アッシュグレイの歌声
カロス地方、ミアレシティにて、大規模なライブが行われることとなった。会場はパブリックドーム・ミアレ。その名の通り、公共のもので、様々な用途に使われているカロス一大きなドームだ。そこにはもちろんコンサートホールもあり、そのホールでライブが行われる。そしてコンサートを行うのは”夢の歌声”を持つとされる『アッシュ』という歌手だ。
アッシュという歌手はメディアに顔を出さず、今まではCDで声だけを露出していた。しかし、そのどれもが若い世代のトレーナーの共感を呼び、大ヒットを記録していた。
そんなアッシュのファーストライブである。チケットはすでに完売し、ライブは明日だというのに、ミアレシティには多くのファンが駆けつけていた。
「あ~、いよいよ明日か~!」
「早く明日になってほしいなぁ!」
「楽しみです!」
それはサトシ一行のセレナ、ユリーカ、シトロンも同様で、酷く浮かれた様子を見せていた。そんな中、何事にも疎いサトシだけがはしゃぐ三人を見て苦笑を浮かべていた。
「落ちつけよ、みんな。あんまり騒ぐと迷惑になるぞ」
そうは言ってみたものの、あまり効果は得られない。街全体が浮足立っており、彼らを気にする様子もないので、まァいいか、とサトシはもう一度苦笑した。
「ホントにその人の歌が好きなんだな」
「「「うん!/はい!」」」
サトシの微笑ましげな笑みを受け、三人は明るい笑みを浮かべた。
けれど、嬉しそうな顔が、すぐに申し訳なさそうに曇った。
「でもサトシ、本当に行かなくていいの?」
チケットはセレナが取ったのだが、取れたチケットは二枚だった。ユリーカはまだ幼いため、チケットを持った保護者がいて、更に入場料を払えば会場に入ることが出来る。四人パーティのサトシ一行では、どうしても一枚足りないのだ。
けれどサトシは、構わないと首を振った。
「うん。俺あんまりその人知らないし、次はシトロンとのジム戦だろ? シトロンも特訓してくれていたみたいだし、だったら俺も、それに全力で答えないと」
「サトシ……。はい! 全力で相手させていただきます!」
「おう!」
軽く拳を触れ合わせ、二人が笑う。それにセレナたちも笑い、さて、と小さく呟いて、サトシがピカチュウを肩に乗せた。
「じゃあ俺特訓してくるな!」
「わかりました!」
「行ってらっしゃい!」
「頑張ってね!」
「おう!」
サトシは片手をあげ、シトロンたちに見送られて街中をかけていく。人もポケモンも、みんながみんな笑顔を浮かべていた。
(みんなこんなに楽しみにしてくれてるんだから、最高のライブにしないとな!)
+ + +
サトシは『アッシュ』である。『彼』が誕生したきっかけはカスミだった。
サトシは元来歌が好きだった。よく鼻歌を口ずさんでいる。
好きなフレーズに節をつけるのが好きで、即興で歌を作ることもあった。そんなこともあり、サトシは旅の中で浮かんだフレーズを書き留めていた。それをカスミに見られたのだ。
サトシは最初、からかわれるだろうと思っていた。カスミはトレーナーとしての心得が皆無といってもいいサトシに何かと世話を焼きたがっていたし、実際にカスミはトレーナーとしては先輩だった。弟のような存在として可愛がられている自覚もあり、しばらくはこのネタでいじられるだろうとも。
しかし実際にはそんなことはなく、むしろカスミはサトシの詩を褒めた。――サトシらしい、良い詩だ、と。
それがきっかけで、サトシは本格的に歌を作ることを始めたのだ。
いつも助けてくれるタケシと歌を作るきっかけになったカスミに対する感謝の気持ちで、2人だけのために作ったものだった。
しかしそれがあるとき人に聞かれ、それが偶然にも音楽プロデューサーであり、サトシをスカウトしたのだ。サトシは旅をしたいからと断ったが、プロデューサーの方も引かなかった。曲が出来たらそれを自分の会社に送り、それをCDに収録して売り出させてほしいと頼み込んだのだ。それくらいならば旅をしながらでも行えるので、サトシはそれを了承した。
