恋は戦争






 イーブイたちの暴走を沈めた、その夜のことだった。サトシはイーブイたちのもとを訪ねていた。
 彼らはすでに眠りについていたが、サトシはそこに頓着しない。ちゃんと眠りについているか。起きていたとしても、穏やかでいるかを確かめに来たのだ。
 イーブイたちはすっかり寝入っていた。且つ、安心しきったような柔らかい笑みを浮かべている。
 それらを見受けて、サトシは安堵の息を漏らした。

 ――よかった。ちゃんと眠っている。
 サトシはイーブイたちが気がかりだった。
 サトシは色違いのポケモンを有し、彼がふとした時に顔を曇らせることをよく覚えている。
 トレーナーに取って色違いというのは珍しく、希少なもので、喜ばしいことだ。けれどもポケモンにとってはそうではない。
 自然に溶け込むための色を失い、異なる色を有する。それはときとして命にかかわる大事となる。
 他者と異なることがいい方向に向かうこともあるが、すべての色違いがそうであるとは限らない。
 サトシの持つ色違い――ヨルノズクはあまりいい経験をしてこなかったように思う。時折翳るその表情がその証左だ。

 このイーブイもまた、そうなのだろう。人間を敵だと認識し、仲間が傷つけられることを恐れていた。
 何度も傷つけられてきたのだろう。彼が自分に噛み付くのに、何の迷いもためらいもなかった。
 そうしなければ傷つけられるとわかっていたからだ。
 傷をつけることで相手がひるめばそれでよし。そのうちに逃亡を図ることが可能だ。
 相手をひるませることが出来なくとも、その傷がのちに自分達を逃がす隙となることも否めない。そうなるようにできるだけ深く。
 そうして突き刺さった牙の痛みはきっとそのままイーブイたちの痛みでもあるだろう。最初から誰かを傷付けることにためらいを持たない者などいない。イーブイだってそうだったはずだ。
 彼は慣れてしまったのだろう、おそらく。それだけ傷つけられてきたから。
 サトシは無意識にイーブイの噛み痕に手を伸ばした。


「痛むのか?」
「――っ!?」


 びくり、と肩が跳ね、心臓が飛びあがった。
 涼やかな声と落ち着いた気配に振り返ると、そこには紫陽花色の髪の少女――シンジがいた。
 幾らイーブイに集中していたとはいえ、自分が傷口に触れていることにも、シンジが近寄ってきたことにも気づかないとは思わなかった。
 よく磨かれた床は、歩くだけでも音が鳴る。まして、静まり返ったセンター内なら尚更。
 それだけ深く考え込んでいたのか、とサトシは苦笑した。


「別に傷んだりはしないよ。触るとちょっと痛いけど」


 心臓はいまだに高鳴っている。
 驚きは引いたが、いまだに通常よりもずっと早く息づいている。
 他の者に驚かされたとしてもすぐに収まるだろう。おそらく相手がシンジだったからだ。いまだに胸が高鳴っているのは。
 それを改めて自覚して、サトシは顔が熱くなった。

 シンジはと言えば、眉根を寄せてサトシを見つめていた。
 サトシの傷はイーブイが容赦なくかみついたもので、血が出るほどのものなのだから、浅いとは言えないだろう。その時の光景を黙って見ていたシンジは、きっと酷い顔をしていたと自分でもわかるほどに、内心荒れていた。その時の心境が甦ってくるようだった。
 自分が傷つくことで悲しみ、傷つく誰かがいることが、どうしてわからないのか。シンジが傷を負った時、あれほど悲しそうにしていたのに。大切な人が傷をおったら、どれだけ苦しいことか、わかっているはずなのに。サトシ自身が傷ついてもそうなのだと、何故わからないのか。
 シンジはサトシの元へと歩み寄った。
 サトシが顔をあげ、シンジを見やる。その不思議そうな表情に、シンジは苛立たしげに傷を負った手を掴んだ。


「し、シン――、」


 突然の暴挙に驚いたサトシの声が、中途半端に終わる。
 引き寄せられた手は、シンジの華奢な掌に包まれ、指先は口元へと導かれた。
 柔らかな唇に指が触れたと思った瞬間――カプリ。指先を柔らかく食まれた。


「し、シンジ?」


 名前を呼ぶが、返答はない。返答代わりに少し力を込めて噛まれた。
 ゆっくりと指先を離し、シンジがサトシを見つめる。揺れる瞳に吸い込まれてしまいそうだった。


「…………ばか、」


 小さく震える声に、サトシはやっと思い至った。
 ――ああ、心配していたのか。自分が腕を労わる素振りを見せたから。
 サトシの手を握るシンジの手は、力ない。その上わずかだが震えている。
 きっと辛かったに違いない。傷つけられるのを、黙って見ているしかなかったのだから。自分だったら耐えられないだろう。傷を負ったシンジを見て、どれほどの怒りが沸いたか、今でもはっきりと思い出せる。あれほど憤った時はないと、はっきり断言できるほどの怒りだった。


