慈悲の魔物
「あっ」
短い一言がジャミルの口から零れる。その瞬間、ジャミルの身体が崩れ落ちた。
ぷつりと糸が切れた操り人形のように崩れ落ちたジャミルの身体。意識があるのかないのか、そのグレーの瞳は虚ろなものだった。
「バイパー!?」
「ジャミルさん!?」
それは飛行術の授業中のことだった。突如として倒れたジャミルに、クラスメイトと授業を担当していたバルガスが騒然とした。
「大丈夫だよ」
ジャミルの周りを取り囲んだアズール達に穏やかに声を掛けたのは、ジャミルの使い魔であるツバキだった。
胸に染み入るようなあたたかな声。安心させようと、落ち着いた様子で笑みを浮かべている。
「主は少し疲れてしまったようだ。休ませてあげたいんだが、いいかな?」
「も、もちろん。しかし、あまりにも突然倒れたように見えます。バイパーには何か持病が?」
「いいや? 仮にそうだとしても、私が君達にそれを伝えない理由がないだろう?」
「そ、それもそうですね……」
バルガスはその巨体を縮こませていた。
NRCの、所謂“いい性格”をしている教師であるが、彼はなかなか生徒想いなのだ。故に生徒の不調に気付けなかったことを嘆いているのである。
ぽん、とバルガスの肩を慰めるように叩き、ツバキがジャミルのそばに跪く。そして、ジャミルを抱えようとしたところで、「待て」という鋭い声が飛んだ。
声の方を見れば、そこには息を切らせたカリムがマジカルペンを構えていた。普段の快活な表情とは違い、鋭く目尻を釣り上げている。
「おや、カリム。今は授業中のはずだろう?」
「そうなんだけどな。教室からジャミルが倒れるのが見えちまったからさ」
「ふふ、君は友人想いだな」
「そうだぜ。ジャミルは大切な友達だ。だから―――――ジャミルに触らないでくれ」
いつになく険しい表情を浮かべるカリムに、彼の人となりを知る者達は困惑の表情を浮かべている。
また、普段ジャミルと関わりが多く、必然的にツバキとの交流も多いクラスメイト達はツバキの溺愛ぶりをよく知っていた。故にカリムがツバキを遠ざけようとする理由が分からない。
「か、カリムさん? これは一体………?」
「ジャミルが倒れたのはツバキが原因なんだ。ツバキと一緒に居ることに疲れちまってて。だからツバキ、ちょっと離れててくれ!」
アズールの疑問に短く返答し、カリムがツバキに向かってニカリと笑う。太陽のような笑みと同時に、容赦ないボイドショットが放たれた。
けれどそれを、ツバキは掌で握りつぶした。
「絨毯!!!」
空から現れた魔法の絨毯―――――そのレプリカがジャミルを浚っていく。
ジャミルを乗せ、カリムを拾った絨毯が空高く舞い上がる。その様子を無表情で見上げたツバキが、ぽつりと呟いた。
「……………いい加減諦めてほしいんだがなぁ………」
す、と空―――――カリムに向かって手を伸ばす。カリムがツバキに向かって放ったのと同じ、ボイドショットが放たれる。
けれどその威力はカリムのものとは比べものにはならず、カリムが間一髪で避けたそれは、遙か彼方に浮かぶ雲を消し飛ばした。
次いで、ツバキがトン、とつま先で地面を叩く。すると凄まじい勢いで草が伸び、絨毯に絡みつかんと成長していく。
絨毯を駆使して蔦状になった草を避け、ファイアショットで打ち落とす。
そして更に、大気中の水分を凍らせて、巨大な氷柱を生成する。それを、カリム目掛けて一斉に射出した。
「つ、ツバキ~~~~~~~!!?」
たまらず、カリムが叫ぶ。
けれどツバキは常と変わらぬ笑みを浮かべていた。
「ふふ、主に傷を付ける気はないから安心してくれ」
「オレについては保証しないってことだな!!?」
カリムが躱した氷柱が、地面に突き刺さる。
それを一瞬で蒸発させ、破壊された地面を復元魔法や再生魔法で即座にもとの形に戻していく。
普通ならば一瞬で魔力が枯渇するような魔法の連続であるのだが、ツバキには何の変化も見られない。
呆気に取られていたアズールが我に返り、おずおずとツバキに声を掛ける。
「あ、あの、まったく状況が飲み込めないのですが、その………」
「何、ちょっとした戯れだよ。それより、授業の邪魔をして悪かったな。私達のことは気にせず、授業を進めてくれ」
―――――いや、気になりますが???
