恋は戦争
服が渇いたのは夕方のことだった。
洗濯をしてきれいになった洋服をまとい、サトシ達は育て屋の前にそろっていた。
「今日はありがとう。助かったわ」
「いえ、俺たちも楽しかったです」
「貴重な体験をさせていただきました!」
「また遊びに来てくれると嬉しいな」
「はい!」
リビエールラインの向こうに夕日が沈む。
その夕日に向かっていけば、次の町に着く。
育て屋夫婦に手を振って別れを告げ歩き出そうとした、その時だ。
「くぅん!」
今日一日で聞き慣れてしまったラプラスの声が聞こえてきた。
重い体を引きずって、ラプラスがシンジたちの元に這い寄った。
「ラプラス・・・」
「くぅん!」
柵を乗り越え、ラプラスがシンジの元にやってきた。
そして、つんつん、とポケットをつついた。
ポケットの中ではボール同士がぶつかり、こつりと音が聞こえた。
「またバトルしたいのか?」
「くぅん!」
「しかし・・・」
現在は夕方だ。
辺りが暗くなる前に野宿できる場所を探さなくてはならない。
そろそろ旅立たなければ。
「私たちはもう行かなくてはいけない」
「くぅん!」
ラプラスがいやいやと首を振る。
服の裾を引っ張られ、シンジが眉を下げた。
「コラ、ラプラス。シンジちゃんが困ってるだろ?」
「きゅうん・・・」
リョクが服の裾を離すように促す。
裾を離し、ラプラスは寂しげな声を上げる。
そんな様子に、サトシ達が顔を見合わせた。
この光景を見ていたミドリが、そっとラプラスの体をなでる。
ミドリの目は強い輝きを放っており、ラプラスが顔を寄せた。
「ラプラス、シンジちゃんを行きたい?」
「きゅう?」
「シンジちゃんと旅をしたい?」
ラプラスは何を言っているのかよくわかっていないようだが、真剣に聞いていた。
名前を挙げられたシンジは驚いて目を見開いていた。
「シンジちゃんについて行けば、あなたはたくさんバトルできるわ」
「!くぉん!」
「でも、私たちと離れて、あなたはシンジちゃんのポケモンになるの。」
ミドリの力強い言葉に、ラプラスは戸惑いを見せた。
バトルが出来るのは魅力的だ。けれども、ミドリたちと離れることになる。
付いて行きたいけれど、離れたくもない。
そんな考えが、ありありと読み取れる。
「私はあなたが後悔しないように選んでほしいわ。あなたの幸せが私の幸せよ」
ミドリが微笑んだ。
母親の、暖かい笑み。
ラプラスは、泣きたくなるのを我慢するような、渋い顔をしていた。
けれども、ラプラスは一度シンジの方を見た。
それからラプラスは、甘えるようにミドリに擦り寄った。
そして、ずるずると体を引きずり、シンジのそばに寄った。
ミドリの元の残るという選択を取ると思っていたラプラスが、自らを選んだことに、シンジは眼を見開いていた。
「それがあなたの選択なのね?」
「くぉん!」
「わかったわ」
ミドリがポケットからボールを取り出す。
ラプラスのボールだ。
まだ真新しく、よく磨かれたきれいなボール。
大切にされているのがよくわかるボールだった。
そんなボールを、ミドリはシンジに握らせた。
「シンジちゃん。ラプラスを連れて行ってくれない?」
「しかし・・・」
シンジはラプラスを気に入っていた。
バトルが好きなポケモン、というのは、トレーナーにとって魅力的だ。
今は楽しい、というそれだけしかバトルをする意欲になっていなくとも、その楽しいはいつか「強くなりたい」という想いに変わるだろう。
好きこそものの上手なれ。
彼女は強くなるだろう。
向上心のあるポケモンが、シンジは好きだった。
その点では、シンジの目にラプラスは魅力的に映った。
しかし、自分以上にラプラスを愛していて、大切にしている人たちが目の前にいる。
自分よりも、この夫婦の元にいるのが一番だろう。
ボールを握らせているミドリの手は、震えていた。
見れば、リョクも眉を寄せていた。
2人とも、涙をこらえようと必死だった。
「こんな狭い庭の中じゃ、この子は幸せになれない。でも、あなたになら、それが出来る。ラプラスはあなたを選んだ。ラプラスが幸せになれるって感じたのは、ここではなくあなたのそばなの」