「ごめんな、シンジ……」
「ばか、」
「うん、ごめん」


 慰めるようにシンジの体を抱き寄せ、髪を梳く。シンジは大人しく髪をなでる感触を甘受した。
 サトシの体温に安心したようで、シンジは落ち着きを取り戻す。それにほっとして、サトシが柔らかく微笑んだ。


(それにしても、まさか噛まれるなんて思わなかったなぁ……)


 ――シンジはたまにとんでもないことをする。それはサトシに対してだったり、ポケモンに対してだったり。
 相手によって内容は様々だが、度肝を抜かれるようなことも、平然とやってのける。そしてシンジ自身にはその自覚がないのだから、サトシからしたらたまったものではない。特に今日のような、指を食んだりするなんてこと。


(他の奴にこんなことしたら、一体何されるかわかったもんじゃない)


 他の人間に自分にしたことと同じことをするシンジを想像して、サトシは思わずシンジを抱きしめる腕に力を込めた。
 想像にまで嫉妬するなんて、と浅ましい自分に落ち込むと同時に、あまりにも無防備なシンジに心配や呆れを通り越して、いっそのこと腹が立つ。
 抱きしめる力が強まったことに驚いて、シンジが顔をあげてサトシを見やった。
 無垢な表情で自分を見上げるシンジに、サトシは意地悪がしたくなった。


「なぁ、シンジ、もっかい噛んでみない?」


 自分でもいじめっ子のような表情をしているのがわかるほど、意地の悪い要求だった。存外照れ屋なシンジには、あまりにも無茶なことだ。
 サトシの言葉の意味を理解できず、シンジがきょとりと目を瞬かせてサトシを見上げた。
 サトシが噛まれた指でシンジの唇をなでると、意味を理解したシンジの頬が、一気に朱に染まった。


「はぁっ!? 何を言ってるんだ、貴様は!!」


 あまりのことにシンジがサトシから距離を取ろうと腕を突っ張る。しかし背中に腕を回されており、シンジは逃げられない。


「何か可愛かったから」
「だ、黙れ、変態!!」
「噛んできたのはシンジじゃん」
「…………っ!!!」


 シンジはもはや涙目だった。羞恥も過ぎれば泣きたくなってくる。
 そんなシンジには申し訳ないけれど、何だかもっと泣かせたいような気持ちになって、サトシはもう一度唇をなでた。


(矛盾してるなぁ……)


 笑顔でいてほしいのに、泣き顔も見たいなんて。と、言っても、その泣き顔は悲しみや苦しみではないものがいいと思ってはいるが。


「――ゃぁ……」


 ごくごく小さな鳴き声が聞こえてきた。――否、泣き声だ。
 その声に気づいたサトシとシンジは、さっと顔色を変えて診察室を見やった。


「ぴゃぁ……。ぴぃ……」


 灰色のイーブイが魘されている。身をよじり、何かから逃げ出そうともがいているように見える。その横では、恋人のイーブイが起き出し、泣いているイーブイの顔を必死で舐めはじめた。
 メスのイーブイも泣いている。辛いのは彼女も一緒だ。ずっと一緒にいて、同じ目に遭ってきたのだから。

 サトシ達はすぐに診察室に入った。
 物音にイーブイが驚き、怯えたように震える。それがサトシ達だとわかると、ほっとしたように息をついた。
 ぐしぐしと前足で目をこすり、涙を落とす。それをシンジが止めた。


「コラ、目を傷付けるからやめろ」
「ぴゃあ……」


 シンジが茶色のイーブイを抱き上げる。イーブイはしゃくりあげながらシンジを見上げた。


「拭いてやるから、擦るなよ」
「ブイ……」


 ハンカチを取り出し、イーブイの目元に押し付ける。水分を吸い取るように拭いてくれるやり方は、ひどく優しい。人肌のぬくもりと相まって、その行為はひどく温かい。
 イーブイはまた泣きたいほど安心できた。

 灰色のイーブイは、サトシが預かった。イーブイは酷く震え、大粒の涙を流している。
 どんなに恐ろしい目に遭ったのか、サトシにはわからない。どうすれば恐怖をぬぐってやれるのかも。
 サトシにできることは、涙を拭いて抱きしめてやることだけだった。
 けれどイーブイには、それがよかったのか、徐々に落ち着きを見せ始め、次第に穏やかな眠りへと落ちていった。

 シンジになでられ、茶色のイーブイの方もうとうとと舟を漕ぎ始めた。やはりぬくもりというのは、人もポケモンも安堵させる効果があるようだ。柔らかい笑みを浮かべたまま眠りについたイーブイに、シンジも微笑んだ。


「よかった……。イーブイたち、笑ってる」
「ああ……」
「俺たちもそろそろ寝ようか」
「そうだな」


 最後にイーブイたちの柔らかい毛並みをなで、サトシ達はこっそりと診察室を後にした。
 そのあと、イーブイたちは悪夢にうなされることなく朝を迎えた。




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