慈悲の魔物
ツバキはご機嫌だった。自身の主、ジャミル・バイパーから頼まれた仕事を終え、ジャミルの元へ帰ろうとした時、丁度良い手土産が出来たからだ。
「うん、なかなか綺麗に生けられたんじゃないか?」
―――――歌仙だって褒めてくれるだろう出来栄えだ。
ツバキはほくほくと満足気に笑みを浮かべ、アジーム家の長い廊下を歩く。
その手には首級が握られていた。白目を剥き、ほんのりとまだ温かい首だ。
脳天を花瓶代わりに、たくさんの花が生けられている。
生けられた花は美しいが、花瓶たる首には美しさの欠片も無い。
しかし花は所詮飾り。刺客の首を取ったという事実こそが重要なのだから。
実際にこんなものを歌仙に見せたならば、きっと悪趣味だと叱られるだろう。死者に鞭打つ行為を咎めただろう。
そもそも、人間であった頃のツバキなら、首級を奪って終わりだった。このような行為はしなかった。
けれどツバキは人間ではない。神のごとき視点から、生き物の営みを眺める種族だ。すでに人としての感性は薄れ始めている。
「ん?」
行く先から、アジーム家の当主とその部下や護衛の男達が歩いてくるのが見えた。
ツバキの機嫌が急降下するが、当主の男はジャミルの仕える相手である。主に恥をかかせるわけにはいかないので、粗相は出来ない。
本音を言うなら顔も見たくなかったが、ここで引き返すのは粗相に当たるだろう。仕方なく、ツバキは口元だけの笑みを浮かべた。
「やぁ。ご機嫌よう、ご当主。今日は良い天気だな」
「ひぃっ!」
部下と思わしき男の口から、情けない悲鳴が漏れる。当主や、屈強な護衛達も顔から血の気を引かせていた。
「……それは何だね?」
“それ”と称して、当主が生首で作られた花瓶を指差した。
ツバキに尋ねる当主の顔には「理解したくない」と書かれていた。人間にとってツバキの手に持つ“それ”は、あまりに醜悪で悍しいものだったから、それも当然である。
「これかい? これはお前の息子を屠らんとした刺客だよ。屋敷に忍び込もうとしているのを見かけたから、主に褒めて貰いたくて、首級を取ってきたんだ。この花は少しでも見映えが良いように添えてみたんだが、どうだろうか?」
「……首を持ち帰るなど、一体何を考えている!?」
「いくら刺客だからといって、やって良いことと悪いことの区別もつかんのか!!! それは死者への冒涜だぞ!!!」
屈強な護衛達が、口々に叫ぶ。
しかし、その顔は今にも倒れてしまいそうなほどに青い。気力で持ちこたえているのが見て取れる。
「随分脆い精神だなぁ」と思いながら、ツバキが首を傾げた。
「何かおかしいか? 首級は自分の手柄を示すものだろう? 持ち帰って何が悪い」
「なっ……!?」
驚きに目を見張る当主達を見て、ツバキは更に不思議そうな顔をした。
しばし逡巡して、その驚きの答えに辿り着いたらしいツバキが、寂しげに目を伏せる。
「…………ああ。人の世では、戦はもうはるか昔の事だったな」
戦争など、数百年も前の話だ。長寿種の妖精族でさえ、経験している者は少ないだろう。
それをごく最近の事として語るような、妖精族を越える長寿種。世界の歴史に寄り添う者。たかが一商人に扱える存在ではない。
改めて理解する。“これ“は畏怖すべき存在だ。
―――――ジャミルを飼い慣らさなければ。
当主の頭に、そんな考えが過ぎる。
しかし、ジャミルにはこの魔物が付いている。この魔物を出し抜いて彼に接触するのは不可能だ。
敵に回してはならない。この生き物だけは。
一体どうすれば良い?
アジームの当主が思案を巡らせる。
そんな男の様子に、ツバキは満足げに微笑んだ。
「私の敵にならない方法を教えてあげようか」
今まさに望んでいた答えを向こうから明け渡すという提案に、当主が警戒心を強める。
しかし、この魔物は存外争いを好まないことを、短い付き合いながら理解していた。ツバキと名乗る規格外の“隣人”とて、無益な争いは避けたいのだろう。例えそれが自身の足下にも及ばない存在相手だとしても。
「…………その方法、とは?」
「我が主を害さないことだ」
なんの迷いも無く言い放たれた言葉は、やはりジャミルに関わることだった。
「我が主を仇なすならば殺す。我が主を蔑ろにするならば殺す。お前じゃない。お前の子供達を、だ」
「なに、簡単な事だ。我が主の功績を認め、評価すれば良いだけだよ。あの子は今、抑圧されている。苦しめられている。いずれ牙を剥くことになるかもしれない」
「そうなったとき、その牙は誰に向くだろう?」
―――――誰に向く?
決まっている。ジャミルの主君であるカリムだ。
ジャミルはカリムのための従者である。
カリムを支えるために教育を施され、カリムのために生きるよう躾られるのだ。それが従者一族に産まれた彼の勤めであるのだから。
しかしこの魔物は、その扱いがお気に召さないらしい。
「つまり、ジャミルを優遇せよ、と?」
「そんなことは言わない。ただ、正当な評価をせよ、と言っているんだ」
真っ直ぐに当主を見つめて口にされる言葉は、平坦な声で紡がれている。ジャミルや彼の妹に向けられる柔らかい声と同じ声帯から発せられているとは思えないほどに温度が無い。
「私の言っていることが分からないだなんて、そんなことは言わせないぞ?」
ジャミルは優秀な子供だ。カリムよりもずっと。
おそらく両親が実力を抑えるよう躾ているのだろう。バイパー家は代々続く従者の家系だ。弁えるべき所をきちんと理解している。
ジャミルはカリムよりも余程優秀で賢い子供だ。自分の実力が、カリムを越えないように抑えることが出来るくらいには。
しかしこの魔物は、それを不服としているようだった。
―――――馬鹿馬鹿しい。主より優秀な従者など居てはならないのだから、それは当然のことであるというのに。
けれど、それをいつまでも放置していては、この魔物は何を仕出かすか分からない。
この魔物は底知れぬ魔力と、得体の知れない魔法をその身に宿している。
アジーム家一つ潰すことなど、赤子の手を捻るよりも簡単にやってのける。下手をすれば、熱砂の国ごと滅ぼされかねない。
答えは、選ぶべき選択は、最初から一つしか用意されていない。
「精々私のご機嫌取りをする事だな」
うっそりと笑う魔物の、いかに悍しいことか。