ネメシスシンドローム
カスミは海に来ていた。ハナダジムから一番近い海岸線だ。
誰か連れがいるのかと辺りを見ても、人っ子一人おらず、彼女が一人でこの場所に来ているのがうかがえた。
カスミは人がいないのを確かめるようにあたりを見回し、服もそのままに海に飛び込んだ。
たくさんの気泡が水面へと消えていく。
しかし、その両足から沸き立つ気胞は、いつまでたっても消えていかない。
ぼこぼこと次々に生まれては消えていく。
そして、徐々に泡が少なくなっていき、ついには両足があらわになった。
しかし、泡が消えさったその先には、あるはずの両足はなく、水面から光を受けて、キラキラと虹色に輝く不思議なうろこがあった。
その先端には立派な尾ひれがついており、カスミの下半身は魚へと変貌していた。
――――――人魚と呼ばれる生き物の姿だった。
カスミはそれには別段驚いた様子は見せず、むしろ尾ひれがついたことを当たり前のように見ていた。
ひれを海水に打ちつけ、前に進んだことを確かめると、カスミは深い深い海の中へと潜っていった。
カスミは人魚と呼ばれる生物になり変わることが出来る。
彼女自身がそのことに気づいたのは、まだ4歳のころのこと。
彼女は姉たちの指導の元、泳ぐ練習をしていたのだ。
しかし、初めから泳ぎ方を知っていたのかというほど泳ぎがうまく、姉たちは教える必要がなかったわね、と笑っていた。
時には邪険に扱うこともあったが、姉たちはカスミがかわいくて仕方がなかった。
彼女が楽しそうに笑っていたら、自分も嬉しい。
写真でも撮ってアルバムに収めようか、と和やかに話していたとき、唐突に、カスミの鳴き声が聞こえてきた。
慌てて泳いでカスミのそばに行き、どうしたのかと尋ねると、カスミは泣きながら言ったのだ。
『泳げるようになったら、足がなくなっちゃったの』
そんなまさか、と姉たちは急いでカスミを水から引き上げると、彼女の言った言葉が正しかったと判明した。
彼女の足は、魚のひれへと変貌していた。
姉たちはすぐに病院に駆け付けた。
聞いたことがあるのだ、こういう不可思議な病気が存在すると。
その時はただのうわさだと聞き流していたので、病名すらも知らないが、天から授かった二物だとか、神の裁きだとか、そういうふうに言われている病気が。
そうして、病院で診察を受けた結果、カスミのひれの正体は判明した。
――――――ネメシスシンドローム・人魚疾患(にんぎょしっかん)
水にぬれると体の一部を失い、ひれとうろこに変化する症状が現れるという。
この病気は、病気と呼んでいいのかすらも不明なのだと、医者は言った。
ネメシスシンドロームに罹った患者に統一性はなく、発病条件も症状も、まったく異なる。
シンドロームなどと名付けてもいいものかすら、不明なのだという。
『だからネメシスなんて、天罰なんて名前を付けたんですか!?この子が何をしたって言うんですか!!!』
姉の叫びに、この病気に名前を付けるきっかけとなった患者がいると、医者は厳かに話し始めた。
その患者は話すたびに羽を吐き出す、ネメシスシンドローム・羽根吐き病(はねはきびょう)を患っていた。
そのことに耐えきれず、その患者は自殺に至ってしまった。
遺書に、この症状は天罰によるものだと書かれていたことから、この名がついたのだという。
だから、この症状が神の裁きなどというのは、迷信であると、医者は言った。
『・・・この病気は、治るんですか?』
『今のところ、手立ては見つかっていないんだ』
『じゃあ、この子の足は・・・!』
『いや、心配には及ばないよ』
体の一部が変化する症状を持つ患者は、一定の条件をクリアすることにより体が変化する。
人魚疾患は水にぬれること。
水が渇けば、元に戻るのだという。
説明を受けている間に、体が渇いてきたカスミのひれとうろこは泡となって溶けだし、人間の足を取り戻していった。
『体の一部が変化するタイプの症状を持つ子は、訓練すれば自由に症状をコントロールすることが出来るようになるよ』
カスミは訓練を繰り返すことによって7歳のころにはこの症状を完璧にコントロールできるようになり、水にぬれても体が変化することはなくなった。
しかし今日は、海の底に用がある。
カスミは、海底を目指して泳いで行った。
深い深い海の底。
大きな岩壁が続く、海底渓谷。
その奥に、美しい銀色を、カスミは見た。
「ルギア」
カスミの発した声は、厳かな響きを持って、海の底に響いた。
その響きが相手にも響いたのか、海神は姿を現した。
『久しいな、カスミ』
「久しぶり、ルギア」
人魚たるカスミの声は、海の響きを持っている。
海神として海を守っているルギアには、とても心地のいい声だった。
同じ海のものとして、お互いに何かしらを感じ取った2人は、アーシア島の一件からずっと交流を続けている。
そして今日は、2人共通の友人、サトシについて話しに来たのだ。
彼が、新たな旅先で、早速無茶をした、その愚痴を話に。
「サトシは今、カロスって言う地方にいるんだけど、あいつったら暴走するガブリアスを止めようとしたり、ピカチュウを助けようとプリズムタワーって言うでっかいタワーから飛び降りたのよ!?」
『危ないと言えば危ないが、仲間の危機を助けずにはいられないのがサトシだろう』
「そうだけど!・・・心配、なのよ・・・」
ごぽりと、カスミの口から空気が漏れる。
震える声に、ルギアがカスミの背中をそっとなでた。
『サトシは無茶はするが、無理をする人間ではない』
「うん・・・」
『海神たる私が認めた、優れたる操り人だぞ?』
ルギアのおどけたような物言いに、カスミがかすかに笑みを漏らした。
「ふふ、それもそうね。ありがとう、ルギア」
『いや、私の方こそ、サトシの話が聞けてよかった』
「また来るわ」
『楽しみにしている』
ルギアに元気をもらったカスミは、海の住む水ポケモンたちと戯れながら、海上を目指す。
明るい方へと泳いでいくと、海の色が深い青から、鮮やかな水色へと変わっていく。
ぱしゃん!と水音を立てて海をから上がれば、その先には輝く太陽があった。
「・・・よし!」
ルギアに励まされたカスミは、私もジム戦頑張らなきゃ、と拳を握った。
水から上がったカスミのひれは泡が溶けだし、見る見るうちに元の人間の足へと戻って行った。
カスミは人間へと戻り、しっかりと地に足を付けて、ハナダジムへと帰って行った。