赤ん坊のラプラスを、この夫婦は自分たちの子供のように育ててきたのだろう。
本当は離れたくないのだろう。
けれど、ラプラスの幸せは、ここにはない。
だから、涙を飲んで、ラプラスを送り出そうとしている。
「確かに育て屋でもバトルはできるわ。でも、この子にはもっと広い世界を知ってほしいの。この世界はとても美しくて、優しくて、暖かい場所だって、教えてあげてほしいの。お願い、できないかな?」
ぎゅう、と強く握られた手は、赤く色づいていた。
ミドリの爪が白くなるほど強く握られているのだから、当然だ。
断腸の思いなのだ、とは、彼女の目を見ればわかる。
シンジは、ミドリの手を強く握り返した。
「・・・幸せにできるかどうかは、やってみなければ分かりません。なので、保証はできません」
「それでいいわ」
「・・・精いっぱい、やらせていただきます」
「よろしく、お願いします」
ラプラスのモンスターボールを受け取り、しっかりとうなずく。
リョクとミドリは、眼に涙を浮かべながらも、深く頭を下げた。
「ラプラス」
「!くぅん!」
「来い」
シンジが手を差し出す。
ラプラスは顔を輝かせ、シンジに抱きついた。
器用に前ひれでシンジの足をつかみ、顎を肩に乗せ、シンジに知りよる。
シンジもそれに答え、ラプラスの首をなでた。
「私は甘くないからな?」
「くぅん!」
シンジのニヒルな笑みに、ラプラスは無邪気に笑った。
夜。サトシ達は森の途中でテントを張り、野宿をしていた。
セレナたちがすっかり根言っている中で、シンジは横たわる大木に腰掛けながら、ラプラスのボールを見つめていた。
「(まさか、私がポケモンを託されるとはな・・・)」
シンジは自嘲した。
きっと、ミドリたちは過去の自分を知れば、娘のように可愛がってきたラプラスを自分に預けるようなことはしなかっただろう。
決して赤ん坊でもなく、根性もあるヒコザルをつぶしかけ、挙句手放したなんてことを知ってしまえば。
「(潰して、しまわないだろうか・・・)」
ラプラスは見た目は大きくても赤ん坊だ。
シンジの修業はセレナが顔をしかめ、シトロンに厳しすぎるのではないか、と指摘を受けるくらいには、過酷なものだ。
シンジのポケモンたちは皆一様に強さを求めるポケモンたちだ。
強くなるためならどんなことでもやってみせるという気概を持っている。
そして、それを乗り越えられるだけの根性がある。
根性だけなら、サトシのポケモンにも引けを取らない。
――――けれども、ラプラスは?
赤ん坊のラプラスが、最初から自分の課す修業についてこれるとは思っていない。
徐々に慣れさせていくつもりだ。
もうヒコザルの二の舞となるポケモンは生み出さないと、シンジは心に誓っていた。
けれども、また間違えてしまったら?
ぞくりと、背筋が震えた。
「シンジ、」
「!」
唐突にかけられた声に、柄にもなく肩がふるえる。
振り返ると、ラフな格好をしたサトシがいた。
その手にはサトシの上着が抱えられている。
「そんな薄着で・・・。風邪引くぞ?」
「平気だ。寒さならシンオウで慣れてる」
「だーめ」
自分に着せるためにわざわざ持ってきたらしい上着を肩にかけられる。
しかし、肩幅が合わず、すぐにずり落ちてしまう。
もう一度きちんと着せられ、肩を抱き寄せられた。
「考え事?」
「・・・ああ、」
シンジがラプラスのボールをそっとなでた。
サトシはきっと、自分の考えていることなど、わかっているのだろうと思いながら。
「・・・シンジ。お前が何考えてるのかわかんないけどさ。あいつは、シンジのことが大好きだよ」
――――だから、大丈夫。シンジならきっと。
サトシは穏やかな笑みを浮かべて、シンジの髪をなでた。
「(ああ、もう・・・。どうして・・・)」
どうしてこうも、すべてを悟られてしまうのか。
シンジは泣きたいような、笑いたいような、なんとも言えない感覚を味わった。
このまま泣いてしまいたい。そうすればきっと、彼は自分を優しく抱きしめてくれる。
けれどもそれは、きっと彼の望む表情ではないから。
「うん、」
シンジは精いっぱい笑って、かみしめるようにうなずいた。
(君の言葉は、いつだって私を救ってくれる)