慈悲の魔物
最近、自分の環境が一変したことをひしひしと感じている。それもこれも、一人の魔物を召喚してからのことだ。
俺―――――ジャミル・バイパーは一人の魔物を召喚した。ツバキという、中性的な見た目をした長寿種の“隣人”だ。
“隣人”はツイステッドワンダーランド随一の寿命を誇り、その寿命の長さから、世界に寄り添う者という意味で、その名を戴いた種族である。
その中でもツバキは“慈悲の魔物”、“仁の獣”と呼ばれることもある高名な魔法士で、歴史書にもその名が記載されている。軍を率いて戦争を終結に導いた立役者で、平和な世界を築き上げた偉大な人物だ。
しかし、残念なことに熱砂の国ではマイナーな英雄のようだった。
ツバキが活躍したのは輝石の国で起こったとされる革命戦争。珊瑚の海付近で起こった海戦といった、遠い異国の地。
熱砂の国には「グレート・セブン」に名を連ねる“砂漠の魔術師”の他にも、数々の英雄がいる。異国で活躍した英雄が見劣りするのも仕方のないことと言えばそうなのだが、それが自分の使い魔となると話は別だ。
(俺の使い魔は凄いんだぞ!)
魔法士としても優れていて、アジーム家に押し入ってくる不届き者達を、いとも容易く仕留めてしまう。相手も手練れ揃いであるはずなのに、それらの相手に苦戦しているところを見たことがない。
それほどの実力者であるのに、研鑽を怠る気配は見せず、驕った様子を見せることもしない。
また、知識の出し惜しみをすることもせず、教えを請えば何でも教えてくれるし、訓練にも付き合ってくれる。
ツバキはあたたかくて、優しい使い魔だ。
そんな優しい使い魔は、この場所では、酷く恐れられている。
屈強な兵士達も、熟練の魔法士も、俺の両親や、アジーム家の当主様も。たくさんたくさん助けられているはずなのに、誰もがツバキを忌避するのだ。それを従える俺のことも、少しだけ。
けれど、俺が恐れられているのはツバキが俺の味方だからだ。つまりそれは、ツバキが恐れられていることと同義である。
(みんな、ツバキがどれだけ凄い奴なのか知らないんだ)
ツバキは俺にとって、魔法のランプのような存在だった。俺を自由にしてくれたのだ。
それは従者としての仕事がなくなったという訳ではない。
テストで100点を取ってもいい。カリムにマンカラで全勝してもいい。歌もダンスも、カリムより上手く歌って良いし踊って良い。
今まで我慢していたものを我慢しなくて良いと、旦那様直々にお許しを貰えたのだ。
その理由は「カリムの闘争心を上手く煽り、より高みを目指す向上心を身に付けさせるように」というものだ。
従者が主君より勝ってはならない。
そう言って渋る両親の言い分すらも、旦那様は抑え付けた。
旦那様は知っているはずだ。従者は主君に傅くしかない存在であることを。
なのに、それが一変した。ツバキが現れてからのことだ。ツバキが、変えてくれたのだ。この現状を。
(これでツバキじゃなかったら、一体誰が、って話だよな)
ツバキは俺をツバキの一番に、ツバキの特別にしてくれて。頑張ったら頑張っただけ褒めてくれて。そうやって、俺の望みを叶えてくれるのがツバキという存在だ。
俺が実力を抑えなければならないことを疎ましく思っていたから、旦那様に何か進言してくれたのかもしれない。
中庭をふらふらと散歩しているツバキを見つけ、その背中に飛びつく。
背中と言っても、ツバキは酷く背が高い。まだ子供の俺では、足に纏わり付く形になってしまう。
歩行を邪魔されたのに、ツバキはまったく動じない。その冷静さも、是非見習いたいものだ。
「おや、主。私に何か?」
「うん、ツバキにお礼が言いたくて」
「お礼?」
「ツバキ、ありがとう」
「それは何のお礼だろうか?」
「とぼけるなよ。旦那様に何か進言してくれたんだろ?」
「おや、お見通し。そう、少しばかりお話をしたよ。君の頑張りが正当に評価されないのが許せなくてな。それに、傅くだけの従者が、良い従者とは思えない」
ああ、ほら、やっぱり。ツバキはやっぱり優しい使い魔だ。
強くて、かっこ良くて、優しい使い魔。どうしてツバキのような偉大な魔法士が俺の使い魔をしてくれているのか分からないけれど、俺はツバキに見合うような主になりたい。
「ツバキの思う、良い主従ってどんなもの?」
「これは私の持論だが、『下が上を正し、上が下を律する』のが、在るべき主従の姿だと思っているんだ。だから、主が悪いことをしたり道を外れるようなことをしたら、それはいけないことだときちんと言える従者こそが、良い従者だと思っているよ」
「ふぅん……」
何だか少し難しい。いけないことをいけないことだと注意すること自体は簡単だ。
けれど、それが自分の主となると話は別だ。これを言ったら罰せられるんじゃないかって、きっと恐れてしまうから。
「私は罰を恐れない。不興を買うことで自身が傷付くことになったとしても、裁定を怠ることはしない。それが君のためであると信じているから」
「ツバキ……」
「私は君の使い魔として、君が道を誤ったら全力で止める。例え君を殺すことになったとしても」
ひゅっ、と喉の奥で嫌な音がした。
少しだけ、ツバキが恐れられる理由が分かった気がする。
ツバキは嘘をつかないのだ。宣言通りに動くのだ。そう思わせるだけの気迫が、常にその目に宿っている。
だからきっと、俺も間違った道を歩んでしまったら、ツバキは必ず俺のことも殺すだろう。何の感慨もなく、今まで始末してきた暗殺者達のように、一切の熱もなく。
そうして主を失ったツバキはどこへ行くのだろう。また新しい主を探しに行くのかもしれない。俺という“一番”がいたことを忘れて。
けれど、そんなのは絶対に嫌だから。
「俺、頑張るから、見捨てないで、見守って。間違いそうになっても、ちゃんと戻ってくるから」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
―――――絶対に君を見捨てないとも。例え君がどれだけ情けなくとも、不甲斐なくとも、諦めさえしなければ。
そう言って、ツバキは大切な宝物のように、優しく俺を抱きしめた。