そう思ったが、それは心の中で留めておく。殺傷力の高い攻撃ばかりしているが、どうやらギリギリで躱せる程度の威力であり、包囲網にはきちんと抜け道を用意しているようであったためだ。ツバキほどの魔法士が、魔法士の卵一人を打ち落とすなど造作も無いこと。それをしていないということは、本当に戯れなのだろう。
だから、その瞳の奥が、深淵を覗いているような錯覚を覚えるほどに黒々としているのは、きっと自分の気のせいだ。
(触らぬ神に祟りなし、でしたか)
なるほど確かに、これに触れてはいけない。
そう確信したアズールは、「楽しんでくださいね」とにこりと笑って、カリムの悲鳴を聞かなかったことにした。
***
「ツバキの想いは、オレ達人間には重すぎるんだ」
絨毯から落とされ、校舎の壁際に追い詰められたカリムが、険しい顔でそう言った。
ジャミルが倒れたのは、ジャミル自身が自分の心を護るために、自分に掛けた魔法が解けてしまったからだ。つまり今のジャミルは、ツバキから向けられる情の重さを誤魔化すことで耐えていた支えを失ってしまった状態にある。
カリムはそんなジャミルを、倒れた原因であるツバキから引き離そうと必死になっていた。
普段の、きちんと魔法が掛かった状態のジャミルのそばにいるのに文句は言わない。ツバキがジャミルを大切に想っているのは明らかであるからだ。カリム自身もツバキが好きであるし、何よりジャミル自身がツバキが大好きなので。
けれど、今は駄目だ。今のジャミルはあまりにも無防備すぎる。いつもは自分で自分を守れるくらいには強いけれど、支えを失ったジャミルはあまりに脆い。人よりも遙かに高みにいるツバキが傍に居れば、壊れてしまいそうなほどに。
「知っているとも。だから不服であろうとも、自分を偽ることを是としているんだろう?」
「ああ。それは分かってる。でも、友達として、見てられないんだ。少しくらい、休んだって良いだろう?」
「彼と私の間には契約がある。対価は払って貰わねば」
契約は絶対だ。守られることを前提として取り決めた約束事だ。守られないのなら、代わりの代償を支払わなければならない。
「………ツバキの想いを受け止めることも契約のうち?」
「ああ。それに、彼は自身を洗脳してでも私と共に歩むことを選んだんだ」
「それは………」
「そうまでして、私の手を取り続けることを選んだんだよ、カリム」
ツバキは分かっているのだ。それが仄暗い喜びであることを。けれど、ジャミルはツバキにとっての唯一無二。特別なもの。輝ける星。
自身の想いが、人が受け止めるには重すぎることは理解している。害にすら成り得る狂気染みた激情であることを。
けれどジャミルはそれを承知で、自分に魔法を掛けてでも受け止めようとしてくれている。
愛しくて愛しくてたまらない存在が、自らが注ぎ込もうとしているものを受け止めてくれるというのなら、それは願ってもないことなのだ。
「それは手放しがたい甘美だよ。全ての生き物が、受け取って欲しい相手に心を受け止めて貰えるわけではないのだからな」
「……………」
「君なら、分かるんじゃないか? だって、君にとっても主は特別な存在だろう?」
「………………はぁ~~~~~………」
肺の中の空気を全て吐き出すような勢いで、カリムが盛大に溜息をつく。
「分かるよ。オレにとっても、ジャミルは特別だから」
「存外ヤキモチ妬きなんだな、君は」
「ツバキに言われたくないな~~~!」
仕方ないとばかりに苦笑して、カリムがツバキに歩み寄る。
抱えていたジャミルを手渡せば、ツバキはこの上なく幸せそうな笑みを浮かべ、ガラスを扱うよりも丁寧にジャミルを抱えた。
そして何よりも愛しいという想いを隠そうともしないで、腕の中のジャミルに頬を寄せるのだった。