夢か真か
――眩しい。カーテンが開けられたのか、まぶたの裏が酷く明るい。
兄貴が起こしに来たのだろうか。
起きなければ、とは思うのだが、夢見も悪く、眠れた気がしなかった。
もう一度寝てしまえというように、心地よい睡魔が襲ってくる。けれど、それを阻むように、顔に触れてくるものがあった。
頬を撫でられているのだろうか。温かいものに頬を包まれた。
――ああ、分かった、今起きるから。起きるからやめろと言おうとして、くすりと笑う声が聞こえた。
「起きて、シンジ」
――兄貴の声ではない。けれど聞き覚えのある声だった。
まさか、この声は。目を開くと、そこには思い描いた人物がいて、顔を覗きこんでいた。
「おはよう、シンジ。今日もいい天気だぜ?」
「なっ……!?」
何故ここにいる。私の部屋に。
しかも、寝顔を見て――?
「……っ!」
覆いかぶさるようにして顔を覗きこんでいた相手――サトシの体を思い切り突き飛ばして跳ね起きる。
部屋を飛び出し、階段を飛び降りる。
一階に降りてみたが、兄貴の姿はない。
――まさか兄貴の留守を狙って不法侵入してきたのか?
「レイジさんならさっき買い出しに行ったよ」
背後から聞こえてきた声に、慌ててキッチンへと駆ける。
サトシの発言通り、買い出しに言ったらしく、書置きが残されていた。
曰く『買い出しに行ってくる。サトシ君がいるし大丈夫だと思うけど、何かあったらすぐに連絡すること』
――もうすでに警察に連絡したいほどのことがありましたけど?
何故妹一人しかいない家にポケモンにしか興味のないような奴とはいえ男を残して買い物に出かけられるんだ。
そもそもサトシがいるし、ってなんだ。何故こいつに全幅の信頼を寄せている! 仮にも女の部屋に不法侵入してくるような奴を!
あまつさえ人に覆いかぶさって寝顔を見ているような奴だぞ! どう考えてもこいつが一番危険だろうが!!!
(人当たりがいいとこういうときに得だよな!!!)
私とは正反対だ、と半ばやけくそになってメモを丸めてごみ箱に投げ捨てる。
なんだか頭痛がしてきた気がする。
――さら、と髪がなでられる。その感触に驚いて振り向くと、サトシが私の髪に触れていた。
「寝癖? はねてる」
可愛い、といってくすくすと笑う。
――そうだ。私、寝起きのままじゃないか。
気付いて、急激に顔が熱くなる。女らしさの欠片もないことは認めるが、だらしない姿を見られて羞恥を覚える程度には、女を捨ててはいない。
――ああ、くそ。兄貴のせいだ。ねがおも、寝起きの姿を見られたのも、兄貴がこいつを家に上げたから……!
夢の内容も酷かったが、現実も最悪だ!
(――……夢?)
背中に冷たいものが流れ落ちる。
――このあとの情景を、私は知っている……?
「なぁ、シンジ」
サトシが髪を触っていた手を頬に伸ばし、頬をなでる。
――このあと、サトシは、
「『俺のこと、どう思ってる?』」
そう、聞いた。
――夢と、同じだ。
サトシの手が頬から首へ移行する。そして首から肩、腕、そして掌へ。包むように手を握られる。
「ね、どう思ってるんだ?」
「――ら、ライバル、だろう……?」
とっさに答える。夢では、一体何と答えたのだったか。
――間違えたかもしれない。こんな接触をする相手が『ライバル』だなんて、そんな答えを欲しているわけがない。もっと、別の答えを求めている。
「そうだよ。嬉しいな、シンジの口からライバルって言ってもらえるの」
そう言って笑ったが、サトシの目は笑っていない。
「でも――それだけ?」
私の手を握るサトシの手に力がこもる。ギリギリと有らん限りの力で握られ、骨が軋む。
「い゛っ……! おい……っ!」
――折られる。
とっさに距離を取ろうと手を払おうとするが、力は相手の方が上だ。むしろ、逃がさないとばかりにさらに力を込められる。
なんて馬鹿力なんだ、こいつは!
「なぁ、シンジ。俺はシンジが好きだよ。愛してる。だからシンジにも俺を好きになってほしいんだ」
こいつは危険だ、と本能が警鐘を鳴らす。
わかってる。こいつが正気ではないことくらい。けれど私の腕を握る手が微動だにしないんだ。
「なぁ、シンジ。シンジにとって、俺はライバルでしかないの? それ以上にはなりえないの?」
答えてよ、と腕を引かれ、頬をなでられる。
「なぁ、シンジ。俺のものになってよ」
――やばい。
何がやばいって? 全部だ。
逃げなければ。捕まれば、終わる。
とっさに足が出た。サトシの鳩尾を蹴り上げ、そのすきに力の緩んだ手から逃れる。
階段を駆け上り、二階へ。しかしこの家はそう広くない。
自分の部屋に入り、鍵をかける。そして窓から外へ飛び降りた。
裸足だとか、寝間着のままだとか、そんなことを気にしていられる状況じゃない。
(ああ、でも……。ポケモンを連れてこなかったのはまずかったな……)
足には自信がある。しかし、ポケモンに勝てると自負できるほど自惚れるつもりはない。
相手はポケモンを連れているだろう。
この状況を読んでいたならば、飛行タイプもいるはずだ。むやみに動けば見つかってしまう。近くの森に駆け込み、息をひそめる。
空からの捜索に見つからないようにするためには、じっとしているしかない。息を殺して、ただじっとしているしか、ない。
(悪夢だ……)
腕にくっきりと付いた手形のあざに、恐怖が背筋を這い上る。
そう言えば、夢を見た。悪夢だ。それもこの状況ととても酷似した、恐ろしい夢。
夢ではこのあと――、
(そう言えば、私はこのあと、どうなるんだ……?)
――ガサッ
「……っ!!!」
「見ぃつけた」
口角を上げたサトシが、私と目が合うとゆっくりと目を細める。
逃げようと立ち上がるが、その前に腕を掴まれ、木に押し付けられる。
背中の固い感触には覚えがあり、背筋が震えた。
(そうだ、私は……)
このあと――
「逃げるなんて酷いなぁ……。俺のものになるのがそんなに嫌? それとも照れてるの? 照れてるだけなら嬉しいんだけど」
――逃げられなかったんだ。
腰が抜け、まともに立っていられない。木に背中を預け、ずるずると座り込む。それに合わせて、サトシも片膝をついた。
体の横に手をつかれ、絶望が広がる。
「シンジ……」
サトシの顔がどんどん近付いてくる。
何をしようとしているのか、それがわからないほど鈍いつもりはない。
焦点が合わないほどにサトシの顔が近くにある。一瞬だけ唇に柔らかい感触がして、サトシが身を離す。そして、わずかに頬を染めたサトシと目があった。
「シンジ、逃げなかったな。やっぱり照れてたんだ。ふふっ、俺たち、両想いだったんだ。嬉しいなぁ……」
嬉しそうに頬を撫で、愛しげに眼を細めるサトシは、私が知るサトシとは全然違っていた。
目頭が熱い。
「これでもう、シンジは俺のものだな」
――私は、逃げられなかったんだ……。
嬉しそうに笑うサトシの声が木霊する。
もう一度唇をふさごうと近づいてくるサトシの顔は、涙で滲んで全く見えなかった。
柔らかいものが唇に触れたかと思った瞬間、そこで私の意識は暗転した。