はお主の入学前に学園長から同じ長寿種である妖精族として、相談を受けたのじゃ。“隣人”が使い魔として魔法士に傅くことはあるのか、と」
守秘義務とは、とジャミルが額に手を当てる。
けれど、それも仕方がないのかもしれない。ツバキは歴史の裏側を見てきた種族だ。魔法士の卵に仕えるなど、前代未聞の事態だろう。誰かに意見を求めるのも無理はない話だ。
同じ長寿種だからといって、何故生徒に? とは思わなくもないが。
「それが事実なら、よく“隣人”と契約出来たものじゃ。対価は一体何を支払った?」
「何を、とは……?」
「生娘100人か? 赤子1000人か? 何にせよ、街一つくらいはくれてやらねば呼び出せまい」
「い、いえ! そんなもの支払ってません! ただ俺は、召喚術の一文を口ずさんだだけです!」
―――――俺の使い魔はそんなものは要求しません!
そう言って驚愕を顕わにするジャミルに、リリアも目を瞠る。
「……何じゃと? つまり魔法陣も、正式な詠唱も無しに呼び出したと?」
「呼び出したというか、向こうが勝手に来たんです。どうして呼び出せたのかは、俺にも分かりません」
「……まぁ、“隣人”ともなると、贄の一つもなく呼びかけに応えてみせることもあるかもしれんな。あれは最早、妖精族でさえ理解できぬ領域外の存在。こちらの物差しで計れるものではない」
「………………俺は、何か不味い事を仕出かしましたか?」
贄や代償無しに召喚したことで不利益になるような法律などは無かったはずだ。“隣人”や、使い魔になれる種族間での決まり事でも、その類いのものは見つけられなかった。
しかし、もし見落としていたら? それが元でツバキが断ぜられることになったら?
嫌な考えが次々と浮かび、思考が不安の色に染まる。それを察したリリアが、安心させるように微笑んだ。
「不安そうにせずとも良い。その事でお主らが不利益を被ることは無い。わしの理解の及ばぬ思考の持ち主のようであったから、混乱しただけじゃ」
すまんのぉ、とリリアが眉を下げる。
顔色を読まれたことを察したジャミルが、軽く首を振ってうっすらと笑みを浮かべた。
「こちらこそすいません。契約には対価が必要ですものね。でも、俺の使い魔は本当に無欲で、“俺”以外にあまり興味を持たないんです」
―――――“隣人”でなくとも、まず間違いなく長寿種と契約しておるわ。しかもおそらくわしより年上。
にこりと美しく笑う後輩に、リリアは内心で頬を引き攣らせた。
長寿種はその永い永い寿命故に、神のごとき視点から生き物を見るようになる者が現れるのだ。そう言った者にはお気に入りが存在していることが多く、そのお気に入りのためなら労を惜しまないのである。
そして、自分のお気に入りを害されることを酷く嫌う。自身が愛でる生き物に傷一つ付けようものなら、国だって沈めようとする輩も珍しくはない。
「ところで、先輩は俺に何を聞きたかったんですか? 俺の使い魔が本当に“隣人”であるかを知りたかったんですか? それとも対価が気になったんですか?」
「ん? まぁ、そんなところじゃ」
嘘ではない。本当に“隣人”かどうか知りたいというのも、対価は何であったのかも。
けれどそれ以上に、召喚者の顔を知りたかったのだ。長寿種の“お気に入り”であるのかどうかを知りたかったのだ。もし万が一にも、傷付けてしまうことがないように。
(そんなことになれば、血で血を洗うような争いが起きることは明白じゃからの)
納得のいっていないような顔で首を傾げるジャミルを見て、リリアは小さく苦笑した。