幸いにもサトシをスカウトした企業が大手だったからできたことだった。
けれどサトシのCDはプロデューサーの予想をはるかに超えて爆発的な人気を見せた。最早CDの域ではとどまらず、一度でいいからライブを開催してほしいと頼み込んだのだ。もちろん旅に支障が出ないように顔は隠すし、仲間達にもばれないように日程を調整し、ライブは一日だけと約束して。――そしてそれが明日のライブというわけだ。
(でもまさかセレナたちまで俺のファンだとは思わなかったなぁ……)
それが嬉しいやら恥ずかしいやら。サトシは苦笑した。
「よし! 明日のライブを成功させるためにしっかり練習しておかなくちゃな!」
「ぴかっちゅー!」
+ + +
シンジはカロス地方にいた。森の中で一枚のポスターを見つめて眉を寄せている。ポスターには『アッシュ、初ライブ』という煽り文句が書かれていた。
そう、彼女もアッシュのファンだった。
しかしながら彼女はディープなファンではなく、つい最近その存在を知ったばかりだった。
そのため情報を得るのが遅く、彼の初ライブのチケットを手に入れられなかったのだ。
(まぁ、これっきりというわけではないだろう)
一度前例が出来てしまえば、ファンはもっともっととアッシュの露出を望むだろう。そうなれば利益を求める企業がそれを逃すはずもなく、この先にもライブが行われることだろう、とシンジは予想していた。
そう冷静に分析しているが、眉間には深いしわが寄っており、口から洩れるため息も重々しい。アッシュのファンとなってそうたたないが、彼女も立派なファンの一員であり、アッシュの初ライブに行きたいとい思いは強かった。
(まぁ、仕方ないと諦めるしかないのだが……)
もう一度ため息をつき、簡単にポスターを折って背負っていたボディバッグを降ろす。
ポスターを片づけようとして、ふとシンジが動きを止めた。
「歌……?」
聞き覚えのある声に、シンジの心臓がドクリと高鳴る。
(いや、そんなまさか、)
――アッシュの声だ。
(いや、そんなわけはないな……)
きっと誰かが曲を流しているのだろう。けれどもどくどくと高鳴り続ける胸が訴える。そちらに向かえ、と。
シンジはおざなりに荷物を背負い、歌声の聞こえる方へと歩き出した。
「ぴかっちゅー!」
ピカチュウが歓声をあげ、拍手を送る。それにサトシが嬉しそうに笑う。
「サンキュー、ピカチュウ! 次は何を唄おうかな」
喉の調子は上々。歌詞もきっちりと覚えている。メロディも頭に入っていた。
顔は隠してのライブなので、特に体を動かすこともない。今はピカチュウに乞われるままに歌を唄っていた。
「じゃあ次は『スパート!』でも歌おうかな」
「ちゃあ!」
選曲はピカチュウのお眼鏡にかなったらしい。上機嫌にピカチュウが鳴く。
「じゃあ行くぞー」
すう、と息を吸い、腹の底から声を出した。
「思い出 今はしまっておこう
あの場所めざし スパートかけようぜ!」
――ドサッ
突然の物音に、サトシとピカチュウの方がビクリ、と跳ねる。
――まずい、聞かれた。
どうするべきか困り果て、サトシは酷く動揺していた。どうにかしてごまかすしかない。しかしながらサトシは口が回る方ではなく、頭を抱えた。
「――サトシ?」
背後から聞こえてきた声には聞き覚えがあった。慌てて振り返ると、そこには頬を真っ赤に染めた最大のライバル――シンジがいた。
「お前が、アッシュなのか……?」
らしくもなく頬を上気させたシンジに尋ねられ、サトシは思わずうなずいていた。
ピカチュウにはごまかさなくていいのか、と驚かれたが、サトシは気にしていられなかった。
――だって仕方ないだろう。シンジの目が期待に満ちていて、熱に浮かされたような表情をしていたのだから。
(シンジも俺のファンだったんだ……)
それが嬉しいような、寂しいような。
(『アッシュ』じゃなくて、俺を見てほしいなぁ……)
荷物を落としたまま呆然と自分を見つめるシンジに、サトシはひっそりとため息をついた。